第2話 逃走
おそらくアタシは婚約破棄をされた令嬢として、夢のなかにいます。
すこし前にキラッキラな会場を出て、停まっていた馬車に乗り込みました。
そして今。1人の老紳士とともに、その馬車に揺られているところです、ふふふ。
──って、こんな感じで現状を頭のなかで解説してみたが、実のところ、この馬車がどこへ向かっているのか分からない。
そのうえ同乗者のヨボヨボ紳士が誰なのかも分からないし、アタシは誰? とか尋ねてもお互いに理解に苦しむだけだろう。……まぁきっと名前はイザベラだ。何度かそう呼ばれたから。
それにしても、とても不思議だ。
天井端に対角で1個ずつあかりが灯っているんだが、あれは一体なんだろう。ぼんやりとした光だ。
科学のチカラを否定する夢やなと思いつつ、とりあえず何かしらの行動をせねばと考える。
うっし! ここはアタシの
ゴソゴソと準備をしていると、目の前に座る紳士が声をかけてきた。
「イ、イザベラ嬢、なにをしておるのかね?…………きゃー!」
ヨボ紳士の視線をもろともせず、アタシは着ている服を勢いよく破った。
ドレスを1人で脱ぐ方法がまったく分からないので、首の後ろにあったボタンの
その前に3度は努力したんだ、背中のボタンをはずそうと。
だが明らかにボタンがありすぎる。それに、この生地はヒラヒラのフワフワで薄くて、ちょっと力をいれただけで破れそうだったんだよ。
決して怪力で雑な女子ではないんでございますのよ、仲川中尉。オホホ。
しっかしこの紳士、『きゃー』ってナニヨ。……ありゃりゃ、気絶してんじゃん、女子か。だが好都合!
アタシはいそいそと着ている服を脱ぎ、ヨボヨボ紳士の燕尾服は脱がせ、交換してやった。
あー。ヤだなぁ他人の服……やむを得ん、夢だ。許せアタシ。
ハッ! む、胸もとが……。嬉しいから、あけておこう。
ゲッ! どこもかしこも、丈が短い。……あきらめよう。
「さて」と、つぶやいて揺れる馬車のなか、アタシは改めて席に座りなおした。
そして目の前のヨボヨボを見つめる。
この、ワイン色ドレスを着た今では変態でしかないじーさん、じつに怪しいのだ。
アタシに話しかける前に、持ってた杖で扉を何回かたたいてた。スパイ映画とか
すると馬車の速度がゆっくりになって、右に曲がった感じがした。
気絶してるのも演技じゃないかと思う。
じーさんにドレスを着せてるときに、ほどけた髪が少し顔に触れちゃったんだよ。
ビクッてしたからね。
「アタシの髪色は赤かな〜オレンジかなー」って言いながら、わざと2、3回じーさんの顔のうえに、その髪を滑らせてみた。プルプル震えてるのに、起きなかったんだワ。
うーん。なんだか分からんが
走る馬車からの逃走。
アクション映画好きなら、ドアをあけて横づたいですなっ。
そんでもって御者をやっつけて、たづなを奪うんですよ。
……いや、馬を
横づたいも、やっつけるのも、この身体でできるか分からんしな。
なんでも叶う夢のなかなら挑戦したいんだが。
ここで自慢しておこう。
現実のアタシの身体なら、そんな芸当できるはずだぜっ。やったことないけど。
だが、たくさんのアクション映画を何度も見てはイメトレをやってたんだ。
まあ、半分以上は馬車アクションではなくカーアクションだったけど。
そして昼休憩のうちの30分を、会社近くのボルダリング教室で過ごして指は進化した!
──ただなぁ。馬車に乗るまえに走ったときの夢のアタシの身体は、やばかった。
山道を走って鍛えてたアタシの足ではなかった。あのヘロヘロな走りを思うと、たとえ夢であろうともやめたほうがいいと思うんだワ。
やっぱアレかね。この乳が問題かね。
驚くほど重いし、走ってるときの揺れ感がハンパなかったー。
走って垂れたらイカンって、ちょっと気をつかったよね。
*****
イザベラという『お嬢』の身体で、アタシは座ったまま突きやら蹴りやらを軽くやってみる。
ダメだこりゃ。手が細くて小さくて力がまったく入らない。ぐ、ぐぞぅ、なんと美しい手だ。
悔しいんだか悲しいんだか分からないがヨヨヨと泣いてみた。
おっと。そんなことをやっていると、馬車がゆっくりと止まったようだ。
カーテンを少し開け窓をのぞき、近くで話し声と門のような柵を見る。その向こうに目をやると、あかりが何個かついた屋敷らしいものもなんとなく確認できた。
……なんとなくって何だよって、暗いんだぜ。
なぜならば夜。
夜だから暗いんだけど、何かは光ってる。ただ残念なことに、その何かは眠そうな明るさなんだ。満月の光の方がよく照らしてるなんて、アタシの夢よ大丈夫か。もっと文明世界を取り入れてくれ。
そして馬車はふたたび走り始め、周囲を理解したことに頷きながらアタシはカーテンからピンッと指を離した。つまりヨボじーさんの屋敷にもうすぐご到着ってことだぜっ。
「ぅしっ!」
意を決して小声で気合いを入れ、アタシはひと息にじーさんの靴に足を入れた。
じーさんとアタシのハンカチを中に敷いているが……どうにも気持ちはよろしくない。痩せたじーさんだが、足は大きいようだ。紐をギュウギュウにむすんでおく。
ちなみにアタシが脱いで持ってたヒール靴は、隅に置いてある。
ヒールを取ろうと試行錯誤してみたんだがあきらめた。非力すぎたんだ。
それから前に座るじーさんに素早く近づき、使わなかった白いタイを口に押しこんだ。
