斎の言為る斉なり、体を清めるときは、まず心から

 どちらも譲らず引かず、完全な膠着状態の時、趙武ちょうぶが前へ進み、口を開いた。

氏の巫覡ふげきとしてのお役目、ご苦労さまでございます。あなたがたの守護としての使命、大変重要なことでしょう。しかし、所詮は家のうちがわの者でございます、捨てようとすることが士氏の危機であることにお気づきでない」

 そこまで言い、趙武は一拍置いた。演出などではない。言葉が詰まったのである。息を吸い、胸を張ると再び口を開く。その声は、霜降りるほどに冷たい。

「……こちらはじゅん氏の嗣子しし中行伯ちゅうこうはくです。今、不祥に見舞われ惨い目にあっているご様子、范叔はんしゅくが心をいため、お連れしました。もし、士氏が荀氏の嗣子を捨て、見殺しにしたならば、両家の交誼は潰えるでしょう。また、士氏が己かわいさに人を見捨てたとして不義不仁の家と皆は見なすことになる。あなたが黙り、范叔が口をつぐんでも、私という証人がおります。けいの家に連なる方を自儘に捨てる嗣子がいるお家が、この後、どのように国を背負うというのです。いえ、誰もそのような責を負わせず、人は離れ、終わり良くない。范武子はんぶしの余光ありといえど、いずれ滅びることとなる。士氏の巫覡は目の前の小石を許せぬとして、大きな災いを呼び寄せるおつもりですか。文公を支えた趙成子ちょうせいしすえちょう氏の長としてそのさまを見届けましょう。ところで、卿の血筋を絶えさせようとした先代景公けいこうは、祟られ、夢の中で寿命を食われたそうですよ。ええとぉ。たしか、趙の筋を滅ぼそうとは許せぬと我が曾祖父じきじきに――」

 巫覡が、息を飲んだ。趙成子は穏やかな人であったと伝えられている。その彼をして、趙氏を粛正した景公の夢に現れ、怒りのあまり踏みつけ呪った、というのも一部で有名であった。それほど、祖霊というものは激しさを持っている。荀偃じゅんえんを見捨てることで、士氏が荀氏に祟られ呪われる、と趙武は指摘したのである。その上で、国から浮き上がり社会的に死ぬ、と。巫覡一人の手に余る話であった。

 巫覡は、拝礼し、士匄を通した。嗣子から漂う気配に、泥のような不祥だ、と眉をひそめる。持っている荀偃から怖気が走るような瘴気がダダ漏れであり、霊感体質の士匄がほとんどを吸ってしまっている。せめて、一番守り固く浄い場所に連れて行くしかない。巫覡はため息をついた。なんというか、もったいない、と常に思う。士匄はこの世において多才らしいが、巫覡からすればこちら側の天才だ、と言いたい。研鑽もなく祖霊を呼び出し、おぼろげなほどのを見る。空に飛ぶ鳥に祖霊を見ることができるのは、なかなかにいない。少し修養すれば、天の声も聞けるであろうし、己の筋でもない祖霊とも会話できるであろう。下手をすれば、天帝の元へ魂を飛ばせるほどの天稟てんぴんの才を持っている。が、彼は士氏の嗣子として生まれた。民の子であれば、保護し、後継者としてしまいたいくらいであったが、こればかりはどうしようもない。こんな自儘で我の強いガキが次の主というのも気が重い。結局、ただの境界が危うい青年ができあがっただけである。才能など、磨かねば石ころと同じ、という良い見本であった。

 扉が南向きに面した室のひとつに、士匄たちは落ち着いた。最も南に面した室は主人の棟である。つまり、もっとも堅牢できよい。が、そこはさすがにいれられぬと、巫覡がを見た結果の場所であった。士匄は巫覡に子細を話しながら、荀偃を床にそっと寝かせた。こういったときの士匄の弁は見事である。短く的確、要領を得ている。趙武は羨ましいと思いながら聞いた。

「その淫祠いんし鉤吾こうごの山の者と仰ったのですな」

 巫覡の言葉に士匄は頷く。巫覡がそのまま

「荀氏の嗣子の腋に、目がございませぬか」

 と、おおよそ、まともとは言えぬことを問うた。趙武があっけにとられている前で、士匄が荀偃の服を剥ぎ取っていく。貴族は人前で肌を見せぬものであるから、士匄のこれは、非礼甚だしい。趙武はあわてて止めようとしたが、手で払いのけられる。あわれ、荀偃はやせこけた体を趙武の前にさらすことになった。そう、趙武にとってはやせこけた体であるが、士匄と巫覡にとっては、毛が生えだした異形である。

 士匄は荀偃の腕をあげ、腋を見た。うっすらと、まぶたらしきものができており、閉じられた目が浮かび上がっている。

「これか」

「……まだ、成っておりませぬが、このままであれば、人でなくなります」

「ちっ。どこまでこの御仁は手がかかるのだ! 全く、わたし以外のものの言うことなど聞くから」

 巫覡と士匄の話についていけず、趙武はあわてた。意味が全くわからず、そして忘れられていると気づき、不快でもあった。

「いったい、なんなんですか」

 趙武の棘のある言葉に、士匄はしらけた目を向けた。わからぬなら黙ってついてこればよいのに、という顔であった。察した趙武が、そういうわけにはいかないでしょ、とにらみ返す。巫覡としては、士匄を飛び越えて趙武に返答するわけにもいかず、困惑した。

 結局、士匄が神妙な面持ちで口を開く。

「……趙孟ちょうもう四凶しきょうは知っているな?」

「もちろんです。バカにしているんですか」

 貴族であれば、どのような下級のものでも知っている名を出され、趙武はかなり不愉快になった。知っているか? と問われるのもバカバカしい。しゅんの時代に四方――これは方角ではなく、地の果ての意味である――に追放され封じられた四柱の悪神である。彼らは血筋良く、能力もあったが、性情行い甚だ悪く、災いそのものに近い。子供でも知っている、と趙武はさすがに憤慨した。

