episode19

 閉ざされていた視界が明らむ。眩しい、とシュリは重い瞼を押し上げた。

 そこには見慣れた景色があった。否、景色というには何もない。天井だ。彼はぼやけた視野を瞬かせ、目線だけで周囲の様子を窺った。


 暫くの間、断続的な思考を繰り返す。

 四肢は思うように動かない。

 脳は正常に働いている。

 だが気を抜くと意識がぼうっとしてしまう。

 痛みはない。

 記憶もある。

 どうしてこうなっているのかも、リグが助けてくれたことも憶えている。


 不意にドアの開く音がした。

 反応したいがそれはできなかったため呻きを漏らした。少年の声に気付き、人影は足早に近寄って来る。

 彼はシュリの顔を覗き込んで目を細め、一言「良かった」と言った。


 シュリは瞼の開閉を落ち着かせ、傍に来た青年に焦点をしぼる。

 金糸の短髪、沈む翠の瞳、未だ幼げの残る顔立ち――彼がリグであるとすぐに分かった。彼は普段の黒い軍服ではなく、薄い水色の大きめのサイズのシャツを身に纏っている。


 青年は両手で持っていた、水の入った木の桶を床に置く。中で浸していた布を取り出し、不慣れな手付きで絞った。無駄な水分を切り、彼はシュリの方に端正なおもてを向ける。


「冷たいけど我慢して」


 広げた巾を少年の額や頬に擦りつける。突然の冷たさに彼は反射的に体を強張らせた。

 少年の顔を両断するかのような異様に長い一束の前髪を退かし、優しい手付きで肌の上を滑らせていく。顔以外にも手や腕、怪我を負っていない部分を拭った。


 沈黙が漂う空間。

 用済みになった布を戻し、青年は桶を抱えて立ち去ろうとした。その背をシュリが引き留める。


「あの、せんせい、は」

「ロッドさんなら付近の家の火事に急行した。夕方には帰ってくる」


 抑揚のない無機質な声が答える。乾いた唇でシュリが尋ねた。


「どうして、あなたがここに」

「休日だったし、ロッドさんの申し出であなたを看ることになったから。今日で二日目」


 一切の私情が含まれていない言葉を耳にして、少年は力なく頷く。戦闘から二度も夜を越していたらしい。

 彼からの問いが途絶えたのを確認すると、リグは寝室を出て行った。

 無音の空気が満ち、横たわる彼が大きく呼吸する。被さる布団が重く感じた。


(また失態だなんて)


 心中は複雑な感情が行き交い、まるで町の喧騒だった。


 暴徒化した人外の駆除に手こずったという自分への苛立ち。

 相手に集中しすぎてしまって、敵に気が付かなかった悔しさ。

 監視役であるリグがいなくては死んでいたという恐怖。

 そして生きていることへの安堵。


 彼が発症者の処分で失敗したことは以前もあった。

 しかし、それは何者かが明確な意思を持ってシュリに麻酔を打った、というものであって今回は自身に原因があるのだ。

 己の未熟さに溜息が出る。微動だにしない身体が厭わしく思い、彼は脱力して目を閉じた。


 ふとドアが開く音が鳴る。

 薄目で出入口に視線を向ける。リグが入ってきたのが見えた。

 何をしに戻ってきてのかと不思議に思っていると、彼はシュリのいるベッドの傍に椅子を置き、そこに腰を下ろした。

 思わず少年はどうしたのかと訊くと、彼は平然とした顔で答える。


「だから、ロッドさんにあなたを看てほしいと頼まれたと言っただろう」

(あ、看るってそういう……)


