寂寥を抱く夏の日

 庭先からは、ひっきりなしに蝉の声が響いていた。

 夏も半ばだというのに、虫の声は止むことを知らないかのよう。


 強すぎる日差しにまゆをしかめながら、少女は庭先で洗濯物を干していた。

 ハンガーにパチパチと吊るしていくが、時折風に揺られて少女の顔に衣服張り付く。


 あぁ、もう、うっとうしいわね。それに、暑すぎるわ。

 吹く風は熱をはらんでいて、とても心地よいものとはいえないし。セミの鳴き声もうるさいわ。


 うるさいだけならいいのだけれど……邪魔なのよね。

 干していても、容赦なく木陰からこちらを目掛けて勢い飛んでくるし。


 取り込もうとしたら、セミそのものや、ぬけがらがくっついている時もあるのよ。

 なんというか、作業しづらいのだ。


 ついついたたき落としてしまいそうになるのを、いつもこらえている。

 青年に、無駄に生き物を殺してはいけないと前に言われたから。


 ただでさえ、セミの寿命は短いのだから――と。

 皺を伸ばしながら、少女は考えている。


 たしかに、すぐ死んでしまうのは可哀想だけれど、この数はどうなのかしら。

 生き延びるために必死なのだろうが、迷惑なことこの上ないの。


 見た目も、近くで見るとかなり嫌だし。

 つまり、少女はセミが苦手なのであった。


 ぶつぶつ言いながらも洗濯物を干し終えた少女は、空を仰いだ。

 日差しは眩しいけれども、温かくて力強い。空も、綺麗に晴れている。


 本当に……この暑ささえなければ、すごくいい季節なのに。

 干された洗濯物の近くでは、大きなひまわりが揺れていた。


 立派に花を開かせて、太陽の光を求めて背を空へと伸ばしていた。


 きっと、もう少しするとたくさんの種が零れるのだろうと少女は思う。

 特別にいい香りはしないけれど、大きくて可愛い花だと思うわ。


 ひまわりは、青年がここに住み着く前から咲いていたという。

 誰もいなくても、咲き続けるなんてすごいと思う。


 もしかしたら、誰かに見てもらいたいから咲いていたのかもしれないわ。

 そのまま空を見上げながらぼーっとしてしまいそうになり、慌てて少女はかごを抱えた。


 片付けなくちゃいけないわね。それに、ずっと外にいたら危ないわ。

 この暑さと日差しのことだから、すぐに熱射病になってしまうに違いない。


 部屋に戻った方がよさそうね。今は彼もいるから涼しいし。

 少女が洗濯物に取り掛かる前、青年は居間で読書をしているといっていたから。


 誰かがいる部屋は、基本的に冷房を入れるから涼しいのだ。

 本は嫌いなわけではないけれど、あんなに毎日読んでばかりいて、よく飽きないなと少女は思う。


 本人いわく、他にやることがないそうなのだが。

 まぁ、彼の自由なんだから別にいいのだけれど。


 居間へと戻るべく、少女は歩き出したのだが。

 少し歩いたところで、いきなり大きな音が家中に響いた。

 妙に耳障りな、甲高い音。


 驚いて少女は、思いっきりつんのめって、転んでしまった。かごが前へと転がる音が続いて聞こえた。


「ちょっと……!? 今の音、何なのよっ」


 強かに顔面を床に打ちつけてしまったが、気にせずに居間へと向かって急いだ。かごは放り出されたまま。


 今の大きな音はなに? 物を落とした程度じゃ、あんなに大きくはないわよね。それに高くもないわ。


 あの音は……何かが砕けた音に近い。たとえば、食器を落として割れてしまうときの音のよう。


 まだ少し動揺しながらも、少女は居間へとついた。

 ソファーの近くに立っている青年に近づこうとしたら、動きで止められた。


「ねえ、今の音はいったい――――なに……ソレ」


 何があったのかをたずねようとした少女の言葉は、中途半端に途切れてしまった。

 青年のすぐ傍に散らばっているものに気が付いてしまったから。


 テーブルの上には、恐らくさっきまで読まれていたであろう本が置かれていた。それはいい。


 青年の足元、すぐ近くに散らばっているものが問題だったから。

 ソファーの傍には、割れたガラスの欠片が散乱していたのだった。


 ガラスの中には、投げ込まれたのか紙に包まれた石が見えた。

 部屋の窓を見ると、ギザギザとしたガラスの残りが見えた。鋭く陽に煌いて、凶器みたいに見えた。


 割れてしまった窓からは、生ぬるい風が室内に入ってきて、とても不快に感じた。


「ガラスっ……大丈夫なの!?」


 離れた場所から慌てて青年に尋ねるも、返ってきた答えはとても静かで。


『平気だよ。いつものことだから、気にしないで』


 窓ガラスが割られるのが、いつものこと? ――そんなのおかしいわよ。


「気にしないなんて、できるわけないじゃない。何なのよ、いったい。誰の仕業?」


『慣れてるから』


 その後も何度か少女は青年に尋ねたのだが、返ってくる答えはいずれも似たようなものばかりで。


 話したくないのだろうけど、少しくらい言ってくれてもいいじゃない。

 相手にされていないのかしら? まったく。


 内心色々と不満に思うことはあったものの、まずはガラスをどうにかしなければと少女は片づけを始めた。


