斅うるは学ぶの半ば、人に教えると自分も学ぶ一挙両得。
「全ての事象はひとつのことになりたっているわけではない。滅んだものに因が重いこともあれば、そうでないこともある。わたしはお前の一族のいざこざなど、たいして知らんから、本質の話はできん。が、お前を教え導けと命じられている立場だ、問いには答える。
「全くお優しい言葉ひとつもございませんが、何やら、得心するものありまして、勝手ながら安心してしまいました。そうですね、貪ったというのは正しい気がします。
士匄は、うっわ、きっも、という言葉をきちんと飲み込んだ自分を称賛したくなった。士匄は個人のありかたではなく、抽象的な集団のありかたを言ったのであるが、趙武はそれを己の都合良く受け取り、ついでにトラウマをご披露してくださる。未成熟の現れであろう。趙武の周囲に、趙氏の内部を悪く言うものはおるまい。聞くにあまりに繊細であるからだ。そうなれば、趙武も悪く言えぬ。周囲の善意によって立ち直った趙氏の長としては、淡い父親へも強欲な大叔父たちにも、そして不貞の母親に対しても、恨み言ひとつ言えなかったのであろう。しかし、それが今、じわりと放流された。厳しい家だが何不自由なく育ったぼんぼんの士匄としては、その怨嗟は気持ち悪い、と思うしかない。
まあ、それで、やる気がでるならいいか、と士匄は嫌悪をさっと放りだして思い直した。切りかえの早さは士匄の長所のひとつである。
「今は頭で分かった気になっているだけだ、これから身に溶かせ。人は欲を覚える。欲しがるということは、悪いことではない。生きるということは欲を持つことだ」
「范叔は強欲ですからね、そう思わないと生きていけませんね」
趙武のツッコミは容赦が無い。士匄は苦々しさを隠さず、うるさい、と吐き捨てる。
「混ぜっ返すな。欲がなければ生きる意味などあるか。欲しいものを手に入れて何が悪い。しかし、それに振り回され貪るようであれば、滅びる。その欲をコントロールするものこそ、己が己であるという自信だ。自信無きものが、あれもこれもと手をだし功績をあげようとする、欲のままに手を伸ばし肥え太ろうとする、それが貪るというものであり、一歩踏み入れれば危うく、最後には終わり良くない。あー、だから、今の
最終的に、話が入り口に戻り、趙武は顔を引きつらせた。どれだけ、
「きっかけがアゲマンでも能力があがり学びも食事も進んでおられる。范叔は中行伯がお相手してくださらないと寂しいって拗ねてらっしゃいますけど、良いことだと思います。危なっかしいところ、足りぬところをお支えになればよろしいじゃないですか。それが先達を支える若輩、上席を支える下席の役目というものでしょう」
平気で、アゲマンなどという性的スラングを趙武は言い放つ。前話までもそうなのだが、趙武は己自身の性や女、恋愛に関してきわめて未成熟でおぼこのくせに、性消費にでもありそうな生々しい言葉を口にする。士匄の霊感体質を、毎日受け入れるユルユル、などと罵倒したのもそれである。そのちぐはぐの一旦は、どうも母親への屈折らしい、と士匄は思ったが、同時にどうでも良いと思った。それよりも、趙武が正論でつっこんできたほうに辟易した。きっかけがどうであれ、荀偃がやる気を出しているのであれば、補佐するのが士匄の立ち位置である。おもしろくなくて当てこすりからかい、躱されていたのは認めざるを得ない。
「あ!」
いきなり趙武が声をあげた。士匄は、なんだ、と反射で問うた。
「いえ。最近の中行伯は、食事が美味しい、たくさん食べることができると喜んでおられます。実際、時々おこなう食事の儀礼の学びで、きれいに召し上がっておられます。以前は、咀嚼するのもゆっくりの方でしたから、それはまあ、良いこと……なのですが。違和感で」
「何が」
だらだらと結論が迷子になるように話しだす趙武に、士匄はいらつきを隠さず、促した。趙武がその言葉に気を悪くした様子もなく、頷く。
