辞を以て人を尽くさず、言葉だけで人柄がわかるわけ無いよねえ

 馬車にて控える氏の手勢たちは、夏の蒸し暑い中、少しだらけた姿勢で、主人を待っていた。いまだ日は高くなく、嗣子ししおさも帰る時間ではない。控えている小者の態度が家の軽重を問われる、と怒られることもない。が、予想に反して、嗣子が慌てた様子で現れた。しかも、人を連れて、である。気を失った荀偃じゅんえん、それを抱きかかえる士匄しかい趙武ちょうぶを見て、ただならぬことだと士氏の手勢は少しうろたえたが、傲岸な嗣子が

「さっさと出せ」

 と怒鳴りつけてきたため、おとなしく従った。何が起きたのか、などと問おうものなら、蹴り飛ばしてきそうな勢いであった。当然、彼らには荀偃が気絶しているだけに見えている。よもや骨と皮ばかりが真の姿とは思わなかった。

 広くもない馬車に若者三人、しかも一人は昏倒している。息苦しささえあったが、では降りますと趙武も言えぬ。己の馬車で追いかければ良いと気づいたのは、出発してからであった。

 士匄が荀偃を膝に乗せ、静かに見ていた。その表情は彼らしくなく重いもので、体を気遣わしげに撫でている。やせこけた荀偃の体は衣服に押しつぶされそうなほどであり、趙武も困惑の目を隠さない。

 ふと、場の空気の悪さに趙武は気づく。荀偃の体からじわりと瘴気しょうきがあふれ、それが士匄にまとわりついていた。士匄といえば、ときおりうっとうしそうにそれを手で払う。払ってもまとわりつき、また払う。その仕草を見ているうちに、最近の士匄は不祥無く雑霊にもつきまとわれていないことに気づく。趙武は馬車の中を見回した。薬湯でもあれば、と思ったのだが、暑さをしのぐための扇くらいしか見当たらない。

 趙武の動きで察したらしい士匄が口を開く。

「邸と宮城の往復だけなのだ、特に備えなど無い」

范叔はんしゅくはお体がユルユルの方です。立っているだけで雑多なが近づいてくるではございませんか。何の備え無くお越しになるのは、ゆるみすぎではございませんか」

 士匄は苦い顔をした。趙武の言葉は正鵠を得ていたが、たとえが卑語すぎる。

「そのユルユルというのをやめろ。別にわたしは誰でも受け入れる尻軽ではない。が勝手に寄ってくるだけだ。いやそれはともかく、だ。春の一件以来、強い護符を仕込んでいたのだ。が、それも先ほど全て消えた。まあ、そこらで漂うが寄ってきてもおかしくないのだが、今はこれが強すぎて近づいてこぬらしい」

 つい、と荀偃の袖をまくり、無数の石が埋め込まれた無惨な腕を示す。そこには石をむしり取った傷が布で縛られていた。馬車に乗り込みすぐに、士匄がほどこしたものである。趙武にはただ痛々しい腕でしかないが、士匄の目にはとめどなく瘴気があふれ出す不祥そのものであった。

「……理由は拾った巫女であろうが、中行伯ちゅうこうはくは呪われているか祟られている。ったく、じゅん氏の巫覡ふげきは何をしているのだ、ここまでになるまで気づかぬなど。我が家の巫覡は優秀だ、なんといっても常にわたしの面倒を見ているからな。中行伯を預けたあとは、荀氏に出向いて問題の巫女を捕まえ罪を問い、処刑する」

 それは極めて静かな声での死刑宣告であった。趙武が手が士匄の腕をそっと撫で、顔を横に振った。

「……それは僭越というものです、士氏の嗣子。あなたは実権をお持ちにならぬ養われる身。確かにけいになるべき者として認められ公族大夫こうぞくたいふの身分を与えられ、研鑽の日々を送っておられます。でも、荀氏の元におられる民を自儘にする権限はございません。中行伯のお父上のお許しが必要でしょう。それを越えてなさるのであれば、あなたではなく、あなたのお父上。士氏はかつて司空しくうとして都市や民の管理、そして法を整えられましたので、士氏の長が捕らえ罪を吟味ししかるべき処分なさるのは理がございます。しかし理しかございません」

 一言一言を確かめるように趙武がまっすぐと見据えながら言った。士匄は苦虫を噛み潰したような顔をしたあと、舌打ちする。最後の、理しか無い、という一言一句まで、趙武が正しかった。

 士匄は士氏という大貴族の嗣子であり、公族大夫というしん独特の身分を与えられている。この身分は職能があるわけではなく、卿の候補者として政治を支える程度のものであった。氏族を越えて罪を問うような権限は無い。それどころか、本来、氏族内の問題に口を出すことは非常識である。士匄の父、士爕ししょう正卿せいけいである欒書らんしょであればできないことではないが、しこりは残る。理しかなく、士氏と荀氏の交誼は壊れかねない。

 全てにおいて前に出ず、正道でものごとを進める士爕が士匄の望みを叶えるはずがなかった。

 士匄は腹立ちまぎれに、麻の敷布を掴むと、趙武に投げぶつけた。趙武は避けずに、謹んで受けた。その上で、もう一度士匄の腕を安心させるように撫でる。

「まず、巫覡の方々に中行伯を診てもらい、何が原因か、不祥が払えるのかを確かめましょう。このように痛々しいお姿なのです、医者も必要ですし、おかゆも用意していただいて、お体の回復がまず肝要。中行伯の不祥が巫女が原因で、離れればなんとかなるかもしれません。そうなれば、あなたの邸でしばらくご養生してもらえば良いと思います。今、重要なのは中行伯のことです。確かに巫女の罪を問うことも大切なことです。でもそれは巫覡の方のご意見を伺ってから、考えましょう」