 シュリは半ば呆れながら言った。


「でしたら、お訊きしたいことが、あるのですが」


 彼は辿々しく、羊の人外の他に発症者はいなかったかと尋ねた。リグは数秒考える仕草をしたのち首を左右に振る。


「わたしの手の、怪我はご覧に、なりましたか」

「ああ、少しだけ。刃物で抉られているみたいだった」


 少年の左手は包帯できつく巻かれている。もちろん指先すら動かせない。傷口を縫うためか、麻酔のお陰でまだ痛みは感じていなかった。

 彼はリグの返答を聞きいて小さく首肯する。


「あなたは同じ怪我を、負いましたか」

「いや、ほぼ無傷だったが……あったとしても打撲だぼくくらいだな」


 青年は自身の腕に目を遣る。処置された痕跡が僅かに残っていた。

 シュリの言葉に引っ掛かりを覚えた彼は、視線を少年の手に向ける。怪訝そうにその唇が開く。


 あの場に協力者がいたのか。


 そうは言うものの、リグが駆け付けた時には既に姿はなかった。恐らくシュリを殺す目的だったのだろう、という結論に二人は至る。

 攻撃を仕掛けられたあの瞬間、シュリは衝撃と動揺で周りを確認することができていなかった。平生なら察せる気配も、当時の彼の心理状態では感じ取れなかったのだ。

 少年はリグに、過去にも明らかに自分を狙った襲撃があったと説明する。それを聞き、彼は何かを思い出したように言った。


「三ヶ月前から職務中の処刑人の暗殺未遂事件が多いと聞いた。どれも若い者ばかりで、死亡した者もいたとか」


 話によると、怪我の大半が斬撃や切り傷。負傷箇所は頭部、肩、腕など上半身に集中しているそうだ。

 第三者で誰も犯行を目にしたことがなく、犯人が人間なのかも人間以外なのかも謎のまま。軍が捜査に乗り出しているが、目撃者はおろか、手がかりさえ見つかっていない。

 二人の間に不穏な考察がわだかまる。

 シュリも他の者と同様、駆除の最中に予期せぬ場所で殺されるかもしれないのだ。そんな形で殉職するなど、この少年の本望では決してない。

 重々しい空気を切ったのはリグの方だった。


「おれが此処に在中するのはどうだ」


 彼の提案にシュリは眉を顰めた。

 反論したげな子を制しつつ、青年は真っ直ぐな眼差しで話す。


 軍人としてこの組織の監視・記録は続行するが、人外の暴走が起こった場合、主にシュリの援護をする形で護衛を行う。

 事実、発症者と対峙する際の軍人の役目は「国民の避難と守護」「倒壊した建物の撤去作業」であり、直接戦闘をすることではない。その役目なら処刑人にあり、彼等もまた国民を守ることは職務に含まれていないのだ。


「どちらにせよ人がいる場所では、おれが駆除することはできない。だからあなたの身に襲う暗殺の手を阻止しよう」


 随分とおかしな事を言う。シュリは呆然と彼を見つめていた。


「なぜ、そこまでして、下さるのですか」


 尋ねずにはいられなかった。

 少年の問いかけに、リグは少し俯いて口籠る。話すべきか、と呟き、再び顔を上げた。


「十三というとしで、おれがなれなかった処刑人をしている事は羨ましくも尊敬に値する。おれの代わりに頑張ってほしいんだ」

「何か理由が、あるのですね」


 シュリの確信した言葉はリグの図星を突く。青年は一度視線を迷わせ、睫毛を伏せさせた。

 無言は肯定。

 彼は、聞き流してもいいのだと、断りを入れてから話し始めた。


 リグは純血のエンカ―家である。

 国家が成立してからというもの絶えず王族に付き従い、処刑人を代々まとめ上げる由緒正しき家柄だ。加えて、人外を駆除する者の中でも最強と言われる血を持つ。その名で生まれた時点で未来が約束されたも同然なのだ。

 たった一人、彼を除いて。

 物心がつく前から、殺しに特化した人々を率いる父親の背を見て生きてきた。だからこそ言える。


 自分はグレウの後を継ぐ者に相応しくないと。


 座学・剣術の成績は主席レベルだったが、上に立つべき存在ではない。一つの駒として戦場を駆ける方が性に合う。きっと長になれば多くの同胞らを無駄死にさせてしまうだろう。

