第11話



「はぁ……はぁ……」


 膝を折り、手を当てて呼吸を整える。


 ああ、やっぱいつもより体力削られてる。背中が石にでもなってしまったみたい。


 自分の荒い息と共に聞こえてくるのは、砂浜に打ち付ける波の音。


「はぁ……っ、はぁ」


 心臓がようやく元の運動を再開したことを悟り、私はゆっくり顔を上げる。


 すぐさま目に映る、まん丸の満月と、その月光を端のように伸ばしている濃紺の水面。


 辿り着いた、約束の浜辺に。


「大丈夫?」


 そして聞こえる、安心感をもたらす声。


「うん、大丈夫だよ」


 ちょっと無理やり笑顔を使った先にいたのは、表情を曇らせた朝だった。


 相変わらず早いなぁ。ずっと私を待っていてくれたんだ。そう思うと、こんな自分でも嫌いな気持ちが和らぐ。


「手」


 朝は私に手を差し伸べてくれた。


「ありがとう」


 風で気温が下がっているせいか、ひんやりと冷たい朝の手は、火照った私の体を、心なしか冷やしてくれた。


「ねぇ、どこ行くの?」


「どこに行くと思う?」


「それを聞いているんだけど」


 私は頰を膨らませた。朝は、ははっと少し面白がっているように笑う。


「行くまでのお楽しみ、でもいいかな?」


「うーん、分かったよ……」


 ミステリーツアーか、なんて思う。私の好奇心はものすごく揺さぶられたけど、朝がこう言っているなら仕方ない。


「じゃあ、付いてきて」


 朝は私の手を引っ張って歩き出した。


「うん、分かった」


 リードする彼の手は優しい。だけど、冷たい。夏なのに、朝の周りだけ冷気の膜に包まれているみたい。


 ザッザッと砂を踏む音が2人分、リズミカルに鳴り響く。背中の方から聞こえてくる波の音が次第に遠ざかって、地面硬くなった。


 街と反対方向に、朝は私を連れていく。彼は一体、何を見せたいんだろう?


 分からない、分からないけど、不思議と胸が弾む。特別なものが待っているに違いないっていう高揚感が湧き上がる。


 だんだんと海の蒼が薄れてきて、代わりに深くなるのは闇の黒。


「……ねぇ、こっちって廃墟じゃない?」


「うん、そうだよ」


「じゃあ私は廃墟に連れて行かれるのかな?」


「そうだね」


 あまりにもさらっとした言い方に、思わずあはって笑った。そうか、廃墟か、うん。


 向かう方向からしてそこしかないと思ってたけど、まさか本当だとはね。


 でも、嫌な感じはしない。普通、廃墟に連れて行かれるなら脅迫とか暴行とか、恐ろしい類のもののイメージしかないけど。


 朝は違うと思う。多分、意味があって廃墟に行くんだ。


 無音が漂う世界。人気のない道で、ぼんやりとした建物の影が近づいてくる。


 当たり前だけど、すでに使われていない場所だからボロボロ。植物は蔓延ってるし、外壁は汚いし、窓ガラスは割れている。暗いから、おどろおどろしい光景。そこに薄らと月明かりがベールとなって廃墟を覆っているものだから、不気味さは増す一方。


 だけど、なぜだろう?

 その恐ろしさの中に、妙に惹かれる魅力があるのは。


 高鳴る胸、膨らむときめき、行ってみたいという好奇心。廃墟という人気のない静寂の世界で、私の中では様々な感情が入り混じる。


「不思議。怖いのに綺麗」


「でしょ?本当なら幽霊とか怯えるはずなのに、何でか僕は素敵だなぁって思っちゃうんだよね」


「あ、それ私も思った」


「やっぱり!?僕たちって似ているなぁ」


 朝が嬉しそうに呟いた言葉に、私も同情する。うん、似てるよ、私たち。考えも感じ方も。


 舗装だけは綺麗な道を歩いて、私と朝は廃墟の中心を突き進む。廃病院の横を通って、廃店をチラリと見て、廃家の中にお邪魔する。


「お邪魔しまーす」


「お、お邪魔します……」


 敗れたカーテンがそよかな風になびいている。錆びれた家具が床に倒れて、行手を阻んでいる。いかにも、俗世から捨てられた場所って感じ。


「ねぇ、朝」


「ん、何?」


「人がいないのにさ、お邪魔しますっておかしくない?」


「そうかなぁ?そんなことないと思うけど」


「えー、何で?」


「だってさ、お邪魔しますって人に言うだけじゃないじゃん」


「そう?じゃ、誰に言うの?」


「んー、この場所自体に、かな。この場所に込められた想いとか、いるであろう神様とか」


「神様、か……」


 思わず嗤いそうになったところで、はっとなった。朝の笑顔を見た瞬間に。朝の言葉の意味を理解した瞬間に。


 挨拶って、人間に言うだけじゃなくて、お世話になった物とか施設とかにも言うことはある。それと、同じことなんじゃないかな。


 そう思うと、なんだかこの場所を見る目が変わった。荒んだだけの部屋が、想いが詰まった宝箱のように感じてくる。


 朝と私が交互に通る道の埃が舞い上がって、月明かりに当たって一瞬だけ宝石のように輝く。空気を汚染するだけのゴミが、この時だけ妙に美しかった。


 元はキッチンであったであろう部屋の勝手口から外に出て、また暗い外に出る。部屋特有の暗黒から、仄かな白銀が照らす廃ビルの集中部をまた歩く。


「ねぇ、どこまで行くの?」


「もうちょっと」


 朝はずっと私の手を引っ張ったまま。まぁ、悪い気はしないからいいんだけどね。


 薄い茶髪が夜風で揺れる彼の後ろ姿に、私の頰は熱くなる。なんかこう、朝の背中は頼り甲斐があるんだけど儚い。少しでも間違ったり、無理したら壊れてしまいそう。


 だから、傷つけないように、落とさないように、しっかりとその背中を見つめた。


 朝はとある廃ビルの正面入り口に向かう。開けっぱなしの扉から侵入した私たちは、清潔感ある真っ白な壁紙に迎えられる。電気もついていない、受付のソファはそのまま、散らばるガラスの破片。


