第12話
漆黒より少し青みがかった海を前に、夜風に吹かれる朝がいる。そのふわふわとした髪の毛の揺らぎを崩さないように、そっと背後から近づいた。
今日は何も持ってきていないから、体が軽い。差し足忍び足。
「朝」
男子にしては華奢な肩に、ポンと手を置く。一瞬だけ、ビクッと震えた。そして、振り向く。
「あっ、夜」
振り返った表情は笑顔だった。だけど、私は見た。完全に首を回したか回していないかぐらいの角度で、目を見開いていた彼の顔を。
いいものを見れた、と内心にやける。
「おどかさないでよ」
「ふふっ、ごめん、ちょっとね」
私は朝の隣に腰掛けた。まだ昼間の日光の温もりを保っている砂が、お尻から仄かな熱を伝えてくる。
ちょっとだけ間隔を空けて座った私は、いつものように海を眺める。そして空を見上げる。
「今日は曇り空だね」
「うん、そうみたいだね」
「海が灰色だ。誰かが絵の具で塗り替えたみたい」
「僕は筆の色を落とすために何度も絵の具を晒されたバケツの水のように思うよ」
「あっ、確かに」
朝の表現は何ともしっくりきた。やっぱり私たち、考えが似てる。
「月明かりがないと寂しいね」
「うん。だけど、こういう時だけ神秘的に浮かぶ景色だってあるんだよ」
「そうなの?」
時折こう考えが食い違うことがある。だけど、それで仲が悪くなるわけじゃなくて、新しい発見ができるという喜びが生まれる。
「うん、今日はそこに連れて行こうと思うんだ」
朝が立ち上がる。私もつられて腰を上げる。
「そこってどこ?」
「うーん……内緒」
「またミステリーツアー?」
「うん、そうだね」
またかぁ、と予想はしていたけど思う。だけど、嬉しい、喜びのため息が出た。そして、自然と口角が上がる。
「よし、行こう」
朝が私の手を取る。ひんやりと感じる、彼の温度。だけどその中に、人を想う優しさが隠れていることを私はちゃんと知っている。
また、私たちは歩く。海を背に、朝に連れられるままに足を進めていく。ザクザクとした砂浜から、タッタッとリズミカルなアスファルトに切り替わる音が、これから何かが始まることを示していた。
国道沿いの歩道を、海を左手に歩く。ザザァンと波が足元のブロック塀に打ち付ける音が心地よい。
私は手を引かれながら、視線はずっと海にあった。
「ねぇ朝、今日は海が濁ってるね。灰を大量に撒かれたみたい」
「そう?僕には淡い銀色に見えるよ」
「銀?」
「そっ。何だろうな、まるで、月を溶かしたみたいな、そんな色。だから今日は月が浮かんでないんじゃないかな」
子供におとぎ話を語りかけるような口調で、朝は言った。穏やかな表情には、その感情を形にしたような笑顔がある。
なんて、なんて素敵なことを言うんだろう。
私は朝の表現力に心を全て奪われた気がした。彼の言葉が耳から脳内に流れて、一つ一つのパーツが組み合わさって絵を作っていく。
想像する。まん丸の大きな満月が、地球にだんだんと近づいてくる。間近に迫ったところで、私たちは初めて知る。その大きさに、その色の美しさに、そのクレーターの形に。
月は海に足を付けていく。青い水に飲み込まれた瞬間から、その先は溶ける。白銀の液体となって、月光と同じ色が水面に滲んでいく。月は蝋のように溶けて、色だけが海に残される。
そうして月の全てが溶け込んだ色が、この海なんだ。
「そっか。月が、満月が溶けたんだ……」
「どうせ考えるならさ、楽しいほうがいいじゃん」
「そうだね。卑屈な考えになっても疲れるだけだし」
あはは、と私は笑う。いつもは、どうでもいい時に出た笑い声。だけど今は、ちゃんと意味があるような、そんな気がした。
相変わらず、空は暗い。行く先もはっきりとは見えにくい。海は灰色。
「夜、こっちだよ」
不意に朝が歩道から外れて、私を手招く。
「えっ、ここ?」
「そう、ここから入るんだ」
訊き返した。だって、またしてもそこは怪しげなところだったから。
「でもここ、森だよ。それも、獣道じゃん」
「うん。でも、合ってるんだよ、ここで」
崖になっている部分を登って、上に生えている木を掴んでから、朝は手を伸ばしてきた。
「はい、夜」
「いやいや、はい、じゃなくてさ……。連れて行きたい場所って、まさか森の中?」
「そのまさかだよ」
にっこりと朝は微笑む。
私は頭に指を当てて深くため息をついた。
「じゃあ今日は、私は月明かりも無い暗黒の森の中に連れて行かれるってわけか……。ちょっと怖すぎ」
「そういうことだね」
「何?肝試し?」
まぁ、そういうことなら今の時期にぴったりなんだけどね。
だけど、案の定、朝はそう言うつもりではないらしい。
「まさかぁ。自然の美しさを探しにいくんだよ」
それは、ついこの間も聞いた言葉。朝と不思議な散歩の始まり。
「ま、廃墟に連れて行かれたぐらいだからこんなこともあるか」
