episode3
わたしはどうして生きているのだろうか。わたしなんかが生きていてはいけないのに。
弟の方が有能で、優しくて、気が利いて、支配者としての器がある。
でもわたしにはそれがない。
貴方は人の心がないと、母様に冷たく突き放された。
貴様は野蛮な獣だと、父様に怒鳴られた。
だからわたしは生きる意味がない。王子として、人として、そして生き物として。
それでもわたしは生きている。
救ってくれた貴方のために。
わたしの命は貴方と共にある。だから、どうかわたしを使って。
武器として、人形として、そして――食糧として。
・・・・・・
「先生、シンセ森に送り届けてきました」
「おうご苦労。今の内に休んどけー」
いつも通り部屋の奥の仕事机にいるヒュウへ、帰宅したばかりのシュリが報告する。青年は軽い口調で返し、再び机上の本へと視線を下げた。無機質に並んだ活字の羅列を目で追い、時々何かを紙切れに書き込んでいる。
シュリは部屋の中央にあるソファに腰かけ、愛用しているピストルのメンテナンスを始めた。
昨夜ストーカー行為の疑いで確保した人外は「食欲発作」による行動ではないと断定できたため、処分せずに人里離れた森へと帰した。
本人曰く女性――レイラを遠目で見て一目惚れしたのが原因だそうだ。食べてしまいそうなほど愛らしく見え、血の迷いであのような行動をとってしまったと説明していた。
はた迷惑な理由だったが、発作によるものではなかっただけ有難い。
そもそも食欲発作とは、人外特有の身体現象である。体中の筋肉や細胞が一時的に進化し、理性を捨て本能の赴くがままに暴れる。例を挙げると以前シュリが処分した熊の人外だ。
発作が起こるのは不定期、回数も個人差がある。発作は人間を気が済むまで喰わねば治まらない。つまり発作が起こってしまえば、止める手段は「殺す」ことしかなくなるのである。
(今は昔と違って、できるだけ命を狩りたくないけれど)
少年は長い睫毛を伏せさせ、哀しそうな表情で手に握る銃を見つめた。
食欲発作は人外にとって抗えぬ衝動だ。
生物の三大欲求の一つである「食欲」が人外のみ顕著に表れ、彼等を人間から引き離している最大の要因である。それを克服すれば、今よりかは人間と人外にある溝を埋めることができる筈だとシュリは思っていた。
だがそれは理想論であって実現は不可能である。もし克服できたとしても、それは人外の生態から「食事」を抜き取ってしまったことになるのだ。
(いっそ全ての生き物が植物のようになってしまえば良いのでは……?)
「シュリ、ぼーっとメンテすると危ないぞ」
無音の室内に響いた涼やかな声にビクリと大きく反応する。少年が彼に顔を向けると、ヒュウは不思議そうな顔をして尋ねた。
「考え事か?」
「い、いえ大丈夫です。ご心配なく」
シュリは相変わらずの澄まし顔をしたまま、俯いてそう返す。しかし青年は、彼から感じた違和を拭いきれずに席を立った。コツコツと心地よいヒールの足音を立てながら近づき、少年の頭に手を乗せる。
「人間の君が
優しく言い聞かせる声音を聞いて、シュリは胸に絡まってしまっていた糸が
彼は不満げな表情になって言った。
「お心遣い感謝します。しかし先生、貴方は時折他人の心を読んでいるような発言を軽率にするので気をつけて下さい。とても不気味ですし気持ち悪いです」
「君はその辛辣な物言いを何とかしてくれないか……僕だって傷つくんですけれど……」
まだ幼い少年の冷厳な言葉が、まるで矢のように青年を突き刺す。思わず彼は地面に蹲ってしまった。
一方シュリは悪気なく言ったことを理由に、平然とした顔に戻ってメンテナンスを再開する。
数分の沈黙の後、気を取り直した青年が口を開けた。
「そういや最近、処刑人が巡回してるらしいな」
処刑人という言葉に反応しシュリは手をぴたりと止める。だがすぐに作業に戻り、幼い顔を歪めることなく彼は平静を装って返した。
「もし先生に何かあっても私が助けますのでご安心を」
「そう言うと思ったよ」
しゃがんだままのヒュウが、顔を伏せ作業する少年の顔を覗き込む。シュリは彼と目が合い反射的に目を逸らそうとしたが、彼の血色の瞳が噛み付いて離そうとしない。
ヒュウは普段の笑みを消して尋ねた。
「どうしてそこまで僕に尽くすんだい? 大したことした記憶ないんだけど」
その言葉に対して、少年は呆れたような表情をし短く息を吐く。分解したピストルを丁寧にテーブルに置くと、彼は当たり前のことを言うように答えた。
「貴方は私を、身体的にも精神的にも救って下さった存在なのですよ」
「恩返しってこと?」
「そういうことです。簡単な理由でしょう」
彼の返答を聞くも、青年は腑に落ちないらしく目を細めた。だがそれ以上聞き出そうとはせず立ち上がる。
