第5話

 空の色合いが、赤よりも藍の方が濃くなった頃、私は自分の家の前にいた。

 

 俯いていた顔を上げ、またも、はっと我に返る。 


「いつの、間に…?」


 またこの展開。

 

 何も考えずに歩くと、意外にも時間と距離はあっという間に感じるものだ。

 

 自分の家か確かめるようにまじまじと眺めた後、何も変わったところがないことを確認して、ポケットから鈍い銀色を放つ金属を取り出す。


 人気のない、暗い家の鍵を開け、自分家にも関わらず、そっと侵入する様に入る。自分の家なのにね。


「ただいま」

 

 呟いた声は、誰も返してくれることなく、静寂が支配するリビングに溶けて消える。

 

 それも、当たり前のことであった。

 

 私が家に帰った時、挨拶に反応してくれた声が、今まであっただろうか?

 

 私の記憶の限りでは、一度もない。小学校の時も、中学生になってからも。

 

 そもそも、家に親や誰か人がいるということ自体が珍しかった。人が集まって、楽しく話したりすることがなかった。

 

 誰もいない、ただあるだけの場所、それこそがここだった。

 

 そして、そんな寂れた場所にいる私もまた、ただ居るだけの生き物だ。

 

 誰にも求められず、誰からも見られず、ただ呼吸をして地球を汚しているだけの、迷惑な存在。

 

 そんな私は、ペットだ。

 

 この家にとっても、私はいてもいなくても変わらない、ちっぽけな存在。

 

 だったら、私はこの家にいなくてもいいんじゃない?

 

 私の場所がここではないことは分かっている。なら、どこへ行ったっていいじゃないか。

 

 一回、たった一回だけ、本気でそう思って、試した事がある。必要最低限の荷物を持って、親の居ない時間に家を抜け出した。

 

 そして、自分が生きれそうな場所を求めて探した。

 

 結果は、失敗に終わった。

 

 どこに行っても、日常を過ごせそうな場所は、近所にはなかった。もっと遠くへ行けばいいかもしれないけど、そのための交通費なんて持っていなかった私は、家出して2時間後、諦めて戻ってきた。

 

 結局、私は、食糧と寝泊まりできる所が与えられなければ生きていけない。自由になりたいと願いながらも、誰か主人がいなければ、生きることなど到底無理なペットだ。

 

 一生、人に従わなければ命の灯火をつけ続けられないのだ。

 

 つまり、この家は私が生かされるための箱。

 

 そんな家だから、寂しさや悲しさ、恐怖を感じてしまうのではないかと、最近思うようになった。

 

 ネガティブな思考がどんどん繰り広げられる脳内に、痛みを感じる。

 

 私はぎゅっと目を瞑って、今までの考えを振り払った。頭の中を真っ白にして、感情を空っぽにする。


「すーっ、はぁー…すーっ、はぁー…」

 

 何度も深呼吸して、胸の奥に重い塊を落としてから、靴を脱いで自室に直行した。

 

 真っ暗な部屋の扉を開けて、投げやりな思いでバックを乱暴に置いた。

 

 そして、おそらく汚れているであろうジャージのままで、バッドにダイブした。


 汚いけど、何もやる気が起きないし、叱る人もいないし、いっか。食事も、お風呂も、洗濯も、勉強も、何もやってないけど、もういいや。

 

 やる気の出ない、疲労が溜まった重い体は、暗く沈んだ心と共に、深い眠りに堕ちていった。

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