第6話

           *

 夢を見た。

 

 悪夢だった。

 

 真っ暗な闇の空間に、私という存在は、一人、佇んでいた。

 

 地面だけが分かる、闇の世界。

 

 遠くも近くも、明るさも暗さも、視界では読み取る事ができない。


「ここは、どこ?」

 

 呟いた声も、こだまする事なく、ストンとその場に落ちてしまう。

 

 返ってくる声なんて、ひとつもない。それどころか、音すら聞こえない。本当に、何もない真っ暗闇な空間だ。


 私は途方に暮れる。

 

 どうすればいいんだろう?

 

 この時、私の頭に、ここから出る、という考えは浮かんでこなかった。

 

 別に、ここにいたって構わない。むしろ、ここの方が私の居場所の気さえした。

 

 ただ、何をして暇を持て余そうか、と思った。考えても考えても思いつかない私は、取り敢えず歩いた。

 

 足を、前だと思う方向に進ませた。

 足音もしない、足の裏の感触もない。


 何故自分が平行に進めているのか不思議になるほど、何も感じなかった。

   

 取り敢えず、太ももをあげて足を動かし続ける。ただひたすらに、触れられる部分から足の裏を離して、付けて、また離して、また付ける。

 

 幾ら歩いても、景色はちっとも変わらない。 と言うより、この世界には景色という概念さえ無さそうだ。

 

 どのくらい動いただろう。

 

 時間という感覚が関係ない闇の空間にて、私はパタリと足を止めた。


「疲れたな…」

 

 ぽつりと吐き出された一言は、あまりにも重く、深いものだった。

 

 歩いても歩いても、先は見えない。

 

 こんな場所で、一体何をしろというのか?

 

 完全に途方に暮れていた、その時。背筋に、いや、全身に、得体の知れぬ恐怖が走った。

 

 毛が逆立つくらいの狂気と共に、誰かに見られているような気色悪い感覚が、私の全てに刺さった。

 

 冷や汗がブワッと湧き出る。全身が痙攣して、手足が震える。脈が早くなって、呼吸が苦しい。

 

 思わず自分を抱きしめた時、ふと、遠くから鳴り響く騒音を耳が察知した。

 

 驚いて振り向く。そして、視界が捉えたものに、さらに目を見開いた。

 

 背後から迫る音の正体、それは、たくさんの手の群れだった。

 

 闇の中でもはっきりと捉えられる程、その「手」達は巨大な波と化して蠢いていた。一つ一つの大きさとしては、多分大人の女性くらい。細く、すらっとした長い指。

 

 しかし、その色は、生きている人間のものとは思えなかった。もしかしたら、本当に生きていないかも知れない。

 

 塊となって進む群れの色は、紛れもない真っ白だった。雪のような白さ、という美しさはどこにもなく、生気がない、ただの不気味な集合体であった。

 

 そんなものが、私に近づいてくる。

 

 波のように次々と競り上がって来て、闇の空間を飲み込むように進んでいる。

 

 得体の知れない恐怖に、私は立ちすくむことしかできなかった。ガクガクと痙攣する膝は、脳からの指示も聞かないまま、怯え続けている。

 

 どうすればいい?

 どうしよう?

 私は何をしたらいいの?

 

 疑問が一気に駆け巡るも、焦りと恐怖のせいか、思考回路が回らない。目の前の出来事を、見つめることしかできなくなっていた。

 

 動け。進め。逃げろ。

 

 頭はそんなことを繰り返しているはずなのに、体はちっとも動いてくれない。

 

 このままじゃ…。

 

 嫌な予感が、脳裏をよぎる。


「いやだっ、いやだぁ!」

 

 走れ、走れ、走れ!

 

 何度も、呪文のように言葉を繰り返す。

 

 どぉぉっと、手が地面を抉りながら這っている音が、地響きとして聞こえてくる。いつの間にか、手の群れはすぐそこまで迫って来ている。あいつらが、腕をあと4、5かきすれば私に届く場所まで。

 

 間近で見た奴らの圧と威力は、凄まじかった。

 だからだろうか。

 おぞましい恐怖を目の当たりにした私の体は、突然、拘束が解けたかのように自由になった。

 

 さっきまで固まっていたのが、嘘みたいだ。

 

 命令の聞く身体を手に入れた私は、足が動くと知るや否や、踵を返して全速力で走った。四肢が千切れそうになろうが、呼吸が上がろうが、どうでもよかった。

 

 とにかく、逃げなくては。


 そんな想いだけが脳内を占める。にも関わらず、手の群れはそんな私の全力を嘲笑うかのように、距離を縮めていく。

 

 私は必死に走っているのに対し、奴らはどこか余裕を感じた。

 

 それが逆に、怖かった。

 

 早く、もっと早く…。

 

 だが、私の努力も虚しく、「手」達はとうとう私の真後ろにまで迫った。そして、真っ白な塊の一部が、にゅっと私の足に向かって腕を伸ばす。

 

 細く白い手は、私の足首をガッチリと掴んだ。


「うわっ」

 

 ストッパーをかけられた私は、顔から前に転ぶ。

 

 痛む手のひらを床につけながら体を起こすと、あの手の群れが、私の、ちょうど真上にいた。

 

 一つ一つの手が、私に覆い被さってくる。


「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」



          *


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