 趙武の言葉に、士匄が息を大きく吐いた。己の目と目の間を指で摘んで揉み、もう一度息を吐く。

「迂遠な言葉だが、理はある。お前の意見を聞くことにしよう。……八つ当たりをした、無様をさらした、悪かった」

 珍しく士匄は素直に謝った。趙武はいいえ、とだけ返し、笑む。この先達はこういったときの矜持の高さは凄まじいな、とも思った。彼は先ほど趙武がさらした醜態をあげつらい、精神的に傷つけて気を晴らすこともできたのである。あの場で平静を保ったのは士匄だけであった。趙武に対し、お前に何がわかると怒鳴り、卑しい欲を持つものが言うなとすり替えの八つ当たりはできた。が、士匄は意地と矜持と我欲でできあがっているような男である。己がみじめになるような行動を脳からシャットアウトしているのであろう。

 まあ、己よりはるかに小柄な年下に物を投げつけるのも、いかがなものか、と第三者がいれば、もの申したにちがいない。そのあたり、趙武は大雑把であった。たかが麻布であった。

「全く中行伯は、わたしがおらねば……」

 再び荀偃を見下ろしながら、士匄は呟き、息を飲んだ。趙武が、

「何か?」

 と覗きこむ。そこには、やせこけ埋め込まれた石が無惨な荀偃の腕があるばかりである。士匄が、こわごわとした目で趙武を見た。何か、量るような目つきであった。趙武は首をかしげ、何か? ともう一度問うた。士匄は首を振り、なんでもない、と返した。

 士匄は薄目で荀偃の腕を見ながら、袖を戻した。荀偃の腕は二の腕から徐々に毛に覆われ、肘から下は獣の足となっていた。羊の毛に似ていた。冷たい汗が腋の下を流れ落ちていく。ごくり、と唾を飲み込むと同時に、馬車が止まった。――自邸に到着した、という手勢の声に士匄は荀偃を担いで勢いよく立ち上がり、儀礼もくそもなく、飛び出した。趙武があとを追いかけているかどうか、など構う余裕もなかった。

 門内、邸の前に、士氏の巫覡が立っていた。士匄が口を開く前に手で制し、ぬかずくようすもなく口を開く。主筋の嗣子に対して非礼きわまりなかったが、反面、天に仕え祖霊の声を聞き不祥から護るとしては正しい姿であろう。

「そのを門の外へ捨てるよう言上つかまつります。そのような不祥の獣、士氏の嗣子とあろう方が連れてくるなど、嘆かわしいことです、ここは通せませぬ」

 荷物、と趙武が眉をひそめ、士匄を見る。今、士匄が担ぎ上げているのは荀偃のみである。となれば、この巫覡は人間を荷物などと言い放ったことになる。士匄は戸惑うことなく、

「この方は荀氏の嗣子、中行伯である。本日、宮城にて不祥に合われた。本来は自邸にお戻りいただいてお任せするのが筋であるが、急ぎ払った方が良い、わたしの一存でお連れした次第。と、いうことで診て祓え。お前たちは天の声聞き祖霊の思いを受けるが役目と言うが、不祥を祓い防ぐのも役目のひとつだ」

 低くのたまうと、一歩踏み出し、巫覡に襲いかかるようにすごんで士匄は叫んだ。

「何を突っ立っている。わたしはお前の主筋だ、平伏し恭しく頷き、めいに従うが道理であろう!」

 士匄の剣幕に、みな怯え、後ずさる――巫覡以外は。この巫覡は、士氏を護るために存在している。天の声、祖霊の声を聞くのも、全て士氏のためである。士匄が持っているそれは、極めて不吉、けがれであり、邸内にいれるわけにはいかぬ。門の内に入っているだけでも、呪われそうなしろものであった。護るためにも、引くわけにはいかぬ。

「この巫覡めは、主筋を護るためにおりますれば、ここを通すわけにはいきませぬ。その荷物をはよう門の外へお捨てください」

 巫覡の頑なすぎる態度に士匄は歯ぎしりをした。抱えている荀偃の体は、どうも良くない。手足の形は変わってしまっているようである。目もつぶれかかっていた。持っているだけで倒れそうな瘴気が湧いている。

「我が主の子、嗣子に申し上げます。その荷物を捨て、あなたを浄めねばなりません。穢れが移り、おつらいでしょう。あなたはそれを祓うすべを知らぬ。さあ、ご用意いたしますから、く、早く」

 巫覡が優しく言った。幼少の士匄が不祥にまみれ苦しんでいたときに差し伸べた手と声であった。士匄は、カッと吼えた。

「荷物ではない、我が友だ! わたしの、ともだちだ! それ以上繰り言を言わば、口を引き裂き、体を地に打ち庭に晒す。巫覡ごときが、我が友を愚弄するか、わたしを愚弄するも同じだ。お前たちはおとなしく祈り祓えば良い、早く支度しろ」

 それでも巫覡は首を振った。士匄は力づくで押し通してしまいたかった。が、巫覡が妙なことをしてやがる、と勘が働き動けない。この、壮年のお祈り野郎が通さぬと口に出したとたんにこれ以上は無理だ、という念に囚われている。何かしやがった、と睨み付けたが、巫覡は表情を変えなかった。

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