第8話


 どれくらい走ったんだろう?

 

 息も上がりきって、体が燃えているように熱くなった頃、走るスピードが、徐々に落ちていった。

 

 やがて、足は完全に動きを止め、鉛のように重くなり始めた。私は立ち止まって、肩で息をしながら膝に手を着く。

 

 ザザぁんと波が海岸に打ちつける。

 

 音が聞こえるたびに、塩の香りをふんだんに含んだ風が頬を撫でる。


 私の足が止まったのは、海だった。

 

 家の近くにある、密かに人気があるビーチスポット。知る人ぞ知る、美しい場所だ。

 

 無意識のうちに、爪先が夜空色に染まる水の方へ向いていた。


 私は碧く輝く海に目を向けた途端、頭が真っ白になった。何も考えず、まるで魂を吸い取られたかのように、ふらふらとした足取りで浜辺に歩み寄った。

 

 硬いアスファルトから一転、柔らかい砂を踏む。ザッザッと軽い音を立てながら、視界を占める水へと近づいて行く。

 

 そして、あと一歩踏み出せば塩水に浸かるいうところで、何の悪戯か、足が止まった。

 

 瞬間、ガクッと膝から崩れ落ちる。ザクッと、膝小僧が砂に埋まる痛みが走った。

 

 海に目を向けたまま、私は正座した。

 

 何で、どうしてこんなところで止まるの?

 

 視線を海に向けたまま、私は苛立った。

 

 波打ち際に打ち付けられている水が、時折足にかかって、パジャマのズボンを濡らす。

 

 どうせなら、このまま海に入りたかった。

 暗く重い水の中に沈んで、誰も手が届かないような場所まで行ってみたかった。

 

 なのに何故、私の足は何故かここで動かなくなるのか?


 中途半端、あまりにも中途半端すぎる。

 

 いっそ、自力で飛び込んでやろうか?

 

 そんな考えが頭をよぎったが、体の自由が効かなかった。足は金属にすり替わったかのように重いし、脳から命令を出そうと思っても脊髄まで通らない。

 

 何より、私の意識は目の前の海に釘付けだった。

 

 どうしてこんなにも惹かれるんだろう?

 

 自分自身でも、理由はわからない。

 

 ただ、闇と同じ色に染まっている大量の水を見ていると、世界がちっぽけに見えた。

 

 どこまでも続く水平線と、水面に映る満月。

 

 途切れを感じさせない海は、世界の何よりも、世界を知っているのではないか?

 

 海こそが、この世の中心だという気さえしてきた。

 

 心に貼り付いていた恐怖が、塩水を浴びるたびに流されて行く感覚があった。緊迫していた体が、徐々に解放されていった。

 

 海は、私を解き放ってくれた。

 時には穏やかで、時には大荒れになる。

 神秘的で、謎めいていて、少しだけ怖い。

 

 そんな、独特な魅力が、海にはあった。

 

 規則的に聞こえてくる波の音が耳に良い。

 誘われるように吹く陸風が心地いい。

 揺れるたびに道のような光ができる水面が美しい。


 私という人間の全てが、海という広大な地形に引き込まれていた。

 

 この世で、海以上に綺麗なものはない。

 

 闇に飲まれそうだったところを救ってくれたためか、そんな、洗脳されたような思いに浸った。

 

 私はずっと、青い海を眺め続ける。

 

 何故ここに来たかという理由を知りたいと思う欲望は、すっかり頭から消えていた。

 

 全てが、どうでもよく思った。

 永遠に、この海を眺めていたい。

 もしくは、この海と一体化したい。

 

 体を休ませた後にもう一度チャレンジすれば、願いは叶うかもしれない。

 

 そんなことを思った、その時だった。


「何してるの?」

 

 波の音の合間に、スッと滑り込んでくるような、静かな声が聞こえた。


「えっ?」


 明らかな人の声に驚く。私は、声が聞こえてきた方をゆっくりと振り向いた。


「君、どうしたの?」

 

 そこにいたのは、一人の少年だった。月明かりに照らされて、全身が淡い黄色に光っていた。

 

 私と同じくらいの身長。

 年齢も、かなり近いだろう。


 風が吹くたびにサラサラと揺れる、ちょっと長めの髪。少し細めている目は、ぱっちりとした二重で、元は女子にも負けないくらい大きいのだろう。白いシャツから出ている腕は、日光を浴びたことがないのかと思う、そのぐらい白かった。

 

 少年は、私を見て優しい微笑みを讃えている。

 

 そんな彼を見つめながら、私は口を開いた。


「あなた、誰?」


 咄嗟に放った言葉が、それだった。

 

 それはそうだろう。

 

