第7話

「っっっわあぁぁぁっ!」

 

 自分の叫び声で、私は飛び起きた。


 目の前は真っ暗だ。でも、微かな明かりは感じられる。バサッと、布団が派手に音を立ててベッドから滑り落ちる。


「あ…あ…」

 

 声がうまく出ない。言葉を紡げない。体が震える。心臓が縮こまる。

 

 苦しかった。怖かった。

 

 べったりとした恐怖が、心の壁に張り付いて締め付けてきた。


「はぁ…はぁ…」

 

 荒い呼吸を吐きながら、何度も何度も胸を押さえる。


「はぁ…ああ」

 

 ようやく落ち着いた私は、ずっと自分の足の上に落としていた視線をあげた。

 

 暗がりな部屋に、僅かな月明かりが灯っている。見慣れた、自分の部屋であった。


「夢、か…」

 

 ついさっきまでいた闇の空間が、さっきまで私を襲っていた現象が、現実ではないことにほっとする。

 

 何だったんだろう、さっきの夢は?

 

 追いかけてきた手の群れが、ブワッと脳内に浮かび上がる。

 

 思わず、身震いした。

 悪夢にしても、酷すぎる。

 

 私は自身の足首を見た。相変わらず、ほっそい弱そうな足。

 

 だが、その皮膚には、生気を失った手に掴まれた感触が、妙なほど鮮明に残っている。ひどく冷たいくせに、やけに力だけは強かった、あの手の感触が。

 

 ぎゅっと音を立てた心臓に、私は自身を抱きしめた。

 

 怖い、恐い、こわい…。

 

 純粋な恐怖が、胸の中を占めた。

 

 次々と湧き溢れる感情は、制御不可能となっていた。内側から侵食するように広がる闇は、私が見ている世界を変えていく。

 

 部屋に張り付く影が、夢の中の真っ暗な空間と重なる。カーテンの隙間から差し込んでいる光りが、死んだ手の群れを連想させる。

 

 とにかく、何もかもが怖かった。全てが、私に殺意を持っているように感じた。

 

 反射的に思う。

 

 ここに居てはいけない。

 ここには居たくない。

 

 どこかに逃げなくては。


 衝動のままに、体を動かした。ベッドから飛び降りて、部屋を出た。

 

 案の定、家族は夢の深くに堕ちていて、起きる気配はない。

 

 階段を駆け降りて、何も持たないまま、サンダルに足を通して玄関を開けた。

 

 むわっとした生ぬるい空気を顔面に受けたが、構わず外に出た。

 

 周りが暗かった。

 

 電灯がぽつりぽつりと立っている道は、真っ暗な場所よりもタチの悪い恐怖が蔓延っている。


 違う。ここじゃない。ここじゃダメだ。

 

 もっと遠くに。

 もっと違う場所に。

 

 殆ど何も考えずに、走っていた。

 

 無我夢中で足を動かす。どこへ向かっているかなんて、分からないしどうでもよかった。

 

 とにかく、どこかへ…。

 

 周りは暗くても、夏は夏だった。

 

 昼間のように、蝉の声は聴こえるし、ベタつく湿気もある。空は雲一つなく晴れてるし、地面からは微妙に熱気が上がってきている。

 

 ただ、人の気配はなかった。

 

 当たり前と言えば当たり前。

 

 今は夜中だ。

 子供は愚か、大人達だって、1日の疲れを癒すために眠りにつくだろう。

 

 日本の全てが静まり返るこの世界で、走っている人なんて私だけだ。

 

 両脇を通り過ぎる風景をまともに見ることもなく、私は街の中を駆けて行く。見慣れた家や、行きつけの店を通り越して、私の足はまだまだ進む。


 不意に、疑問を持った。

 

 お前はどこまで行くの?

 

 自分の足に、心の中で問いかけてみたが、もちろん返事はない。

 

 ただ、規則的に上下運動を繰り返す。自分の体のくせに、まるで操られているかのようだ。

 

 でも、それでもよかった。

 むしろ、それがよかった。

 

 このまま、足に身を任せて、行ける場所まで走り続けたいとすら願った。

 

 だが、いつかは必ず、終わりが来る。

 

 それは、限界が来る、という意味ではなく、辿り着くべき場所に来たということを示していた。


 それが分かったのは、今から30分後の事。

  

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