「えっと、違和感。えっと。あ。あ。シュッとされた、と思ってた、んです、が。痩せてきてませんか」
よく食べると言うわりに、別に体が鍛えられた様子もなく、ただ、どこかおかしくて、違和感があったんです。そう己の記憶をたぐるように呟いたあと、趙武が士匄をまっすぐ見てくる。
「今日、変だな、て思って。そうだ、肌の色も悪く、痩せているというより――やつれてませんか」
士匄は、言われ、数日の荀偃を思い出す。目を輝かせ、議も堂々と行い、問いには即座に答える、全く似合わない、本当に似合わないことをしている
笑みを浮かべるその目の下には、はっきりとした隈があり、いっそ落ちくぼんでいた。
頬骨が目立ち、それは青年期の脱出ではなく、頬がこけている。
衣から見える手は骨が目立ち、それは骨太ではなく、骨と皮ではなかったか。
「あれ? 痩せているどころか、鶏ガラではないか」
「え。そこまでではないですよ、少し顔色悪く、痩せている気がするなあ、てくらいではないですか。明日、事情をお聞きになってはいかがでしょう」
やけに深刻に考え出した士匄に、趙武が笑って柔らかく制した。趙武の脳裏にある荀偃は、食べているというわりにはふくよかにならず、少し痩せた印象、という程度であり、もちろん鶏ガラでもない。士匄が思い込みでおおげざに想像してしまったのだ、と断じた。
士匄も、己の認識に自信が持てぬ。散々男は自信だと言ったやさきにこれであるが、己の考えを断言できるかの見きわめも『自信』のひとつである。士匄は、荀偃の姿がぼやけていた。ここ数日の彼の印象は闊達である。が。実像が思い出せぬ。この、脳裏に浮かんだ骨と皮の飢え死にしそうな男が本来の荀偃だ、などと断言できるほどの材料がない。
「……ち。中行伯のところへ行くか」
ただ、姿を確認したいから、という理由で動こうとした士匄を、趙武はさすがに止めた。いくら友情に篤いとしても重すぎである。士匄は不快を隠さずため息をついたが
「まあ、確かに考えすぎだな」
と受け入れ、学びの続きだ、と趙武を促した。その後、
翌日、士匄は叫び声を喉奥に引っ込ませ、なんとか耐えた。何故、己は気づかなかったのか、と腹がずり落ちる思いであった。
荀偃はニコニコと笑いながら挨拶をしてきたが、目は落ちくぼみ瞼は腫れ眼はつぶれかかっており、頬はこけ、唇はガサガサであり肌にも水気がない。あからさまな栄養失調の姿で、首も手も肉が削がれたように細い。まさに、骨と皮である。
「中行伯、なんだ、それは!」
士匄はしずしずと拝礼する荀偃にどなりつけ、その腕をとると共に部屋を出て行く。え、え、なに? と荀偃がのんびりとした口調で言いながら、引きずられていった。帯止めには、石で作られた無骨で素朴なお守りがいくつもつけられ、動く度に揺れ当たり、コンコンコンと音を立てていた。
みなが唖然としたなか、趙武は我に返り、拝礼した。
「恐れ入ります。范叔がなぜいきなりご乱心されたかわかりませぬが、先日から中行伯をご心配なさっているご様子でした。私は范叔にご教示いただく立場のもの、その行いひとつひとつを良くも悪くも学びとしとうございます。追いかけてよろしいでしょうか」
若輩のリーダーともいえる
「大事になるようであれば、私の父か
部屋に取り残された韓無忌が、ゆったりと
「汝の父は手堅いし、俺の父は有能な
欒黶は選民階級独特の酷薄さと薄情さをさらけだした上で
「それより本日はもう学びなどできまい。汝が議を出そうが、俺はわからん。ゆえ、今日のおやつを二人で食おう。汝が己のぶんだけで良いとなれば、残りは俺が食う。今日の甘味はなんだろう、瓜がいいなあ、瓜」
と、愛嬌のある笑みを見せた。甘みのある整った顔であるため、いっそうかわいげがあった。
韓無忌は容赦無く
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