エピローグ、最後のつじつま合えば良し
汚れた身を清め服を改め、問題の
「軍?」
士匄は思わず呟く。趙武も己の馬車から異様を見る。邑を威圧するように、軍用馬車――
「戎服にて
礼に威あり、儀に美しさあり。しかし野卑なく穏やか。
士匄や趙武も合わせて立ったまま返礼する。趙武は少々拙くなったが、士匄はさすがすらすらと返した。が、闊達とは言いがたい表情であった。そのまま口を開く。
「恐れ入ります、
士匄の言葉に荀罃は手で制し、
「私は
と、穏やかに言った。士匄はそれで意味がわかりだまりこんだが、傍らの趙武はわからない。
「どういうことですか、范叔」
と、士匄に聞いた。荀罃に問わなかったのは僭越になるからである。士匄は困惑した顔を隠さず口を開いた。
「知伯は我が邑を囲み攻めるおつもりであった。ということだ。……あなたが独断でお考えになるはずがない、父上の考えですか。何故」
趙武に答えたあと、士匄は荀罃をまっすぐ見て問うた。正直、この柔和な笑みを浮かべる壮年はやはり怖い。柔和な笑みに嘘は無い。彼は人を圧迫することを考えない人間である。しかし根底は、砂塵巻き血肉引き飛び屍体転がる戦場の男なのである。
「本来、己のことでなければ范叔も気づいたであろうが、汝にとっては未だ私事であったか。仕方無し。
士匄と趙武はひきつり、ひっ、と小さく喉奥で悲鳴をあげた。この先達は、士匄たちが戻ってくるまで待っていたわけではあるまい。決めていた刻限までに、たまたま士匄たちが帰ってきただけなのだ。
「あ、えっと。いや、知伯も父上も、お、大げさでは」
なんとかそれだけを口からねじりだし、士匄は荀罃を窺い見た。一瞬、鷹の目のような視線が貫いてきて、士匄は背を震わせた。
「范叔。私は公事とすると、言った。もし、汝が己で
荀罃の厳しい声が、士匄にぶつかるようであった。士匄は一呼吸をしたあと、拝礼し応える。
「わたしは
士匄の言上に荀罃は、まあ及第点、という顔をした。その後、趙武に目を向ける。
「理はわかったかな?」
その一言で、問われた意味を察した趙武はやはり拝礼し、口を開いた。
「実は、山神であった、ということで、贄にしたのは理に適いますが……。知伯はそれが分からぬ前から理であるとおっしゃってました。それは、素衣素冠の男の正体がわかっておられたからですか? 私には、男が狂人と疎まれわからぬことを言っていた、とされていてもいきなり殺し贄というのは、わかりません」
素直な言葉に、荀罃が少し優しく笑んだ。趙武はこれから多くのことを学ばねばならない。十五才まで隠され生きてきた彼は、どこか貴族的価値観から浮いているところがある。それを本人も自覚し、常に努力もしている。その趙武を慮り、荀罃は先達として優しさを向けた。
「わからぬことを羞じなくてもよい。これから覚えていけばいい。はっきりいえば、素衣素冠の男が何者であろうが、私は殺し、贄にした。ただ、名乗りをさせる儀を忘れてはいけない。それにより儀式が違う場合がある、程度の話ではあるけどね。その男は、邑から外れた存在でありながら、所有を主張した。そして新たな所有者に譲らぬと言う。ならば、戦の作法として宣戦は受け、そして勝ち、殺して贄にするは当然だろう? その素衣素冠の男は、その男が何を主張しようが、邑を侵す外敵であることにかわりはない。邑を持つ、民を養うというのは、そういうことでもある」
諭すように言う荀罃に趙武は黙って拝礼した。荀罃の言うことも道理、それを踏まえて動いたのであれば士匄も道理である。そう受け止めながらも、趙武は
戦い倒す以外に道は無いのだろうか
と考えた。趙武の表情を見て荀罃は察したらしいが、それ以上何も言わなかった。彼の役目は終わったのである。士匄たちが全てを収め帰った以上は、荀罃のすることなど、もう何もなく、彼は手勢を率いてさっさと去っていった。
「我らも帰らねばならぬが、まあこの邑に泊まっていけ、趙孟。我ら野営ばかりで進んでいた。わたしは疲れた、床でまともに寝たい」
士匄の言葉に趙武が思いきり頷いた。ようやくのんびりできるというものであった。
「そうですね。范叔はずっと、えっと地雷女? みたいなもののせいで不祥にまみれてましたから、やっと息がつけますね。でも、どうしてそのご面倒でしつこい女性は范叔と一緒に死のうとなされたのでしょう。お嫌いになられたのでしょうか。あれ? そうしたら自分も死のうと思いませんよね」
後を追いかけながら首をかしげる趙武に、士匄は何度目かの苦い顔をさらし、
「その話はいいかげん、忘れろ!」
と怒鳴った。
さて、以降は顛末、オチ、余談である。
士氏が
「どうしてですか! 父上!」
知った士匄は情けない顔で訴え縋った。命をかけて祟りを祓い、名実ともに己の所有となったのである。正確には士匄が受け継ぐ領地となった、である。それはともかく、納得がいかなかった。
「汝が公事にしたがため、おおやけとして
言外に、お前の差配のせいである、とくぎをさして
「……
いつもなら、黙って頷けと殴ってくる父親が、本気で心配し、憂い、幼子を見る目を向け、ため息をついた。常に自信を持ち不敵不遜である士匄は、言い返すこともなく引きつった顔で、身を縮込ませる。二十半ばの息子としてはどうしようもなく、いたたまれなかった。
「ご、ごめんなさい」
士匄は、幼児のような言葉で思わず謝った。
趙武と言えば、久々に祖霊の
「ただご挨拶したかっただけです」
と趙武は断り、廟で一人、祖霊に拝礼した。曾祖父、祖父、父が祀られているのだが、趙武はその三名の顔全てを知らない。会ったこともない。趙武が生まれた時には全員死んでいる。
「縁もゆかりもない山神をこちらに移して祀るはめにはなりませんでした。公室の
趙武は父の傍らにある小さな社に話しかけた。この、趙氏の廟には、氏族でないものが一人、祀られている。名を程嬰と言い、趙武の父の親友であり、趙武の育ての親でもある。彼もすでに
――人生の言葉は先人の記録か、生きている先達から学ぶことだ。死者を呼び出し学ぶは凶事――
「……もっと立派になって、あなたにご報告したいものです、程嬰。私はまだ未熟者で、育ててくださった恩に報いることできてません。わからないことばかり。……そういえば、女性には情を交わした相手を殺して自分も死のうという方がおられるそうです。好きな人には幸せになってほしいものだとばかりと思ってたのですが、世の中やっぱりわかりません。程嬰はどう思いますか?」
未練がましい報告が徐々にあほな内容となり、趙武はもの言わぬ故人に、今回の顛末を語りだした。その姿も話の内容も趙氏という大貴族の長と思えば少々幼いのだが、まあ大目に見て欲しい。彼はまだ成人してすぐの、恋さえ知らぬ青年なのだった。彼の過去に関しては、まあ機会があれば語ろうと思う。
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