飲食を貪り、貨賄を冒り、侵欲崇侈して、盈猒すべからず。飽食も贅沢もしつくし足りず強奪しても乾き飢え、満足したためしなし
士匄はもちろん、そこまでの神速を予想していない。が、彼は以前こうも言っている。
――『信』とは個人間の約定ではない。常に国を思いおのが職分を越えずまつりごとを行う
いつか
ただ、門を護るものどもは全く役に立たなかった。むろん、門番たちも士匄に報告はもちろん、防衛も命じられている。問題の巫女が現れれば、すぐに対処するつもりであった。
よもや、怒りで我を忘れた巫女が、門ではなく
「くそ、山猿は儀も礼も常識も謙譲も知らぬ!」
士匄は吐き捨てる。
「正門、南より来られるなら私も共に動きましたが、これはよろしくない。あの者、心が乱れ巫覡としてなっておらぬが、能を忘れてはおらぬ。北より来ました。
「お、前。この期に及んで、逃げるのか!」
淡々と長口上をする巫覡に、士匄は怒鳴った。士匄は確かに霊感はすぐれており、知識もややあろうが、素人である。本職の前に
「口添えはします、護符も渡すことはできます。しかし、この場が壊れれば、負けます。助ける、処する、などということを言ってられない。士氏は祟られ呪われ、
城下の盟。つまりは無条件降伏、完敗、恥辱屈辱屈服。あまりの言葉であった。怒りの増した士匄がなおも怒鳴る前に、
「士氏の内側のお言葉をさえぎり、ご容赦願います。
趙武の言葉に、士匄は少し茫然とした。備えあり、自信あり。そうかまえていた己が、実は薄っぺらいものに立っていたことに気づいたのである。焦り、という薄っぺらくやっかいな感情に囚われ、巫覡へ知らず知らずのうちに依存していたのだ。思わず歯ぎしりをする。己の未熟さこそ、腹立たしいことはない。常に攻め、欲しいままに勝つのが己である、負けぬことに拘泥するなど、なんとみっともないことだろう。
士匄は、とん、とん、とこめかみを二回叩いて、静かに言葉を紡ぎだす。
「
すらすらとした、嗣子の
「すぐさまに。邸北側を臨む堂はそのまま
「あー。じいさんの『じいさま』か。いざとなったら言上の足しになろう。……
士匄のやらんとしていること、そして憑きものの落ちたような様子に、ポカンとなっていた趙武は、あわてて頷いた。士匄は短気でやりすぎた失敗というのが目立つ男である。が、それでも頼りになる才と我の強さがある。今、進んでいる時、彼は後ろを見ていない。趙武は士匄が何を見て歩んでいるか、わからない。が、わからずとも後ろは気をつけてやれば良いだけであった。
足早に邸を進む士匄に続き、趙武が足早についていきながら
「どうするのですか?」
と問うた。士匄はさすがに、鈍い、と返さなかった。
「
そこまで言って、士匄は一拍置く。
「一羽雄鶏と一頭の
「ああ、それで冠ですか」
「大司空として任じられた際にいただいた、我が家の家宝だ。法の象徴でもある。欲を司るものには、まあ対峙できるであろうよ」
大司空とは士氏の祖というべき高祖父のみが任じられた、都市と民を管理し、法制を整え施行した役職であり地位である。晋にて士という一族が成り立った基礎と言ってよく、士匄の中に受け継がれる血脈と土台であった。
最も北面の堂にたどり着いたとき、既に簡易の場は設けられており、
女。巫女。
皐がその仮面で表情を消し、異界のヒトとして、士匄たちに向き直る。士匄は、粗末な
士匄は、威儀正しく、所作美しく座し、すっと息を吸った。趙武が金色に磨かれた小刀や、異常な空気に怯え身をすくむ生け贄どもを引き寄せ用意し、横に控える。
「……
士匄が目で趙武を促す。趙武が頷き、すかさず儀に則り雄鶏を出し押さえつけて、首をゴトリと落とすと、返す刀で股の間に刃を刺し抜いた。血が飛び散り、趙武の衣は汚れたが、二人とも顔色一つ変えない。
ほんの少し、空気が流れる。澱みに変化が起きる。
「お、お前えぇ!
