8.正義、ファム・ファタール④

『二階堂さんは10月9日の昼頃まで堀川さんの個展を観るために大阪にいた。その後、彼は東京へ戻り、9日の夜は銀座のクラブにいたことが確認されています』


 二階堂が9日の夜に銀座の高級クラブで豪遊していた事実は昨夜になって判明した。店の防犯カメラにも二階堂の姿が映っている。


『10月10日、二階堂さんはここを訪れた。スキャンダルをネタに宮越さんを強請ゆすろうとしたのか、宮越さんと二階堂さんの間にどんなやり取りがあったのかは想像で補うしかありませんが、結果として宮越さんは二階堂さんを殺してしまった』


 殺害は左利きの人間の犯行だ。左手に後遺症の残る宮越が右手ではなく、咄嗟に本来の利き手である左手を使ってしまったのも、殺害が計画的犯行ではなく突発的な犯行だったことを示している。


 不自由な左手で放たれた最初の一撃は二階堂を床に倒せはしても命を奪うには威力が弱かった。

宮越は今度は両手で凶器を構え直し、二階堂の後頭部めがけて渾身の力で凶器を振り下ろした。

致命傷が最初に殴打された側頭部ではなく後頭部の傷だったのはそのためだ。


「先生が犯人であるはずがない。手に後遺症のある先生がどうやって二階堂さんの死体をバラバラにしたのよ? 先生には絶対に無理なことよ」

『ああ、そうだ。利き手に後遺症が残る宮越さんに死体の切断は難しい。宮越さんが右手でレモンを切ろうとした時も君は必死で止めていた。“先生の大事な手に傷がついたら絵画界の大損害です”とか言って』


 あの時は大袈裟なだけだと思ったが、利き手ではない手でのナイフの扱いは確かに危険だ。果物を切ることもままならない宮越には死体の切断など不可能だった。……宮越には。


『だから切断は君がやったんだろう? 大阪から帰ってきてすぐに』


 死体の切断は宮越晃成には不可能でも堀川綾菜には可能だった。正確な死亡推定時刻の割り出しは難しいが9日夜までの二階堂の生存は確認できている。


犯行日は10日。綾菜はまだ大阪にいたが、11日に帰京した彼女は宮越と二階堂の間に何が起きたかを悟った。


『君がいつ、20年前の宮越さんの犯行を知ったかはわからないが、彼の犯行と思想をトレースできる人間は君しかいない』


 犯行現場はギャラリーバーかアトリエのどちらか。車の運転ができない宮越は二階堂の死体をここから動かせない。

綾菜が帰宅した時、二階堂の死体はまだここにあったのだ。殺人を犯した師匠を前にした綾菜はどうするか……。


『アトリエにシャワーがあるって言っていたよな。切断場所がアトリエの風呂場なら調べればルミノール反応でわかる。切断に使用した凶器は愛用の電動ノコギリ……。違うか?』


 解剖医の早瀬の所見によると20年前のドラゴンフライにも、二階堂の死体を切断した犯人にも解剖学の知識があった。

美術系の学校ではカリキュラムに美術解剖学が含まれている。画家の宮越と綾菜にも解剖学の基礎知識は備わっているだろう。


『堀川綾菜。君には死体損壊と死体遺棄の疑いがかかっている。宮越さんと共に君にも任意の事情聴取を要請したい。自分と宮越さんが潔白だと主張するなら、風呂場やアトリエを調べられても問題ないだろう?』

「……そうね。浴室を調べられたら困るわねぇ。だってあそこであの男をバラバラに解体したんだもの」


 薄笑いを浮かべる綾菜は服のポケットから折り畳み式の果物ナイフを取り出した。厨房にあった果物ナイフをポケットに忍ばせたのだろう。

鋭利な刃先が真っ直ぐ九条に向けられる。しかしその程度で九条は動じない。


 顔色を変えたのは宮越だけ。震える足で立ち上がった巨匠は愛弟子に寄りかかるように、彼女の身体を後ろから抱きすくめた。


『綾菜、馬鹿な真似は止めなさい』

「いいえ、先生。私は先生を守る。先生の絵は売れなくてはいけないの。これからもずっと……」


 綾菜の宮越への崇拝に近い感情は歪んだ正義だ。

その正義は宮越のため? 綾菜自身のため?


 この短い期間に綾菜と交わした言葉の端々から堀川綾菜は非常に用意周到で合理的な、頭のいい人間だと窺える。


ナイフを隠し持つタイミングは宮越にコーヒーを頼まれた時か。店の鍵を開けて九条を招き入れた時点では、まだ彼女はナイフを所持していなかった。


 綾菜が最初から九条を殺すつもりなら九条が店に入った時、キスをせがむフリをして九条を刺していた。

無論、その可能性を想定して九条も身構えていた。女の誘惑に気を取られてむざむざと殺されるつもりは毛頭ない。


「ねぇ、九条さん。二階堂が死んでも誰も悲しんでいないじゃない。それよりも先生が芸術界からいなくなることの方がこの国の損害よ」

『ひとりの人間の命よりも宮越さんの存在の方が重たいと?』

「二階堂の命に価値なんてない。皆、二階堂に迷惑していたから、いなくなってくれてせいせいしたはず。でも宮越先生は違う。先生の存在には価値がある」


 残念ながら綾菜の言うように、二階堂の周辺人物の間には二階堂がこの世を去ったことによる安堵の空気が流れている。二階堂に恐喝されていた者、セクハラやストーカー行為を受けていた者は苦しみから解放され、二階堂の死に涙を流す人間など誰ひとりいなかった。


『どんなに迷惑な人間でも殺していい理由にはならないし、人の命に優劣はつけられない。君と宮越さんがしたことは紛れもなく犯罪だ。俺は絶対に殺人を肯定しない』

「ずいぶん冷たいのね。私と過去の女が似ているんじゃなかったの?」

『似ていないよ。アイツと君は違う。それにどんなに外見が似ている人間でも結局は別人だ。……宮越さんがサキ子さんをいつまでも見つけられないようにね』


 ──“九条くんは太陽の下を歩いている人だもの。だから平和主義で呑気な綺麗事を平気で言える。九条くんは本気で誰かを憎んだことも、誰かを殺したいと思ったこともないでしょう?”──


 忘れられない女の言葉が心を駆ける。綺麗事やお人好しなだけでは誰も救えないと弱気になった九条に対して、“彼女”は正義とは何かを思い出させてくれた。


 ──“だけど綺麗事を吐き続けるお人好しに救われてる人もいる。私もお人好しでお節介な九条くんの綺麗事に救われてるよ。あなたがバディで良かったと思ってる”──


 どんな理由があっても人を殺してはいけない。綺麗事だと笑われてもいい、お人好しとののしられてもいい。

お人好しな九条の綺麗事でひとりでも救われる人がいるのなら。


そして“彼女”の太陽で居続けるためにも、九条は殺人を認めない。認めてはいけない。

それが九条が貫く彼の正義だから。

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