ヒュウはへらっとした笑顔を浮かべ「人間の考えてることは分かんないわー」と文句を呟く。その様子を見ることなく、少年はピストルを組み立て始めた。
シュリにとってヒュウエンスという存在は神に等しい。
彼の為ならば命だって惜しまず差し出すことができる。理由は先程述べた通り単純なもので、それ以外の理由などない。彼はまだ子供であり無知なのだから。
あの救いの日。それが少年にとって全てだった。
ふと小刻みに切られた鋭いベルの音が鳴る。
ヒュウが体を翻し、仕事机の隅に置かれた細身の黒電話を手にした。
受話器を口元に寄せ、電話の向こう側の声に耳を傾ける。身近にあったメモ紙に手早く何かを書き込みながら、上体を軽くシュリへ向けた。アイコンタクトをとるとすぐ、少年は立ち上がり腰のホルダーに銃を収める。
受話器を乱暴に戻すと、メモ紙を少年に手渡し早口に告げた。もう彼の口元に笑みなど無い。
「仕事だ」
シュリは紙を受け取ると、近くの開け放たれた窓から飛び出した。
レンガの塀を一飛し家屋の屋根へ駆け上る。その様はさながら猫のようで、かなりの高所だというのに全く臆していない。連なった屋根の上を駆け、少年は紙に書かれた目的地へと向かった。
周囲の騒ぎから明確な場所を割り出し、シュリは現場――暴徒と化した人外の元へとやって来た。
まずは負傷者の避難。見たところ発作から然程、時間は経っていないようで被害は小規模だ。
とは言え怪我人は少なからずいる。彼はスピードを落とすことなく駆け込んだ。
今回の相手はイタチ。
小柄で細身、人間の部分はほぼ無く、完全に獣化してしまったようだ。短い四肢や細長い胴は血を引きずり、牙の覗く口からは多量の唾液が垂れ流されている。人を喰ってはいないようだが時間の問題だ。
シュリは相手の意識を逸らすため、一旦人の群れから離れる。
足元に転がっていた手のひら大の石を人外に投げつけた。それは相手の右目下に当たり、やがてこちらに視線を向ける。人外は体を向けるのと同時に細長い尾を振り出し、シュリへと攻撃を仕掛けた。しかし彼は咄嗟に地面に伏せ、鋭く風を切られる音が頭上で鳴る。
相手の攻撃をやり過ごすと立ち上がり、その勢いで一気に間合いを詰めた。人外の意識は完全に少年へと向けられている。
無駄な発砲を抑えるため、彼は至近距離での戦闘を試みた。銃の構えを変え、相手の腹の下へと滑り込む。一発の乾いた音が響くと彼の視界は途端に赤く染まった。
腹に撃ち込んだ弾丸は皮膚を裂き、血管を断つ。突然の激痛に人外は絶叫し、その声にシュリは表情を歪めながら表に飛び出した。
視界に処刑人や軍人の影が映る。大きな猟銃を携え、人外へと銃口を向けていた。
彼等に手柄を取られるのは、なんだか少年にとって面白くなかった。では先に
瞬間、発砲音が空気を裂いた。
シュリは迷いなく引き金を絞り人外の額に弾丸を撃ち込んだのである。人外は叫び声を枯らして即死、大きな音を立てその場に倒れた。多量の鮮血をばら撒いて。
彼はピストルをホルダーにしまい、顔面にべったりと付着した血と脂を拭った。
未だ騒然とする街中をぐるりと見渡す。
既に瓦礫の撤去作業を始めている人もいれば、瞬く間の恐怖に腰を抜かしたままの人もいた。一方、仕事がなくなってしまった処刑人は立ち去り、反対に軍人は人命救助に向かっている。
そんな中、視線がヒュウの姿を捉えるとシュリの緊張は緩み肩の力が抜けた。彼の周りには既に医者などが集まっており、処置を済ませて担架で運んでいる。
今回の場合、現場が近く発作から時間が経っていなかったため被害は最小だった。相手も「弱い」方の類であったのが僥倖である。
シュリは息をしない人外の顔に近づき、腰を下ろすと額に手を置く。まだ温かく僅かに筋肉が痙攣しているのを感じられた。彼は表情を翳らせ、乗せた掌をきつく握りしめる。
「すごいな坊や。やはりヒュウエンスの目に狂いは無かったようね」
覚えのない声に顔を上げる。
シュリが即座に振り返るとそこには、見覚えのない大人の女性が立っていた。色素の薄い短髪が傾きかけた陽の光を反射し、彼女の存在を引き立たせている。
彼女の口から師の名が出たことに違和を感じた少年は、まじまじと相手の顔を見つめ問う。
「先生のご友人ですか」
「友人というより同志ね」
女性は整った顔を笑わせると彼の隣に膝をつき、温度が消えていく人外に触れた。美しく細い指が血に染まった毛を撫でる。
「いつか私もこうなってしまうのかと思うと気が気でないわ」
彼女の切なそうな口調にシュリは、きゅうっと胸が苦しくなる。
「それはつまり、貴方も人外なのですね」
彼の言葉は問いではなく確信だった。
迷いのない、濁らせない彼の台詞に女性は目を見開く。曖昧な返答をしないシュリに、彼女は特別だと言って彼に耳打ちする。
「私は蝶よ、綺麗でしょう」