ついでに履かせなかった白いペチコートみたいなもので、じーさんの手を縛る。
そのうえ目隠し代わりにスカート部分をまくりあげて、彼の頭のうえで固く結んでおいた。モモヒキみたいな長い下着を履いていらっしゃるから、そこまで変態には見えなかろう。
──悪いね、騒いで欲しくないんだよ。どうか変な性癖に目覚めませんように。
そうして再度、窓をのぞく。
ポツポツと灯るあかりでは見えにくいが、道の両脇は植物のようだ。
馬車の窓下まで高さのある、生け垣……かな。
窓に顔をよせて、じっと先のほうへ目をこらす。
すると道がゆるやかにカーブし始めたようで、走る白馬の後ろ姿がチラチラと見えた。
そのカーブに沿ってすすむ馬車は、少し速度をおとしながら片脇の植物に近づいていく。
アタシは、馬車が最も近づくであろう場所を見すましてソッと扉をひらき、生け垣に飛びこんだ。
なるだけ扉がしまるように、手だけではなく足でも押したけど……どうだったかな。
そう思いつつ顔をしかめる。
背中から飛び出たが、あちこち痛い。そのあと生け垣を無理やり乗りこえて庭内に入ったから、枝で切ったのかもしれない。
とにかく、まずは屋敷のどこかに
暗闇のなか、中腰で生け垣に沿って移動する。
念のため馬車がすすんだ方向とは逆に向かった。見つかってはならんのだ。
だがヤワな身体に中腰前進はキツかった。すぐに太ももがプルプルし息があがり始める。
とうとう涙と鼻水が出そうになった頃に、とつぜん前方にあかりがついた。
思いがけず近くて、あわてて光の届かない場所へ引きかえす。
「うあぁねむい。ご主人がこっちに帰ってくるなんて、ずいぶん久しぶりだな」
あかりに手をのばしている男性が、そんなことを言っている。
あのヨボじじい、やっぱり行き先を変えてたんだな。
「そうだな。急に変更したんだよ。わざわざ昔の暗号音をつかってさ。ハハッ、しかも緊急時と愛人との屋敷行きのどっちもでさ。長いこと使ってなかったから混同したんだろうなぁ。……それより、よく分からんがジーン氏、なんか叫んでたぜ」
ジーンシとはだれぞや。
心のなかで問いつつ少し移動し、かすかな光で足と手の傷を確認する。ツバつけてりゃ治るくらいでホッとした。
「叫んでた? まあ、あの人、バトラーのくせにちょっと大げさだからな。このあいだ、猫が少し寄ってきただけでも叫んでたぜ」
「ハハッさすがジーン氏。……そんでさ、意味不明な言葉を叫んだあとに寒くもないのにメイドにブランケットを取りに行かせて、ご主人を包んで屋敷に入ってったんだよ。しかもメイドがブランケットを持って戻ってくる間は、馬車の周りを飛んだりしゃがんだりしてさ。そのあと俺をジィッと睨みつけに来たかと思ったら、さっさと馬車をしまってこいって怒鳴るんだぜ」
おおヨボ紳士、無事に救出されたようで安心しました。この場で謝罪の黙祷をささげます。
「へえ……ジーン氏が怒鳴るのは珍しいな。なにがあったんだ?」
「それがよく分かんねぇんだよォ。馬車に女性が乗ったみたいだったけど出て来なかったしさぁ。屋敷に入って行ったジーン氏が目を吊り上げながら戻ってきて、護衛はどこにいるんだって更に怒りはじめるしさ〜」
「あ、そういやぁ護衛らは?」
「んー。急に馬車を出したから、置いてきたことになるな。あの人たち、自分の馬を取りに行っててさぁ。いつもなら馬番が取りに行くだろ? でもご主人の王城での用事が思いのほか早く終わってさ。そのうえ王太子のパーティもあったからなのか馬車寄せに誰もいなくてさぁ」
護衛がいたのかっ。良かったー、たまたまいなかったとかラッキーだな。
ははっ、それにしても、おうたいしって。アハハッあれだろ? 王太子なんだろ? 読んだ読んだ、そういう小説。王太子って出てきてたよ。そんでソイツが悪役令嬢に「婚約は破棄する!」とかなんとか叫ぶんだよ。でも悪役が復讐する的なね! ははは、はは……ハ? なんか最近……『パチンッ』と指を鳴らす音で思考が途切れた。音がした方を見る。
「クククッ奴ら減給だな! ……ところでお前、女性とか言った?」
「言った。けど聞くの今ごろ? もう随分と女性には縁がなかったご主人の、まさかの出来事なのに。先に食いつくワードだと思うがな」
「お前の目までバカになったんかなって哀れに思ってたんだよ」
「お前の理解力のなさを憐れんだほうがいいぞ」
「お前に起こされて眠いんだって分かれよ。だいたい馬を納屋に入れるくらい1人でできるだろ、怖がりがっ」
「こ、怖くねー! ただ、乗ったはずの女の人がいなくなってたら、おかしいと思うだろっ。護衛もいないんだ。安全のためだよ、安全の」
こんな感じで2人はイチャイチャしながら作業をし、しばらくすると去って行った。
アタシは2人が戻ってくることを考え、しばらくその場に潜んだ。
誰も来そうにないと判断したあとは手探りで納屋に入り、あかりがついている間に目にした2階へと向かった。
ロフト造りの半2階には
そして自分の寝床を作りながら、鍵もかけないなんて防犯の意識が低すぎだろとか疲れる夢だとか文句を言ってみた。アタシの無意識に、もっと違う夢を見せろと訴えたかったのだ。
ひと通りぶつぶつ言って気が済み、地味にちくちくと刺してくる藁のうえで目をつむると、すぐに眠りに落ちた。
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