 時間の感覚は狂っていてよく分からないが、さっきまで私以外誰もいなかった場所に、突如として知らぬ人が現れたのだ。初対面なら、何者か気になるのは当たり前。 

 

 しかし私は、見知らぬ人だからということよりも、こんな時間に出歩いている人という、そちらの方が気になった。

 

 真夜中、それも、大人でさえ寝静まっているような時間に外に出ている少年はどんな人なのか、そっちの方が知りたかった。

 

 質問を投げかけた少年は、天使のような微笑みのまま、優しい口調で言った。


「僕は朝」

 

 朝、と名乗った少年は、首を傾げて、「君は?」と、今度は私に質問を返した。

 

 本来、ぽっと知り合った人に名前を教えるなんてあり得ないし、教えようとも思わない。

 

 だが、朝の表情のせいか、声色のせいか、私の心にかけていた警戒心は氷の如く溶かされた。というか、元々ゼロに近いほどなかった。

 

 私は表情を変えず、ただ淡々と台詞を並べる。


「私は夜。預幡 夜」


「夜ちゃんか。いい名前だね」

 

 朝はただ、社交辞令のような感覚でそう言ったのだろう。しかし、私はそれを聞いた瞬間、湧き上がる怒りを感じた。


「別に良くない。あと、キモいからちゃん付けはやめて」

 

 私が、そうはっきりと言うのは意外だったのだろう。

 

 朝は一瞬面食らったように目を見開いて、それから、「ああ…」と笑いを張り付けたまま俯いた。


「そっか、そうだよね。初対面のやつに、こんなこと言われたらムカつくよね。…ごめん」

 

 素直に謝まられると、逆に困った。何も、そこまで深刻に思われる必要はないのだから。


「えっと…、そこまで落ち込む必要はないし。そんなに怒ったわけじゃないから…」

 

 ムカついたのは事実だが、全部が全部悪いと背負われるのは申し訳ない。

 

 少しの嘘も交えつつ、私はぶっきらぼうに言い放つ。

 

 そんな私を、朝は不思議そうに見つめてから、「あはっ」と表情を最初のように崩した。


「なら良かった」

 

 何の屈託もなく笑う少年を横目で見て、何なんだこいつは、と疑問を感じる。

 

 朝は、何故ここに来たんだろう?

 

 思ったことをすぐに口にするタイプの私は、今回も例外ではなかった。


「朝は、何しに来たの?」

 

 ただ、純粋に浮かんだ質問を声に出しただけ。

 

 ただ、自分の事を聞き出されるのが怖くて、話題を逸らそうとしただけ。

 

 なのに、朝は私から出た質問を聞いた瞬間、優しい笑顔をフッと消して、硬く、どこか苦しげな表情を浮かべた。

 

 ついさっきまで私を真っ直ぐと見ていた瞳は、海に向けられていた。

 

 真っ黒い目の奥には、微かな悲しみと恐怖が揺らいでいるように見えた。

 

 無表情になった朝は、遠くを見ながら一言、


「逃げてきた」

 

 先程の私のように、淡々と、感情を乗せずに言った。

 

 さっきとは打って変わって、静かだ、と言うよりも、低く沈んだ声だった。

 

 感情を乗せず、と言ったけど、調子から、瞳に見えたものと同じ、悲しみと虚しさが読み取れた。


 第一印象とは異なる朝の姿に、私は、同じだ、と思った。

 

 私と同じ、世界を嫌う人だ。

 死を、よく知っている人だ。

 

 私のように、現実という空間から出たくて逃亡した人だ。

 

 それがわかった瞬間、謎に朝に親近感を感じた。

 

 自分と同じ境遇の人。

 自分と同じことを考えている人。


「そっか…」


 私は下に広がる砂に視線を落とした。

 

 自然と口角が上がって、穏やかな感情が広がる。

 

 全身が、何とも言えない、ふわふわとしたものに包まれる感覚があった。


「私と、同じだね」

 

 気づけば、朝に向かって、そう呟いていた。

 

 私の声が届いたのか届いたないのかは分からない。

 

 ただ、私の声が消えるか消えないかのところで、朝は目を見開いて私を見つめた。

 

 全てを吸い込めそうなくらい深い黒色の瞳に、浜辺でしゃがんでいる私が映っていた。

 

 朝は震える唇をなんとか開く。


「君も…?」

 

 戸惑いを隠さず、しかしその中に、自分をわかってくれるんじゃないかという期待を含んでいる、そんな言い方だった。

 

 きっとこの少年は、全て分かってくれる。

 

 包み隠すことが必要ないと認識した私は、ふっと息を吐いて、今まで封印していた心の扉の鍵を、初めて他人に開けた。


「私も、怖くて逃げてきたんだ」


「…そうだったんだ」


「あなた、朝も、死が怖いの?」


「当たり前だよ。怖くない人なんているもんか」


「そうだよね」

 