妖艶な唇の端を持ち上げ、煌めく瞳を細める。艶めかしい囁きであったというのに、彼は緊張するでもなく「へぇ」とでも言いたげな顔で返した。肝の座った少年に驚いたのか女性は少しばかり拍子抜けする。
しかしシュリは、彼女の表情に気付かずに立ち上がって周りを見回した。
ちらほらと人々の塊があり、どれも寄り添っているようだ。駆け付けた医者や軍人に手助けされながら移動しその場を去っていく。それを見ていたシュリは、複雑な気持ちを抱え切れず胸を押さえた。
ふっと視界が暗くなる。彼は顔を上げると、思わず情けない声を漏らしそうになった。
「どうした、ケガでもしたか?」
ヒュウが小首を傾げながら訊く。声音はいつだって変わらず明るいもので、少年にとってはとても安心できるものだった。
シュリは緩む口元をきゅっと結んで答える。
「無傷ですので大丈夫です。先生、処置の方は?」
「あー軽傷者くらいだったからすぐ終わったよ、それに教会近いし」
担架で付近の大きな教会へ向かう人の列を一瞥した後、青年の視線はシュリの後ろに座り込む女性へと向かった。
気がついたのか彼女も立ち上がり、にこやかに挨拶の言葉を交わす。
「久しいねヒュウエンス。元気にしてたかしら」
「お陰様でな、なんとかやってる」
二人の口調を聞くに親しい仲らしい。しかし仕事仲間――彼と同じ救命士や医者のようには見えない。
疑問に思ったシュリは青年に尋ねた。
「シュリは初めましてだね。彼女は『フレイア・ローズベルト』、今回の通報者だ」
ヒュウが女性に掌を向けて紹介すると、彼女は上品な笑みを浮かべた。
この時代には携帯電話などの機器はない。あったとしても家に備えられている固定電話くらいだ。それでも裕福な家庭や会社にしか置いていないため、まだ手紙でのやり取りが大衆向けな連絡手段であった。
フレイアはヒュウの旧友であり仕事仲間だ。主に同類が起こす食欲発作の克服や抑制剤の研究をしている。また今回のように付近で事件・事故が発生した際、すぐに連絡する担当なのである。
ヒュウ曰く、通報者は他にもあちこちに居るらしい。そのどれもが人外であり、人間に対して嫌悪を抱いていない者なのだそうだ。
「表向きは大通りで花屋を営んでいるわ。よかったら贔屓にして頂戴ね、宜しく」
フレイアの微笑みに釣られて、シュリも小さく笑って返した。
「こちらこそ。通報者として、研究者として、これからも我々にお力添え下さい」
やっと見せた笑顔に、彼女の胸では安堵に近い感情が広がる。
ふと応援を呼ぶ声が背後から聞こえた。
振り返るシュリの視線の先には、大勢の人々が集まっている。どうやら屋根の上にあった筈の大きな看板が、先程の騒動により落下したらしく住人が下敷きになってしまったようだ。大人が寄ってたかって力を合わせているが、看板は寝静まった牛のように微動だにしない。
シュリは向こうへ駆け出すのと同時に、ヒュウに助けに行くことを伝えた。言われた彼はひらひらと手を振り、後で自分も向かうと言う。
駆けて行く少年の背が小さくなる。それを見計らってフレイアは口を開けた。
「……まだ傍に置いているのね」
「まだって一年未満なんだけど?」
ヒュウが空かさず反論すると、彼女は表情を消して呟く。
「アナタが傍に居ると坊やは救われないわよ」
彼女の意味深長な言葉にヒュウは一瞬だけ睨め付ける。だがフレイアは気付かないふりをしてその場を去った。
青年の視界に映るのは、艷やかな短髪の彼女と軍人に混じって救助する彼。腹の奥が炙られるような感覚に苛まれた。
(分かってるよ、それくらい。これはあの子にとって最善の方法でないことなんて)
脳裏を巡るはかつての記憶。
焼け崩れる豪勢な屋敷の中、一人の
『そうだね、やっと死ねる』
「先生! 負傷者です、来てください!」
聞き慣れた中性的な声が耳朶を打つ。
いつの間にか下を向いていた顔を上げると、変わらない冷静な表情で彼が呼んでいた。
ヒュウは丈の短いマントをはためかせ、少年の元へ駆ける。
(たとえ僕の与えた道が間違っていたとしても)
戦うたび返り血を浴びても、何度骨を折っても全く動じることなく彼は言う。先生が無事なら良いんです、と。
その不変の憧憬がいつか綻び、彼を絶望へと突き落とした時。自分には何が出来るのか、どうすれば正しいのか。人外として、どんなに長く生きていても
(僕は、シュリの心の傷を治すまで――)
「右足からの多量出血です、処置をお願いします」
呻く男性の傍に駆け寄る。少年の状況報告を聞きながら、ヒュウは腰元のケースから処置の準備を済ませた。
「了解、任せろ」
その瞳に映るは祈り、そして切なる願い。
青年は今一度、心の中で誓った。
彼の師であり続ける、と。
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