第9話
「こんばんわ」
真っ暗な夜の世界の浜辺にひっそりと佇んでいる彼に、そっと呼びかけた。
囁くようにあまりにもちいさくしてしまったから、波の音でかき消されていないか心配だったけど、杞憂だったみたい。
私が声を出してから3秒後、彼は水平線に向けていた視線を捻って、私を捉えた。
ニッコリとした、優しい笑顔を浮かべて。月夜に、天使のような微笑み。
「こんばんは、夜」
朝は立ち上がりながら、体の向きをこちら側へ変える。
その時、朝のズボンの裾が濡れていることに気づいた。きっと、波を浴びるほど海に近寄っていたんだろうな。そんな想像を膨らませつつ、私は朝に歩み寄った。
今日もサンダルを履いてきた。歩くたびに感じる砂の感触が心地よい。
「朝は、何してたの?」
「海を見てたんだ」
そう言って、彼はまた、大量の蒼い水が煌めく反対側に目をやる。
月光を反射した海は、水面に黄金の月を映しており、その月が波に揺られるたびに形を変える。揺れた月は一筋の細い光を放ち、水平線から砂浜までに細長い道をつくった。
私達を向かうまで連れて行ってくれる道かな、なんて想像してしまう。
「海ってさ、何でも綺麗に洗い流してくれる気がするんだよね」
「ああ、分かる」
私は朝の隣に立って、同じように遥か彼方を見据えた。見えているのに絶対に届かない水平線は、白銀の線を描いている。
「海はいいよね。私の悩み、全部持っていってくれそう。海の上で永遠に浮かんでいたいなぁなんて思うもん」
冷たい海で、何も考えずに浸かっていることができたらどんなにいいだろう。何も考えず、ただ波に乗って海の中を浮遊している。
そんな自分を想像する。
「そうだね。それはいいなぁ」
朝も想像を膨らませてうっとりとする。
「でも、できないんだけどね」
「確かにね」
2人は笑った。出来ないと言ったのに、楽しそうに。
そして、黙り込んだ。言葉を紡ぐのをやめ、ただただ目の前の景色に食い入る。
さざ波の音が耳に心地よい。
揺らめくたびに色が微妙に変化する水面が美しい。そして、一瞬凪いだ時に映る夜空の月が魅力的だった。
ああ、海って綺麗だな。
生きている中で、人生の中で、綺麗だと思えるものがあるならば、それは自然だった。
人口ではない、自然にできたものが、心の穢れを浄化してくれる気がした。
「綺麗だな…」
心の声が漏れていた。すると、朝も笑顔で私の方を向いた。
「ほんとだよね。自然って綺麗」
「うん、心が洗われる気がするもん」
私は満面の笑みで頷いた。朝と同じ感想を持てたのが嬉しかったから。
彼と同じでいることに幸福を感じる。共感してくれる人が居るって、やっぱいいな。
嬉しさに浸っていると、海を眺めていた朝が質問してきた。
「ねぇ、夜はさ、自然が好き?」
「……?もちろん好きだよ」
私は正直に答える。じゃあ、と朝が再び尋ねてきた。
「自然は美しいと思う?」
「それはもちろん、思うよ。この世界の中で、唯一綺麗」
こんな荒んだ世界、いや、世の中でも、自然という私達では作り出せないものだけは輝いていた。
私には、その光が分かる。
私の答えを聞いた朝は、そっか、と呟いて黙り込んだ。
さざ波の音が私達の間を通り抜け、沈黙を消し去って心地よい音の余韻を残していく。それに乗って、潮の香りが鼻につく。
「……じゃ、一つ提案していい?」
今まで口を開かなかった朝が、突然言い出した。
でも、提案という言葉に興味を惹かれる。
「何?」
私は首を傾げて朝の方を向いた。
彼は甘い笑顔で私を見つめ返す。しかし、その瞳には、何処か寂しさの色も混ざっているような気がした。
不思議な色合いを見せる瞳で、私を捉える。
「自然を、美しいものを、僕と探しに行かない?」
「自然……?」
「そう」
朝は楽しそうに言った。まるで、宝探しを誘う子供みたいに、無邪気な表情で。
「美しいと思える自然を、僕らで見つけに行くんだよ。そうすれば、死も怖いことも忘れちゃうでしょう?」
こてんと首を曲げて覗き込んでくる朝の笑顔が、妙に可愛くて綺麗で、その上言っていることまで素敵なものだから思わず見入ってしまう。
朝は私に手を伸ばした。
「死ぬ恐怖を忘れちゃうくらいの、この世の退屈をしのげるくらいの綺麗なものを探そうよ」
朝の提案はとても魅力的で、合理的だった。私はすぐさま首を縦に振って、その手を取った。
「いいね、それ。行こう!」
自然を探すなんて、なんて楽しく、素敵なことなんだろう。私はうっとりと想像の景色を見つめる。
いろんな景色を見てみたい。たくさんの自然に触れ合いたい。
目を輝かせる私に、朝は苦笑して、「じゃあ」と私の手をぎゅっと握った。朝の手はとてもひんやりと冷たく、振動を感じられなかった。
私の手が、あまりにも速く脈打っていたからかな?
朝は吐息がかかりそうなほど顔を近くして言った。
「明日の夜、行こうか」
「えっ、明日?」
てっきり、もうちょっと準備する期間を設けるのかと思ったから、唐突な計画に驚く。
しかし、朝はさほど気にしてない様子で、
「明日でも行けるような場所、知ってるから」
淡い月の光なよく合う笑みを浮かべた。
「そうなんだ」
朝の知っている場所なら大丈夫だろう。
何故かは分からないけど、そう確信できる。私はにっこりと笑った。
「分かった。じゃあ、また明日ね」
「うん、明日、ここで」
握り合った手に、月明かりが重なる。白銀に彩られた私達の指はキラキラと輝いていた。
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