 庭へといったん戻って、ほうきとちりとりを持ってきてから、掃いた。

 足を傷つけてしまわないようにスリッパもしっかりと履いた。スカートからズボンにもはきかえた。


 別にそのままでも構わなかったのだが、なんだか気持ちの整理がつかなかったから。

 袋に入れたガラス片がジャラジャラと音をたてて、ひどく耳障りに聞こえた。


 いったい彼は何をしているのかと青年を探すと、割れたガラスの部分に新聞紙を張っていた。

 とりあえずの応急処置のつもりなのだろう。


 随分と手馴れた様子に見えたのは、気のせいじゃないわよね?

 ガラスを庭にだしてこようと少女が立ち上がると、足元でカサリと音が聞こえた。


「確かこれって……石を包んでいた紙よね」


 何の意味があるのかはわからないけれど、石を包んでいた紙が転がっていた。

 くしゃくしゃに丸められているの妙に気になって。


 拾い上げて、紙に書かれた言葉を見て、少女は絶句した。


 ――なんて、なんて嫌な言葉。


 青年がちらと少女の方を見たのにも気が付かずに、再び紙を丸めると、ガラスと同じ袋に投げ入れた。


 そのまま足早に庭へとゴミを置きに行った。

 部屋を出て行った少女を見ると、青年はため息をひとつ吐いた。


 その顔は普段と変わらない穏やかな表情だったが、どこか疲れが滲んで見えた。

 ガラス片が残っていないかと素早く確認すると、何事もなかったかのように本を読み始めた。


 数分後、戻ってきた少女が再び青年に詰め寄った。さきほどよりは、勢いがなかったが。


「ねぇ……よくあるの? こういうことって」


 少女が見た紙には、青年に対する侮蔑の言葉が書かれていた。

 障害を持つ者への、これ以上もないくらいに酷い言葉。


 思い出すだけで……気分が悪くなってしまいそう。


 顔をしかめる少女を気にしながらも、青年はうなずいた。そして紙に何か書くと手渡した。


『今日は、ガラスが割れただけでよかった。怪我もしていないし』


「え……それじゃあ、もっとひどいときもあるのね? どうして何もしないのよっ」


 割れただけ、という軽い言い方がひどく気になった。もっとすごいときもあるのだろう。

 ガラスのせいで怪我をしてしまったり? ……投げられた石が当たってしまったり?


 ――考えたくもないわ。


 信じがたいことだが、二人とも無事だったのはマシな部類に入るのだろう。


『仕方がないんだよ』


 青年は、ただそう唇を動かしただけで。また本を読み始めてしまった。

 もやもやとしたものを抱えながらも、少女は洗い場にたって、食器の整理を始めた


 人と、直接言葉を交わすことができない。話すことができない。

 それが、そんなにも変わったことなの?


 考えることはできるし、直接でなくとも会話をすることだってできるのに。


 少し、普通の人とは違う部分があるだけで。人間は、それを忌み嫌う、過剰なまでに。

 疎ましく思い、見ないふりをしようとしたり、迫害したりする。


 どちらも同じ人間だっていうのに。


 埋めることのできない決定的な溝があるのだろう。悲しいことだけれども。

 手を差し伸べてくれる人なんて……ほんのわずか。たとえるなら、彼みたいに。


 路地裏で生活をしていた少女も、同じような経験をしたことはある。

 そのたびに、仕方のないことだと諦めてきたはずなのに。


 青年がそういう扱いを受けているの目の当たりにして、こんなにも揺らぐなんて。

 こんなわたしが心配してあげたって、ただの同情にしか思われないのに。


 それでもほっとけないと思うなんて、わたしもどうかしているわ。

 考え事をしながら片付けていたから、自然と手元がおろそかになっていたのだろう。


 しまおうとしたお皿が一枚、床に滑り落ちて大きな音をたてた。


「あっ……何やってるのかしら」


 ため息をつきながら、大きな破片を拾おうとして、指先を少し切った。


 慌てて手を引っ込めて指先を見ると、薄く血が滲んでいた。

 ……傷は、やっぱり痛いわ。


 道具を取りに行こうとすると、少女の肩を青年が叩いた。

 振り向くと、掃除道具をもって立っていた。


 心配そうなまなざしで少女を見つめていた。

 大丈夫と返事しながら、少女は手早く床を片付けた。


 ごみを庭に出してきた少女は青年にいった。


「それじゃあ、わたしは部屋にいるから……何かあったら言ってね? 絶対よ」


『わかった』


 そのまま少女は居間を出て行こうとして、ぴたりと止まった。

 青年が首を傾げていると、少女は青年に告げた。


「あなたがわたしのことを拾ったように……わたしも、あなたのこと放っておけないの。


 ただのおせっかいだけどね。――忘れないで」


 わたしは、あなたのこと嫌いじゃないから。

 そうして、少女は自室へと向かっていった。


 少女が出て行った扉を見つめて、青年は呟いた。


『ありがとう』

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