錦を衣て褧衣す、何でもひけらかせば碌なことにならない
政堂前にて父を出迎えた後、
さて、父に拝礼し、挨拶を行う士匄の儀は完璧といってよかった。
「最近の父上は眉間にしわが無い。ご心配ごともないようで」
この、最後の余計な一言さえなければ。他者に対しては功を譲り諸事穏やかな
欒黶は士匄ほどではないが、お大尽の息子として、ゆったりと正しい儀で父である
「お疲れ様です!」
とあまりに軽薄な言葉を添える。欒書は士爕のように礼がなっていないと殴ることなく、深みのある笑みで頷いた。彼は、この少し軽薄ながらも悪気ない息子がかわいいらしい。バカ親というものかもしれない。
「父上も、あのくらいわたしに優しくしてもよいのに」
回想はこのくらいにして現在。馬車に揺られながら士匄はごちた。隣で同じく馬車にゆられる欒黶がけらけらと笑う。
「いやしかし、父上
「そのくらい知っている。しかしもっと褒めろといいたい」
士匄は子供のような言葉を吐きながら唇を弾いた。士匄はアホではない、士爕が息子として己に期待していることくらいわかっている。だが、認めているかとなれば、そうではないであろう。
士匄は言いたいことは先達に対しても言うべき、謙譲は美徳であるがそれ以上に才あるものは率先して行動すべき、という価値観を持っている。
対して士爕はまず先達に物事を譲り、問われ促されてからこそ意を述べ行動すべし、という価値観であり、当時の
今日の失言も、士匄は親を
さて、そんな士匄に、親に褒められるは良い、我が父は常にお褒め下さる、と欒黶が得意げに言う。
褒めると言っても、礼の形が良いやら、弟の相手をして偉いやら、二十を超えた跡継ぎに対するものではない。
もっと悪く言えば『生きていて偉い』である。
父親である欒書は欒黶の才の無さに気づいており、はっきりいえば諦めている。ただ、息子はバカであればあるほどかわいいものである。意味なく褒め甘やかすため、欒黶の無邪気な傲慢は天井知らずであった。
宮殿からの大通りを馬車はゆく。士氏の邸は遠くない。大貴族が住む一角にある。ご、と強い風が吹いて黄砂が宙を舞い、士匄たちの衣を汚していく。春の強い風により黄砂が吹き荒れる季節である。桃園で優雅に花を愛でていても風が視界を黄色くしていくことなどしばしばであったが、この日もそれなりに酷い。
そのような黄砂で汚れても、慌てふためいて体をはたくのは卑しい身のもの。
ふと、士匄の肩に重い感覚がのしかかり、空気が澱んだ。欒黶といえば、楽しそうに己の祖を自慢している。と、いうことは、何でもはじき飛ばす欒黶に勝つような何かしらが来た、ということであった。士匄は根性のある
ぴきん、と何かがひび割れるような音が鳴った。士匄の空耳というわけではないようで、欒黶も首をかしげる。
「何の音だ。氷が割れるような?」
欒黶の言う氷は、氷河が軋む音である。黄河は冬の間、水面に氷が張ることも少なくない。雪解けの時、その氷と共に雪と水が一気に流れ、洪水を起こすことさえある。
「もう春も半ばというのに、氷などなかろう。あれは木のひび割れる音だ。ほら、職人が失敗したのか、時々拵えた木の細工が割れるときが――」
そこまで言って、士匄は息を飲んだ。この場で、ひび割れる音が聞こえるような木造のものなど、ひとつしかないではないか。士匄は欒黶の襟首をひっつかみ抱きかかえると、そのまま馬車から身を投げた。
「な、なんだあ、
意味わからず、欒黶が叫ぶ。と同時に、まるで断末魔のような音を立てて馬車の車軸が折れ、その勢いで両の車輪が無秩序な方向へ走りゆく。バランスを崩した車輪の動きに馬たちはいななき暴れぶつかり合い、勢いよく倒れた。御者はその勢いで放り出され馬の下敷きとなり潰される。もう一頭の馬は馬車のど真ん中に向かって倒れた。大惨事である。思いきり背中を打った欒黶も、腕や膝を打った士匄も、茫然とそのさまを見た。
「士氏は馬車の材をけちっているのか?」
欒黶が極めてまぬけなことを言った。士匄にとりついた霊か何かの仕業、とは思わなかったらしい。元々、霊障に合うことも無ければ、強運すぎて不祥が避ける青年である。呪い祟り障りとは思わないのであろう。
「我が家がそのようなことをするわけがなかろう。あれだ、御者の運が悪かったのだ」
士匄は強く言い切った。むろん、重くのしかかる不祥、身にまとわりつく不吉な空気が原因であることはわかっている。が、そんなことを言えば、この友人は
「大夫の嗣子が徒歩とは、父が知れば嘆き悲しむかもしれんが、まあ俺は歩くのも好きだ。士氏の射場は中々にいい、我が
欒黶が今度こそは体の汚れを払いながら笑った。友だちがバカだと何も考えないから楽でいいなあ、と士匄は深く頷きながら立ち上がった。
「毎度言うが、お前が勝ったこと無いだろう」
指で肩をこづいて言うと、だから負かすのだ、と欒黶が少し拗ねた顔をした。そうして二人、歩き出したが、士匄の身から不吉不祥は離れることなくまとわりついていた。
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