私は朝の手を掴んだ。瞬間、グッと体が引き上げられる。フワッと宙に浮かんだと思ったら、すぐに足が地面についた。朝って意外に力強いんだな。
森に入った瞬間から、辺りが真っ暗になった。もう、波の音も潮の香りもしない。その上、仄かな灯りの気配すら無くなってしまった。
ああ、月が出ていないだけで世界ってこんなにも闇に侵食されているんだ。
隙間がないほど生えている木々がシルエットだけ浮かび上がって、肝心の色は見えない。それが逆にタチが悪かった。
「夜」
「何……?」
「怖いの?」
「えっ、何で?」
「だって手が震えているから」
「あっ」
言われるまで、気が付かなかった。朝に握ってもらっていた右手は、いつの間にかカタカタと痙攣していた。汗でビッチョリと濡れていて、まるで感情が全て顔ではなくて手に行ったみたい。
「大丈夫、大丈夫だよ。怖いところじゃ無い。むしろ、綺麗なところ。きっと気にいるよ、夜なら」
幼子をあやすように、朝は優しく言った。普段なら口を尖らせて「子供扱いするな!」って言いたいところだけど、今はその声色が心地よい。
「そっか。そうなんだ……」
何となく許してもらえる気がして、私は握る手にぎゅっと力を込めた。予想通り、朝は嫌な顔一つせず、握り返してくれた。
大きな木の根っこを飛び越えて、枝が丸く伸びる自然のトンネルをくぐって、私たちは森の奥深くに進んでいく。
ちょっとした風が吹いたときの葉のざわめきや、木の実が落ちた音が、大袈裟なほど森に響くたび、私は朝の腕にしがみついた。彼は決して振り解くことはしなかった。
どのくらい歩いたんだろうって思うほど、散歩の時間が長く感じた。恐怖体験がいっぱいだったからかな?
信じたくは無いけど、多分そうだ。それしか考えられない。人間、嫌な時間はほど長く感じるって本当なんだな。悠久に感じたよ、この道が。
疲れ切ってゲンナリしている私に、朝はそっと耳打ちした。
「ここだよ」
もちろん周囲に人なんていないから、彼の声ははっきりと聞こえる。
「ここ、なの……?」
てっきり、こんなに酷い道のりを着たもんだから、その疲れが吹っ飛ぶくらいすごい景色が待っているのかと勝手に期待していた。
だけど、朝が連れてきた場所は、少し違う。こう言ったら何だけど、地味。
大きな大きな泉が中心にあって、その周囲を低い木々が囲んでいる。まさに、自然と自然が融合した素敵な場所。だけど、それだけだった。他に何か惹かれるものがあるかって訊かれると、そうじゃ無い。
「ねぇ、本当にここなの?」
「うん、そうだよ」
何の屈託もない笑顔で頷く朝。
「ふーん」
「あっ、信じてないでしょ」
「ああ、うん……まぁね」
「大丈夫、これから分かるよ」
「これから?」
「そう、だって、ほら見て」
朝は空を指差す。
彼の指先の延長線上から、雲がゆっくりと割れた。分厚いベールが剥がれ落ち、そこから白銀の月光が漏れる。
そして、一筋の光は真っ直ぐと降りてくる。私たちの目の前にある、この湖に。
「……!」
「ね、すごく綺麗でしょ?」
息を呑んで声も出せない私に、得意げな表情で尋ねてくる朝。
本当だ、朝の言ったことは、本当だった。疑ってごめん。信じなくてごめん。確かにここは、すごく綺麗だよ。
濁っていたように見えていた湖は、今は輝いていた。月明かりを吸い込んで、それを自分のもののようにして。
目の前に広がっていたのは、大きな鏡だった。この世界の全てを吸い込んでしまえそうな、綺麗な鏡。
ここに飛び込んだら、別世界に行けるんじゃないかな。
ここに飛び込んだら、悲しさや苦しさが、少しでも和らぐんじゃないかな。
鏡と化した湖に、私はたちまち心を奪われた。
「何でも包み込んでくれそうだよね」
朝がふと言った。私が考えているのと同じことを。やっぱり似ている。
「うん、ほんとにそうだね」
「飛び込んでみたいって思っちゃうんだ」
「……うん」
本当に、入ってみたい。この先の世界はどうなっているんだろうって。でも。
「でも、飛び込んじゃいけない気がする」
「私も今、同じことを思った」
「本当!?繋がってるね、僕たち」
朝の柔らかな微笑みに、私も口角を上げた。
「なんか、この凪いだ水面を崩したら、もう二度と戻ってきてくれないような気がする」
「そうだよね。こんなにも綺麗なものを、僕たちの欲なんかで穢しちゃいけない」
自然は、自然だから。私たち人間が干渉していいものじゃない。私たちはただ、見せてもらうだけ。
自然の美しさは、人工の手が加えられないからこそ、永遠の輝きと人を魅了する力を持っている。
少なくとも、今の私はそう思った。
死を嫌う君は、生きる意味を見つける 葉名月 乃夜 @noya7825
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