高位の山霊で圧してこようという気配を察し、皐がおのが山霊、神獣に祈る。その神獣は、士匄たちから見れば凶獣でしかない。
「前に坎、後ろに昆。すなわち
趙武が猪の子の首を刺し完全に動きを止めた後、耳を切って皿に載せた、血の中に耳が添えられているようであった。士匄がすかさず、玉璧玉珪を堂から投げ捨てる。それは、皐の方向へ飛んで落ちた。
「雄鶏ひとつ、猪子ひとつ人の育てし贄と山で生まれた贄を喜ぶ公平さ、
天子の前でもここまでできまい、というほどの見事にぬかずくと、士匄は目を閉じた。
「あ、あ」
皐の体に描かれた文様が粉のように散らばり、霧散していく。異人の仮面がボロボロと崩れ落ちた。影にいたであろう
趙武には、風が、空気が渦巻いた、と見えた。士匄には、重圧としか思えぬ
「何か、影のようなものが、巫女に、降りて……」
趙武が目を見開いて、茫然と呟く。木陰、日影。そのようなものとは違うが、影、としか形容しようがないものが、巫女を覆うように降りてきていた。
が、士匄はそんなもの見えていない。何が影だこいつ、と叫びたいが、そんなことをすれば、ご機嫌をそこねてお帰り遊ばれるであろう。お怒りのあまり、こちらを蹴散らすかもしれぬ。
天を覆うほど大きな頭が、まず目立つ。厳かな賢人の顔で髭の長さは不老不死と
人面だが目の無い羊。獣でしかない
強大すぎる異形の圧力に鼻血を出し、嘔吐しながらも、彼女は膝を屈せず、立った。怯える狍鴞を撫で、
「おとうさんをよぼう」
と小さく励ましてやる。
呼び出した山霊の圧力に耐えながら睨み付ける士匄を、皐はやはり圧迫に耐えながら睨み付け、一歩ずつ、歩いた。地が、重力に耐えかねるように沈む。その足をむりやり抜いて、また歩く。
士匄はこれ以上の言上はできぬ。残っているものは、あの神にお帰りいただく言葉しかない。が、動くことくらいはできるのだ。
「伯さまは、欲が、必要! あたしに、その贄を寄越せ、財を寄越せ、知を寄越せ、伯さまを返せ、すべて、すべて、食う、食い、食わせる、食わせろぉ! お、お! おおおおおおおおお!」
皐が、獣のような吠え声と共に己の爪を強引にむしり取り、地に撒く。撒いてはむしり取り、指先が血にまみれ、激痛走ろうが、爪を剥ぎっては撒いた。
静かについて回っていた狍鴞が、赤子の声で泣きだした。ああーん、ああーん、ぎゃあああん、ぎゃあああん。夜泣きのようであり、遠吠えのようである。
瞬間、夏の陽光に照らされていた場が、暗闇に溶けた。中天に日あり、しかし闇に入る。陰陽を備え、神気と瘴気を纏っていた山霊が、膨れあがりつつある瘴気に飲み込まれ、声なき悲鳴を上げた。その、長い蛇の尾をのたうち回らせる。その鱗に日の加護は無い。
空に渦巻く瘴気から、ずう、と大きすぎる羊の
「な、にあれ」
枯れた趙武の声に、士匄が
「くそったれ」
と、貴族令息にあるまじき雑言を吐き捨てる。
それは、カタチしかなく、ご本人ではない。しかし、だから何だというのか。淡い影だけでも、一国を平らげることなどできるであろう。羊の体に虎の口、人の面に禽獣の瞳。大きすぎる羊の両角は美しい弧を描き、規則正しい螺旋をかきながら直状に伸びている。完全なる左右対称、歪な異形であるにも関わらず均整の美しさ。絢爛かつおぞましい、そして、全てを喰らいつくす混沌の一つ。
「貪って、全てを貪って、伯さまにそのすばらしさを、全てを食べることこそ生きること、勝つこと、ご教示ください、お恵み下さい! 我が神獣の父、四方の護り、
皐は指先を喰われながら、歓喜の声をあげた。
そのころ。士氏の巫覡はとんでもない瘴気と圧迫に身を苛まされながら、必死に護りの陣を整え続ける。
ゆえに、荀偃がいなくなっていたことに気づかなかった。気づきようもなかった。
「皐を、いたわってやらないと」
枯れ木のような体をかかえ、荀偃は歩き、その歩みはどんどん早くなっていく。彼は四つ足で邸を北へと走り抜けていた。
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