「なんか、ちょっと怖いね」


「僕も最初はそう思ったよ。だけど、慣れてくると案外いい場所なんだ」


「へー、そうなんだ。……ってことは、今までに何度も来たことあるの?」


「まぁね」


 そう言う朝の顔は得意げだった。


「病院の中は確かに不気味な気がするけど、屋上はすごいんだ」


 興奮気味に自慢した朝は、早速と言った様子で階段を駆け上がった。同じスピードで、私はなんとか付いていく。


 上がって、上がって、上がる。一階から二階を通り越して、三階を横目で流して、四階から離れて。そうして、最上階の扉の前に辿り着く。


「じゃあ、行くよ」


 朝が扉の取っ手に手をかけながら、少しもったいぶる。


「うん、いいよ」


 いつでも準備ばっちり、という様子を彼に伝える。


 朝はニコッと笑って、ゆっくりとその扉を開けた。


 フワッと無風だった廃ビルに夜風が入る。私の髪が揺らされる。仄かな光が入る。色が入る。そして、空が見える。


「うわぁぁぁ」


 思わず、声を上げていた。抑えるとか抑えないとか関係なく、本当に無意識に出ていた。あまりにも美しい空に、私の感動が溢れた。


 ここ一帯で一番高いであろう屋上の上には、濃紺を覆い尽くせるほどの小さな星たちが瞬いていた。自己主張の強い一等星から、儚いんだけどけれど集まれば何にでもなれる微小の星まで。


 天の川があって、ベガがあって、アンタレスがあって。西は真っ青に黒がかった色合いなのに、東は薄く紫色が混じっていて。


 今まで背の高い廃墟ばっかりで気が付かなかったけど、こんなにも星が綺麗だったんだ。


「どう、綺麗でしょ?」


 たっぷり10分くらいは見たであろう後に、朝が声をかけてきた。


「……うん、すごく」


 言いたいことはもっといっぱいあるはずなのに、口から出てきたのはその二言だけだった。この空には、言葉ですら言い表せない魅力が詰まっている、そう感じた。


「僕もね、もう見つけた時は感動したんだよ!世界に、それも近くに、こんな綺麗な場所があったんだなーって」


 上に手を大きく広げる朝は、この星たちを掴めそうな気がした。無邪気に喜ぶ表情の彼に、私はふふっと笑った。


「本当、こんな綺麗な場所があるんだね。しかも、廃墟で見つかるなんて」


「何がどこにあるかわからないから、世界って不思議だよね」


 うん、ほんと不思議。そこの景色は、そこに行かないと知らない。推測だけじゃ、現実と違うことだってある。だから探検家っていう人がいるんだ。私は初めて彼らの存在する意味を理解した気がした。

 

「ねぇ、夜」


「何?」


「救われた?」


 朝が笑顔のまま私の顔を覗き込んだ。私はにっこりと口角を吊り上げる。


「うん、救われた」


「そっか。なら良かった!」


 朝は心の底から嬉しそうに言って、屋上を駆けた。そして、柵も何もない縁にちょこんと座る。


「ちょ、何してるの危ないよ!」


「大丈夫。気持ちいいから夜も来なよ」


 足をぶらぶらさせる朝は本当に気持ちよさそうで、気づいたら近づいていた。


 空とコンクリートの境目。下を覗き込めば遥か遠い地面が大きく見える。私は恐る恐る座り込んだ。踏むものがなくなった足がスースーする。


 だけど、それが逆に開放感を味わせた。この世界の空気に、この美しい空に溶け込めているんだって感覚があって、恐怖よりも興奮が勝る。


 私の震えている手を、朝がきゅっと握ってくれたから、もう怖いものなし。


「綺麗だなぁ」


「綺麗だね」


 星空を前に、口から出る感想はそればかり。それ以上に似合う言葉が、見つからない。


 不意に、隣で朝が腕をさすっていた。


「どうしたの?」


「うーん、ちょっと寒い……」


「そうだね、いくら夏だからって真夜中だし……。あっ、じゃあ」


 私は背負っていたリュックを下ろして、ガサガサと中のものをかき回す。


「これ着て」


 私は朝にパーカーを手渡す。防寒のために持ってきたものだけど、私は既に着込んでいた。


「いいの!?」


 朝は嬉しそうに受け取って、羽織った。


「どう?似合ってる?」


「うん、似合ってるよ」


「ははっ、あったかいなぁ」


 朝はパーカーの袖をギュッと握った。


 私は自然と口元が吊り上がっていた。朝のパーカー姿が似合ってるっていうのもあるし、私の服を朝が着ているっていうことにも、なんとも言えないくすぐったさがある。


 私たちはまた見上げる。静かに、この景色を目に焼き付けるように。


「ねぇ朝」


「ん、何?」


「また連れてきてよ」


「うん、もちろん。今度はもっと素敵な場所も紹介してあげるよ」


「本当!?期待してるね」


「あはは、任せて」


 笑い合った声は、夜風に運ばれて星が瞬く世界の一部となった。

 

 

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