「マクラだ、マクラ。さてそのうち四席の柱、縉雲しんうん氏の不才の子、飲食貪り貨賄おかし、侵欲しんよく崇侈すうし、満ち足りるを知らず。これもご存知であろう」

「……あの、この室はなのですか」

 趙武は巫覡に聞いた。士匄があごをしゃくり、答えろ、と示す。巫覡は、大丈夫です、とだけ言った。この場は清浄かつ堅牢、不詳及ばず声は漏れず。趙武は、深くため息をつく。

「縉雲氏の不才の子、食を貪り、財を貪り、人の道にもとるその者、饕餮とうてつ。名は体を表します」

 とうてつも食と財をむさぼるという意味の漢字であり、おのがものはもちろん、他者のものを奪い全て貪り食い、けして分け与えることはない、まさに饕餮という獣そのものの字義である。荀偃が土まで食うほどのものとなったこと、趙武の隠していた欲がかき立てられたこと、浅ましく貪るという意味で符号の一致があるのかもしれないが、飛躍しているとも言える。そして、なにより。

「でも、范叔。饕餮は舜帝しゅんていによって四方へ投ぜられ、今も魑魅ちみを防ぐために場から動けぬはずです。おおいなることわり、四凶を以てしてもそのくさびから抜け出すことはかないません。あなたは何故、饕餮の名を」

 四凶は世界の果てに縫いとめられ動けず、しかし存在するだけで不吉を撒き散らす。本来なら、口に出すのも不祥の名を、何故出したのか。趙武が士匄をひたりと見つめて問うた。士匄は一瞬だけ荀偃に目を移す。このお人好しは、己がいかに危険な状況かを知るまい。そう思うと、腹立ちが募る。

「中行伯を惑わした淫祠の巫女は、鉤吾の山のものらしい。この山に獣あり、その身は羊の如く人面、腋の下に目があり、虎の歯、人の爪、赤子の泣き声で人を誘い食う。その名は狍鴞ほうきょう。……四凶自身は確かに四方、つまりから出ることあたわず、ただ舜帝の命に務めるのみ。しかし、その端末がにある。四凶一席、帝鴻ていこう氏の子である渾沌こんとんは知恵者であり、悪心持つが血筋良く、こちらには神性を置いている。西山せいざん、三の首に連なる天山てんざんにいる帝江ていこうだ」

 西山三首の天山。晋より隣国を越えたはるか西にある山々のひとつである。趙武は思い出しながら頷いた。帝江は渾沌と同じくかおも目も無い神で、歌舞を司る。歌舞は神降ろしの儀式に欠かせない。

「それで、だ。狍鴞は饕餮の写し身だ。渾沌にしても饕餮にしても、四凶は悪神であるが、神には違いない。狍鴞も獣だが、山を護ってはいるのであろう……とでも、淫祠の巫女は考えたか。中行伯は狍鴞に取り憑かれている、でいいのか? おい」

 士匄は堂々かつ滔々とそこまで話して、最後に巫覡に振る。確信もないくせに力強く主張するのも士匄の悪い癖である。趙武は、またトンデモネタを、とうんざりした顔をした。

「我が主への問いにお返しします。取り憑かれている、という言葉は当たらずとも遠からず。荀氏の嗣子は、狍鴞の力を取り込んでおられる。そうならば人の形をとるなど難しいのですが、それをこの石の護符がむりやり押さえ込んでいる様子。巫女は狍鴞の力を荀氏の嗣子に捧げた上で、人として成り立たせようと無茶をしている。淫祠という言葉は間違っておりますまい。荀氏の嗣子の腋に目ができかけ、手足も半ば羊になりかけております。……趙氏の長は巫女の幻がきっと映っておりますから、おわかりになられぬでありましょうが、人でありながら獣になりかけている。獣になれば、人を食う。いや、今からでも食っておかしくない。主たちは大丈夫でしたか」

 巫覡の言葉に、士匄は、

「問題ない」

 と大嘘をついた。荀偃は確かに士匄を食おうと噛みついている。が、趙武はそれを見ていない。ゆえに、みな、士匄の嘘を信じた。

「お前の言うことを信じれば、巫女が止めているとなる。それでは、淫祠のクソ女を殺しても、中行伯は助からぬとなる。それは許しがたい、助けろ」

 士匄が、巫覡にねじ込むように睨み付け、命じた。巫覡は途方にくれた顔をしたが、頷いた。

「とりあえず、今夜いっぱい私が祓えば、狍鴞に成り代わろうとしていることを、止め、遅らせるまではできましょう。しかし、その巫女は荀氏の嗣子と繋がっており、狍鴞が消え失せるわけでもございません。明日、荀氏にきちんとお話し、巫女に責をとらせ、きちんと祓う儀を行うよう、願います。私は全てをできるわけじゃあないんです、あ、めんどくさそうな顔しないでください、あなたはいつもいつも私を便利扱いしますが、巫覡は何でもできるってわけじゃあないの、おわかりでしょう、祖霊も字引扱いされて、なんでもかんでも便利扱いしてるんじゃあないですよ」

 神妙な顔つきをしていた巫覡が、最後には親戚のおっちゃんの顔で、士匄にこんこんと説教をした。士匄は、知るか、という顔をして、け、と唾を吐いた。酷すぎる態度であった。趙武は笑って良いのか呆れて良いのか、と顔を引きつらせる。そうして、家族の会話ってこんなのかあ、となんとなく思った。

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