episode9(ⅰ)

 国王の生誕祭まで七日。


 街はより浮足立ち、祭りの用意も最終局面を迎え始めている。一方この王国の脅威である人外たちは一時的に姿を消し、民はすっかり警戒心を解いていた。

 人外らが冬眠したことによって、平穏を取り戻したのは彼等だけではない。


「起きて下さい先生。朝ですよ」


 冷え切った早朝の空気が張る。

 シュリはベッドから一向に顔を出さない師を揺り起こしていた。

 応答は辛うじてある、が布に包まったまま出てこない。元から師の寝起きの悪さは十二分に知っていたが、冬になると余計に起きないのだ。


「いい加減にして下さい、そろそろ怒りますよ」

「う……いまおきる……」


 弟子の叱り口調に臆し、ヒュウはのっそりと這い出てきた。掛けていた布に長いこと潜っていたからか、彼の長髪は絡まってしまっている。

 青年はベッドに腰掛けた状態で少しばかり静止し、ふと顔を上げた。


「せれすは……?」


 滑舌の悪い掠れた声は目前の少年に向けられる。


「あの子なら朝起きてすぐに、自主的にミストさんの所へ行きました。言葉の勉強が楽しいようです」


 呆れた様子でシュリが教えると、ヒュウは大きな欠伸で返事をした。その口からは鋭い二本の牙が覗く。人外の証である赫い瞳がすっと色を淡くした。


 室内でさえ寒さが纏わりついてくる。

 青年は薄手のニットに腕を通しながら狭いキッチンへと歩き出した。シュリも朝食作りを手伝うのに寝室から出る。ヒュウのブーツの踵が鳴った。


 本日も曇り。

 晴れる兆しが見当たらない空に数羽の鳥が羽ばたく。最近になってやっと慣れてきた、蒸気機関車による煙たい空気が街を包む。

 閉め切った窓に二人の姿が反射した。


「おいシュリ、あんたは料理するなって言ったよな? なんだこの丸焦げは」

「卵です」

「これがか?」

「はい、卵です」


 使い古されたスキレットに乗っているのは原型を留めていない謎の黒い塊。周囲には焦げ臭い匂いが立ち上っていた。


 どうやら彼は、師が起きるまでに腹が減ったらしく自ら作ることにしたようだ。しかしあまりにも料理に関する知識が欠けていた。

 少年の手に掛かれば、どんな食材でも口にできないほどの暗黒物質にされてしまう。食材の無駄使いを防ぐため弟子には、調理器具にも触れるなと言い付けている筈だった。


 ヒュウは大きな溜息を吐くと、無惨な姿になった(シュリ曰く)卵を洗い場に捨てる。


「次は僕がいる時に焼いてくれ。手伝うから」


 そう言いつつ片手で卵の殻を割る。既に熱されていたスキレットに半透明の白身が触れると、じゅっと音を立てた。

 シュリは軽く拗ねた様子で少々俯く。一言謝罪をすると皿の準備をし始めた。


 此処から離れた何処かから街の喧騒を感じる。また今日も祭りに向けて人々が張り切っているのだろう。

 遠い目をして少年は、霞んだ窓の外を見つめていた。


 朝食を済ませると二人は外出した。

 発作を起こした人外の駆除以外で出かけることなどほとんど無く、久しい娯楽の外出である。

 

 施錠したドアに木枯らしが吹く。雨晒しになった階段を降りると、つんとした冷気が鼻先を掠めた。

 人間に化けたヒュウに、シュリは隣を歩きながら尋ねる。


「本日は何方どちらへ」

「えーと、まずはフレイアの所で試験薬の打診、次はシンセ森の人外やつらと情報交換、包帯と銃弾の買い足し、それと……」


 指を一本ずつ折りつつ言い上げていく。それらは全て仕事に関係するものばかりで、休む筈の冬期だとしても気が抜けないようだった。


 レンガの壁が建ち並ぶ商店街。

 平生は飾られていない小さな国旗が、店頭に突き出し合い翻った。いつにも増して威勢の良い商人たちが行き交う人々に声を掛けている。


 その交差点の隅で、少年は冷える体を擦りながら立ち尽くしていた。

 予定より遥かに買い物が済み、あとは調合された薬草の買い足しだけである。だが目的の店が混雑している通りにあるものだから、はぐれてしまう事を避けるため師だけで向かったのだ。


