斎の言為る斉なり、体を清めるときは、まず心から
どちらも譲らず引かず、完全な膠着状態の時、
「
そこまで言い、趙武は一拍置いた。演出などではない。言葉が詰まったのである。息を吸い、胸を張ると再び口を開く。その声は、霜降りるほどに冷たい。
「……こちらは
巫覡が、息を飲んだ。趙成子は穏やかな人であったと伝えられている。その彼をして、趙氏を粛正した景公の夢に現れ、怒りのあまり踏みつけ呪った、というのも一部で有名であった。それほど、祖霊というものは激しさを持っている。
巫覡は、拝礼し、士匄を通した。嗣子から漂う気配に、泥のような不祥だ、と眉をひそめる。持っている荀偃から怖気が走るような瘴気がダダ漏れであり、霊感体質の士匄がほとんどを吸ってしまっている。せめて、一番守り固く浄い場所に連れて行くしかない。巫覡はため息をついた。なんというか、もったいない、と常に思う。士匄はこの世において多才らしいが、巫覡からすればこちら側の天才だ、と言いたい。研鑽もなく祖霊を呼び出し、おぼろげなほどの
扉が南向きに面した室のひとつに、士匄たちは落ち着いた。最も南に面した室は主人の棟である。つまり、もっとも堅牢で
「その
巫覡の言葉に士匄は頷く。巫覡がそのまま
「荀氏の嗣子の腋に、目がございませぬか」
と、おおよそ、まともとは言えぬことを問うた。趙武があっけにとられている前で、士匄が荀偃の服を剥ぎ取っていく。貴族は人前で肌を見せぬものであるから、士匄のこれは、非礼甚だしい。趙武はあわてて止めようとしたが、手で払いのけられる。あわれ、荀偃はやせこけた体を趙武の前にさらすことになった。そう、趙武にとってはやせこけた体であるが、士匄と巫覡にとっては、毛が生えだした異形である。
士匄は荀偃の腕をあげ、腋を見た。うっすらと、まぶたらしきものができており、閉じられた目が浮かび上がっている。
「これか」
「……まだ、成っておりませぬが、このままであれば、人でなくなります」
「ちっ。どこまでこの御仁は手がかかるのだ! 全く、わたし以外のものの言うことなど聞くから」
巫覡と士匄の話についていけず、趙武はあわてた。意味が全くわからず、そして忘れられていると気づき、不快でもあった。
「いったい、なんなんですか」
趙武の棘のある言葉に、士匄はしらけた目を向けた。わからぬなら黙ってついてこればよいのに、という顔であった。察した趙武が、そういうわけにはいかないでしょ、とにらみ返す。巫覡としては、士匄を飛び越えて趙武に返答するわけにもいかず、困惑した。
結局、士匄が神妙な面持ちで口を開く。
「……
「もちろんです。バカにしているんですか」
貴族であれば、どのような下級のものでも知っている名を出され、趙武はかなり不愉快になった。知っているか? と問われるのもバカバカしい。
「マクラだ、マクラ。さてそのうち四席の柱、
「……あの、この室は
趙武は巫覡に聞いた。士匄があごをしゃくり、答えろ、と示す。巫覡は、大丈夫です、とだけ言った。この場は清浄かつ堅牢、不詳及ばず声は漏れず。趙武は、深くため息をつく。
「縉雲氏の不才の子、食を貪り、財を貪り、人の道に
「でも、范叔。饕餮は
四凶は世界の果てに縫いとめられ動けず、しかし存在するだけで不吉を撒き散らす。本来なら、口に出すのも不祥の名を、何故出したのか。趙武が士匄をひたりと見つめて問うた。士匄は一瞬だけ荀偃に目を移す。このお人好しは、己がいかに危険な状況かを知るまい。そう思うと、腹立ちが募る。
「中行伯を惑わした淫祠の巫女は、鉤吾の山のものらしい。この山に獣あり、その身は羊の如く人面、腋の下に目があり、虎の歯、人の爪、赤子の泣き声で人を誘い食う。その名は
西山三首の天山。晋より隣国を越えたはるか西にある山々のひとつである。趙武は思い出しながら頷いた。帝江は渾沌と同じく
「それで、だ。狍鴞は饕餮の写し身だ。渾沌にしても饕餮にしても、四凶は悪神であるが、神には違いない。狍鴞も獣だが、山を護ってはいるのであろう……とでも、淫祠の巫女は考えたか。中行伯は狍鴞に取り憑かれている、でいいのか? おい」
士匄は堂々かつ滔々とそこまで話して、最後に巫覡に振る。確信もないくせに力強く主張するのも士匄の悪い癖である。趙武は、またトンデモネタを、とうんざりした顔をした。
「我が主への問いにお返しします。取り憑かれている、という言葉は当たらずとも遠からず。荀氏の嗣子は、狍鴞の力を取り込んでおられる。そうならば人の形をとるなど難しいのですが、それをこの石の護符がむりやり押さえ込んでいる様子。巫女は狍鴞の力を荀氏の嗣子に捧げた上で、人として成り立たせようと無茶をしている。淫祠という言葉は間違っておりますまい。荀氏の嗣子の腋に目ができかけ、手足も半ば羊になりかけております。……趙氏の長は巫女の幻がきっと映っておりますから、おわかりになられぬでありましょうが、人でありながら獣になりかけている。獣になれば、人を食う。いや、今からでも食っておかしくない。主たちは大丈夫でしたか」
巫覡の言葉に、士匄は、
「問題ない」
と大嘘をついた。荀偃は確かに士匄を食おうと噛みついている。が、趙武はそれを見ていない。ゆえに、みな、士匄の嘘を信じた。
「お前の言うことを信じれば、巫女が止めているとなる。それでは、淫祠のクソ女を殺しても、中行伯は助からぬとなる。それは許しがたい、助けろ」
士匄が、巫覡にねじ込むように睨み付け、命じた。巫覡は途方にくれた顔をしたが、頷いた。
「とりあえず、今夜いっぱい私が祓えば、狍鴞に成り代わろうとしていることを、止め、遅らせるまではできましょう。しかし、その巫女は荀氏の嗣子と繋がっており、狍鴞が消え失せるわけでもございません。明日、荀氏にきちんとお話し、巫女に責をとらせ、きちんと祓う儀を行うよう、願います。私は全てをできるわけじゃあないんです、あ、めんどくさそうな顔しないでください、あなたはいつもいつも私を便利扱いしますが、巫覡は何でもできるってわけじゃあないの、おわかりでしょう、祖霊も字引扱いされて、なんでもかんでも便利扱いしてるんじゃあないですよ」
神妙な顔つきをしていた巫覡が、最後には親戚のおっちゃんの顔で、士匄にこんこんと説教をした。士匄は、知るか、という顔をして、け、と唾を吐いた。酷すぎる態度であった。趙武は笑って良いのか呆れて良いのか、と顔を引きつらせる。そうして、家族の会話ってこんなのかあ、となんとなく思った。
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