 このまま何もせずにいれば半強制的に後継者になる。家の名に傷をつける。

 これ以上、親の七光りと言われるのは耐えられない。父と境遇を逆恨みすることなど何度あったことか。

 ならば違う形で、人を救う道を行くしかない。


「結局責任から、父上から逃げてしまった。やっぱりおれは臆病者だ」


 やっと零した本当の表情は苦笑だった。

 シュリは何も言い出せず、同情も違うと考え、簡素な相槌を打つことしかできなかった。


 ・・・・・


 青年の言う通り、師が帰ってきたのは日が沈む頃だった。

 弟子が目覚めたのを目の当たりにすると、疲れていた顔が柔和なものになった。


「いつまで寝てるつもりだったんだい、お寝坊さん」

脳震盪のうしんとうを起こしていた子どもに対する挨拶ではありませんね。頭が割られなかったことを褒めていただきたいくらいです」


 シュリの意識は完全に覚醒したらしい。辛辣な口が戻ってきていた。


 師は弟子に、詳しい話と少年の身に襲いかかった出来事については既に聞いていると言う。リグの在中するという提案についても。

 青年は彼の妙案を受け入れる姿勢を示した。その方がシュリも専念できるだろうと踏んだのだ。

 ヒュウは隣に座る金髪の青年に目を向ける。


「ていうか、君の独断で大丈夫なのかい。いくら少佐とは言っても勝手だと思うんだけど」

「たぶん大丈夫です。人外ここの担当をやりたがる人なんていないですし」

「いま地味にディスったね」


 澄まし顔の青年はさておき、これからの方針が決まったようだ。シュリは何処か、不安げな双眸で成り行きを見守っているばかりだった。

 その後リグは軍に話を通すため一旦この場を去った。


 残された二人。

 ヒュウは出ていく音の余韻を感じながら笑っていた。冷淡で不愛想な若造が思わぬことを申し出たのだ、面白く感じるのも当然だろう。一方シュリは腑に落ちないような表情をしているが。


リグあの子が気に入らないのかい」


 師の声が心地良い。少年は微かに首を左右に振った。


「決してそういう訳ではないのですか……私は先生が心配です」


 いくら現在の職業が軍人とはいえ、元の血筋は生粋の処刑人。それも父親は師の正体をいとも簡単に見破った実力者である。この先ヒュウが人でないと分かってしまったらと考えると、気が気でないのだとシュリは言った。

 リグ曰く、自分は何処に行こうとも軍に所属しているため人外を殺せないらしいが、例外は存在する。現に羊の人外を処分してみせたのだ。咄嗟の判断で師を駆除対象とされる可能性は否定できない。


 眉を八の字にする弟子を見て、長髪の青年は冷静な口調で問うた。


「じゃあ、もしあの子と敵対することになったとして。君はどうする?」

「そんなこと、お尋ねにならなくてもお分かりでしょう」


 長い睫毛の奥、深紅の瞳孔が瑠璃の虹彩に合わせられる。シュリは生真面目に答えてみせた。


「何があろうと貴方を護りますよ」


 歪んでしまって元に戻らない。それでも、この人の為なら。

 少年の核は未だ憧憬に溺れたままだった。


 ヒュウがベッドに腰かける。硬い触感と目の粗い手触りが指の間を滑っていった。

 何か言いたげな師の唇に違和を感じる。シュリは枕に後頭部を沈めつつ言葉を催促した。青年は自身の長い髪の毛先を弄り、唸りに似た声で言う。


「喋る発症者についてなんだけど、僕も初めての事でびっくりしてる。まだ不確定要素が多い。でもやることは同じだよ」


 彼の神妙な声音。自分以外にはあまり見せることのない相好。

 シュリは歯切れの良い返事をし、痛み出した左手をさする。


 三度目の失態など絶対にあってはならない。気が緩んでいる証拠だ。彼と肩を並べて行う仕事に「子どもだから」という理由は言い訳にすぎない。

 あの頃に比べてこの傷の痛みなど、この頭の痛みなど感じない筈だろう?


(早く治れ。私は役に立たなくてはいけないんだ)


 少年はまるで、己の体が道具にしか見えていないようだった。




 リグが在中する日程は明後日からに決まった。主な拠点がになるだけであるため特段、準備はない。

 基本的にヒュウたち同様、二十四時間の勤務であるが、事務所にいるのは朝の七時から夜の九時まで。発症者の駆除以外はここで通常業務を行う予定だ。


(父上、やっとあなたの隣に立てるのでしょうか)


 金糸の髪が煌めく。青年の雪にも似た白い肌の上を、月の光が滑っていった。

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