 既に終えた買い物の箱や袋が積まれている隣、シュリは背伸びをして待ちぼうけをしていた。

 通り過ぎて行く人はみな揃って着飾っており、談笑しながら人混みに消えてゆく。彼は人間の群れの中から現れるであろう人外の師を探していた。


 爪先立ちも疲れ、すとんっと踵を落とす。ほんの少しだけ視界が低くなった。


「おや、少年ではないか」


 雑踏の間に挟まる、低く凛々しい声。

 シュリが顔を右上に向けると、見覚えのある男がこちらを覗き込んでいる事に気が付いた。迷わず彼は口を開く。


「グレウさん。その恰好は……どうされたのですか?」


 大きな瑠璃色の瞳を瞬かせ、少年が目前に立つ男の姿について尋ねる。彼――処刑人の長であるグレウは相変わらずの様子で答えた。


「近く国王の生誕祭があるだろう。我々処刑人も通行の整備や安全確認の為、軍と共に出動を命じられてな」

「なるほど、だから祭事用の軍服なのですね」


 グレウは神父のような服の上に、普段着用しているものとは違う鎧を身にまとっていた。彫りの細かな装飾が美しい。

 彼は深緑色の眼光を目下の少年に注ぐ。


「そういう君は休暇か。人外の暴走も冬は無いしな。思う存分、体を休めなさい」


 珍しく穏やかな微笑みを浮かべる男に、シュリは柔和な表情を取り繕った。右手は無意識に腰元のピストルに触れかける。


(この男は私の正体をいとも簡単に見破った。決して気を許してはいけない)


 少年は笑顔の仮面の中でそう暗示する。彼の心はいつまでも冬のような冷たさを孕んでいた。


 不意に他方から男の名を呼ぶ声が響く。


 何事かと少年が顔を上げるのと同時に、右隣に立っていたグレウがしゃがみ込んだ。シュリが吃驚して彼に声を掛けようとするも、男に口を押さえられてしまった。


 呼ぶ声が遠ざかる。

 腰を落とした男に口を塞がれた状態が二分ほど続くと、やっと手を離してくれた。彼は平然とした顔で謝罪しつつ立ち上がる。


「すまないな、突然押さえてしまって」

「いえ、大丈夫ですけど、呼ばれていましたよね……?」


 驚きを隠せずに尋ねるとグレウは拗ねた子供のような顔をして答えた。


「確かに呼ばれていた、が今は気分ではない」


 意味が理解できずにシュリが瞬きを繰り返す。彼は入念に周囲を確認しながら説明した。


「大人にならずとも分かるだろうが、時に人は子供に帰りたくなるものだ。誰かの為に働くことに嫌悪を抱く」

「つまり今は働きたくない、と?」


 シュリが問うと、グレウは力なく口角を持ち上げる。少年の考察は的中したらしい。


 全ての処刑人を統べている偉丈夫が、働きたくないと言う。


 とんでもなく場違いな言葉に少年は笑いが込み上げてくる思いをした。こんな大人でも駄々をこねる真似をするのだと可笑しくて堪らなかったのだ。

 失笑を漏らしそうになったところでグレウが口を開く。


「君はそう思わないのか、流石だな。青年の教えが良いという事だろう」


 感心した様子で言う彼に、優しげな顔になったシュリはかぶりを振った。


「いえ、どちらかと言いますと先生も貴方のような行動をしますよ」

「ほう。では怠惰でないのは性分か、偉いな」


 男は目を細めて言う。戦場では決して見せない笑みを浮かべ、彼の本当の人柄が垣間見えた。


 西洋剣を握る筈の彼の手は寒さから逃れるためポケットに突っ込まれ、人外を睨めつける為の鋭い眼差しは穏やかに往来を繰り返す人々へ向けられている。

 やはり彼も只の人間だ。

 人として当たり前の心を持ち、人として当たり前の行動を取る。自分と同じ人間なのだとシュリは目を伏せさせた。


「ところで此処で何をしていた?」


 少年は薄いシャツの上から自身の腕をさする。グレウの質問に彼は、向こうで買い出しに行っている師を待っているのだと答えた。


「そうか、本当に彼に懐いているのだな」


 グレウの零した言葉を聞いて少年は、そうだろうかと小首を傾げる。彼が抱く師への想いは無自覚なようだ。


 その後シュリは、ヒュウについての文句を男に垂れ流した。愚痴とはいかない、憂晴らしに近いものだ。

 朝は起きない。

 片付けや掃除はしない。

 すぐ自分を子供扱いしてくる。

 時折こちらの心を読んでいるような気味の悪い事を言う。

 気が付けば堕落している。

 しかし仕事となると無理ばかりする。


 一通り言い終えると、少年は大きな溜息を吐いてみせた。毎日苦労しているのだろうと察したグレウは、労いの言葉を掛けてやる。

 それでも不満げな表情の彼を見て、男は息を吐くように言った。


「君にとって、あの青年は家族のようなものなのだな」


 男のその呟きを耳にした刹那、シュリは時間が止まったような気がした。


「――違う」


 地を這うような押し込もった声音。

 はしゃぐ往還の足音が響く中、異様にその否定は強くグレウの鼓膜を揺らす。


 少年の生気のない落ち着いた笑みに、不覚にも男はぞっとした。


「あの方を家族呼ばわりだなんて、冗談でも烏滸おこがましい」

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