第2話
月も闇に陰る程、夜という時間が日本を支配している深夜。
何の前触れもなく、私の意識は体に戻された。
目が覚めると、手の平を見るという癖が、いつの間にか、ついていた。
部屋は真っ暗で、闇のほか、視界には何も映らないはずなのに、何故か自分の手が、白く脆く見える。
そっと握ってみると、酷く濡れていた。
汗だ。夏なのに、感じる汗はとても冷たかった。
感触が気持ち悪くて、掛けていた布団で水気を拭っていた時、ふと気く。
全身も、汗まみれだった。背中から腰まで、グッショリと濡れている。冷や汗だった。
何故こんなにも汗をかくんだろう、と疑問には思わなかった。いつものことだったから。
しかし、汗で濡れている体は、やっぱり気持ち悪い。
私はそっとベッドから出た。闇に包まれた廊下を通り、足音を殺しながら、つま先立ちで階下に降りる。
リビングは真っ暗で、お父さんもお母さんもすでに寝ているようだった。ホッと息を吐き出して、台所の隣の浴室に忍び込んだ。
扉を閉めてから灯りをつけて、着ていた服を全て脱ぐ。そして、ゆっくりと浴槽のドアを開いて、蛇口を捻った。途端、ホースの先についている銀色の穴から、勢いよく水が放たれる。
頭から、シャワーを浴びた。
お湯になるまで待つのは面倒くさい。
生ぬるい水を、全身に掛ける。
ベトベトする、体を覆っていた液体が、水によって流される。上から降ってくるシャワーにじっと打たれたまま、数分が過ぎた。
体も頭も冷えてきたところで、水を止めて浴室から出る。キラキラと電灯を反射させている水分を拭き取り、脱いだ服に手を伸ばしたところで、やめた。
一度でも汚れた服は着たくない。
さっきのベタついた汗が染み込んだ服、と考えると、着る気にはなれなかった。
仕方なく、私は体にタオルを巻いて、自室に戻った。
また忍び足で階段を駆け上がり、電気も付けずに部屋のドアを締め切る。
さっきの明るさに目が慣れてしまったため、部屋が闇色で塗りつぶされているようで、まったくと言っていいほど何も見えない。
手探りでタンスを見つける。取手部分の凹凸を握って、一つの段を開け、新しい下着とパジャマを取り出す。
体のタオルを取り、適当に投げ捨てる。もうすっかり乾いた裸体に、取り出した新たな衣服を着せる。服の向きも裏表もあまり気にしないまま、私はパジャマを纏った。
仕舞われていたおかげか、ひんやりと冷気を感じて、着心地が良かった。
綺麗な服装になった私は、またベッドに腰掛ける。
ようやく、全てが落ち着く。
「これから、どうしよう?」
私はボソリと呟く。
もう目は完全に冴えて、もう一度眠れる気はしない。
眠る。
その単語が脳内に出てきた瞬間、全身の毛が逆立つような恐怖が、体中を駆け巡った。
思わず、自分自身を抱きしめる。収まっていた汗が、また噴き出そうとする。
何のために、自分は起きたんだ?
私の中の私は尋ねる。
寝ないためだろう。
私の中の私が答える。
眠るという行為が怖くて、目が覚めたんだ。
今になって、それを思い出す。
寝ない。
寝たくない。
寝るのが嫌だ。
寝るということは、意識を失う状態を自ら作るということだ。
死んでいる時と、近い状態になってしまう。
ああ、嫌だ。
私は唇を噛み締めて、今の考えを振り払った。
大丈夫だ、私は寝ない。
起きている。
そう言い聞かせることで、幾分か、安堵を手に入れる。
寝はしないんだ。
私は起きる。
起きて、何かする。
何か、か。
どうしよう。
何でもやっていい自由時間のはずなのに、やることを考えてから行動してしまう。この、思考を巡らせる間が無駄だというのに。
しかし、結局は、ベッドに座ったまましばらくぼーっとする。そうした挙句、何にも思いつかずに、いつもと同じ行動を取る。
ベッドに登って、淡い緑のカーテンを、思いっきり開いた。シャッ、と鋭い音がして、垂れ下がった布は束ねられる。
厚めのカーテンの奥は、月が登っていた。
銀色に、うっすらとした黄色を帯びる光の筋が、透明なレースを通して、私の部屋を静かに照らした。
温度は無いはずなのに、何故か、その光は冷たく、壊れそうな程脆い物という認識があった。
そっと、月明かりを手のひらで掬い取る。
すると、真っ直ぐに伸びていた筋が途切れ、自分の手が白銀に染まる。
私が手をかざした部分の光は、遮られたことにより、その筋を途絶えさせた。
私の手の下は、影ができていた。
光なんて当たらない私の太ももは、黒色だ。
やっぱり、月光は繊細だった。
優しく触れたはずなのに、美しかった光線はすぐに崩れてしまう。
さっきまで滑らかに伸びていた月の帯は、今や砕け散って、破片が私の手のひらでキラキラと輝いている。形を失ってもなお、自己主張するかのように輝き続ける光の欠片は、とても眩しかった。
私はお椀型にしていた手を、そっと離した。掬った光は、パラパラとベッドの上に落ちて、跡形もなく消えていく。
そこには、ただの影が伸びているだけだった。いつの間にか、部屋を包み込んでいた光も無くなっていた。
月が、雲に覆われて隠されていたから。
私は、まばらにある星が瞬いている夜空を、窓越しに見上げた。
美しい夜空だった。
深夜1時の空にぴったりだった。
あと何回、夜が来るだろう?
あと何回、朝が迎えにきてくれるだろう?
私はどのくらい、この世にいるのだろうか?
考えれば考えるほど、また、怖くなってきた。いつまでも生きてはいられないという事実に、恐怖を感じる。
私は、永遠に月を見ることはできないんだ。
いつまでも、明日という日がやってくるわけじゃないんだ。
誰だって、考えてみれば分かる、当たり前のこと。それなのに、私はその常識が、理解できない。
何故、私達は死ななきゃならないのか?
ずっと生きることは出来ないのだろうか?
死ぬなんて、想像しただけでも恐ろしいものだ。意識も魂も失って、永遠に目覚めることがないという感覚は、どんなものなんだ?
味わったことのない経験に、私はただただ怯えた。
頭が、肺が、苦しい。
動悸が速くなる。
脳みそが熱くなって、くらくらと目眩がする。
気持ち悪い。
体がおかしくなったかのような状態が、いっぺんに私を襲ってきた。
もう、嫌だ。苦しい。
これ以上、考えたらダメだ。
ある時からこうだった。人生の終わりを想像するたびに、体が変に反応して、おかしくなる。
脳は、この世のことわりを突き詰めたいのに、体はそれを全力で拒否する。
いや、本当は分かっている。
実際は脳みそですら、真相に近づくことを拒んでいることを。
何かで聞いたことがある。
人間は、この世の理を突き詰め過ぎると、脳がリミッターを掛けてしまい、その先をことを考えさせないようにすると。
私は、その感覚がよく理解できる。正しく、今私が感じている、この感覚のことだ。
思考を止められる感覚は、答えを出せないむず痒さと、答えがわからない恐怖を与える。
怖い。
ただただ、怖い。
私は死んだらどうなるんだ?
嫌だ、死にたくない。
永遠に、生きていたい。
この世に、存在していきたい。
私は今日も今日とて、叶うはずのない願いに縋ったまま、涙を流して、疲れて、そして、気づかないうちに、深い深い眠りに墜ちていった。
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