 聞いて、安心した。

 

 やはり、誰だって死は恐れるものだ。

 私だけが異常なわけではなかった。

 

 「それに…」と、朝は深くため息をつく。


「僕に至っては、人よりも死という恐怖が感じやすい。いつだって、人間は死と隣り合わせだという考えが張り付いている」

 

 朝は右手を自身の前に出して、広げていた手の平をぎゅっと握りしめた。

 

 まるで、消えそうな何かを失わないように包み込んだみたいに。

 

 そんな彼を、私は静かに見つめた。


「僕らは、死んだらどうなるのだろう?この世から消えるという感覚は、どんなものなのだろう?そもそも、僕らはどうして生きれるのだろう?」


 朝の口からは、スラスラと、そんな疑問が溢れ出す。 


「そんなことを考えれば考えるほど、自分という人間がこの世界にいることが怖くなる。生きるという行為が出来ているのが、不思議でしょうがない」


 でも、と朝は視線を地面の砂に下げた。


「その理由は分からない。原理も意味も見いだせないままで、毎日を迎えている自分が、とてつもなく怖いんだ。自分が、これからどうなってしまうのか、考えるたびに頭は痛くなって、答えは出ない。謎が解明できないのが、酷くむず痒くて、恐ろしいんだ」


「分かるよ」

 

 私は俯いている朝に、そっと囁くように言った。

 

 彼は本当に、私と同じ思考をしている。


「私も怖い。宇宙という果てしない場所があることも、人間という生物が生まれたことも、その生物が必ず死ぬということも」

 

 今まで何度も考えたことがある疑問。

 

 しかし、それを誰かに言うことは絶対になかった。


 話したって、きっと大抵の人は答えてくれないし、分からない。

 

 それに、たぶんほとんどの人間はそんなことを考えることもなく生活しているんだと思う。

 

 幸せそうに1日を送る人々を見ていると、そんなことで悩んでいる私の方がおかしいんじゃないかと錯覚するようになった。

 

 それが今日、壊された。

 


自分だけだと思っていた考えは、共有できる人がいた。

 

 何よりも、そのことが嬉しかった。

 

 普段は死について吟味すると体が震えて脳が思考を拒むが、今日は違った。

 

 全てを許してくれたかのように、私の口は言葉を紡いでいった。



「何で、何のために、私たちは生きているのか。そんな、誰も回答を知らない問題を、私はずっと抱えている。そして、追っている」


「僕だけじゃなかったんだ」

 

 ふと、朝が声を漏らした。


 さっき私が感じたことと全く同じ感想に、私はなんだか嬉しくなる。


「私も、そう思ってた」

 

 ゆっくりと顔を上げて、隣に立つ朝を見上げる。

 

 朝も同様に、真下に向けていた視線を、首を動かして私に移す。

 

 ここで初めて、お互いの視線が混ざり合った。

 

 相手の瞳に映る自分を見つけて、二人は微笑み合う。


「僕たち、似たもの同士だね」


「本当、そうだね」

 

 ようやく見つけた、自分の考えを理解してくれる人。

 

 胸の内の思いを、躊躇なく吐き出せ合える人。

 

 見つけた大切な存在を、お互い目に焼き付けるように見つめ合った。


「…」

 

 二人は何も発せず、相手の瞳に視線を合わせる。

 

 波の音だけが、絶えず二人と包んでいる。

 

 海と夜空が作り出す、二人だけが理解できる空間が、現実とは離されて出来ていた。


「ねえ」

 

 沈黙を破ったのは、朝の方だった。

 

 私の事を見つめながら、柔らかな声で、ある

提案を持ちかけてきた。


「夜は、毎日ここに来るの?」


「ううん。今日が初めて」


「そうなんだ」


「朝は?」


「僕は何度か来ている。夜もさ、毎日おいでよ」


「…何で?」


「話したい、君と。僕の心を分かってくれる、唯一の人だから」

 

 朝の純粋な瞳に捉えられて、私はこの上ないくらいの嬉しさが、身体中に駆け巡った気がした。


「うん、分かった。私も、朝と話したい」

 

 自分に共感してくれる孤独を抱えた少年に、にっこりと笑いかける。


「じゃあ、約束」

 

 そう言って、朝は右手の小指を突き出してきた。 

 

 私も、重かった体に力を入れて立ち上がらせ、朝の前に小指を出す。

 

 お互いの指に自分の指を絡め合わせ、離れないようにきつく握った。

 

 朝の指はひんやりと冷たくて、しかしその奥に仄かな温もりを感じた。


「また明日」

 

 重なった二人の声は、清らかに澄んだ真夜中の空気に溶け込んで、世界の一部となった。

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