8.正義、ファム・ファタール③

 コーヒーを淹れるための湯はとっくに沸いている。けれど綾菜は宮越の側を離れない。飼い主を守る忠実な番犬のように彼女は九条を睨み付けていた。


『被害者の女性と私の絵のモデルが似ているだけでは私が殺した証拠にはならない。そんなことで疑われては……』

『確かにそうです。証拠を探そうにもなにせ20年前のことですから、こちらも苦戦しましたよ。でも20年前の事件と二階堂さんの殺人事件にはある共通点がありました。警察は20年前の連続殺人犯の通称をドラゴンフライと名付けた。その理由は切断した死体に添えた赤とんぼの折り紙でした』


 九条はスマートフォンの画面を切り替えた。新たに画面に映し出された写真は血まみれの赤とんぼ。


『二階堂さんの遺体が入っていたポリ袋の中にこれが一緒に入っていました。この折り方は鶴や鳩ではなく、蜻蛉トンボですが、ドラゴンフライが残した赤とんぼと折り方が同じなんです。赤の折り紙で折られたトンボ……宮越さんが作品に押す落款印と同じモチーフです』


 悠然とした態度を崩さなかった宮越の表情が曇った。ああ、そうか、と九条は内心でひとりごちる。

困惑した宮越の表情から察するに、彼はこの事実を知らなかった。赤とんぼを二階堂の遺体に添えた人間は、


『二階堂さんを殺した犯人は宮越さん、あなたですよね?』

「待って。どうして先生が二階堂さんを殺す必要があるの? 動機は? 二階堂さんを嫌っていた私はともかく、先生はあの人のことなんて気にもしていなかったのよ」


番犬が今にも噛みつく勢いで牙を向く。また堀川綾菜という女の性質がわからなくなった。

彼女が本当に守りたいものは何か。九条と綾菜はきっと永遠に理解し合えない。


『今から話すことは俺の仮説です。もし違うのならお二人とも俺を笑ってもらって構いません。……現在の宮越さん名義の新作は堀川さんが描いているのではありませんか?』

「何を根拠に……」


 呆れた顔で笑い飛ばされるかと思えば、九条の予想に反して綾菜と宮越、双方の瞳に動揺の揺らぎが見えた。殺人犯として名指しされても微笑を絶やさなかった宮越も、今は笑う余裕もないらしい。


『3年前に脳梗塞を患った宮越さんは左半身に後遺症が残った。今もあなたは左足を引きずって歩いている。運転免許も返納されていますよね。さらに手術前の宮越さんの利き手は左手だった。後遺症を負った利き手で長時間絵筆を握ることはリハビリを続けていても難しい。でもあなたは今も新作を描いている。スペインから帰国後は風景画しか描かなくなったそうですが……』


 自分だけのファム・ファタールを捜し求める宮越は初期の代表作【お嬢さん】を筆頭に、写実的な女性画を描き続けていた。


だが、彼はスペインから帰国後は画風の方向性を変えた。この数年の宮越の新作は風景画が多く、脳梗塞の手術以降はその傾向が顕著となった。


『脳梗塞の手術を担当した主治医に確認しました。宮越さんは脳梗塞の術後から発症した3型2色覚、青色盲と呼ばれる色盲を患った。宮越さんの眼は青色を感じる機能が欠如した状態になってしまったんだ』


 3型2色覚は赤と緑は感じるが、青や黄色を感じない色覚異常のこと。旧称で青色盲、青黄色盲と呼ばれた。


青色を失った3型2色覚の視界では、今朝の空のような青はくすんだ緑色に、紫系統は黒や茶色、オレンジ系統の色は赤系統の色に見えてしまう。

宮越の目では果物のオレンジとリンゴも似た色にしか見えないのだろう。


『先日、俺が客として来店した時に飲んでいたカクテルはアップルサンライズです。あれはオレンジ色のカクテルなんですよ。だけど宮越さんは俺のカクテルを見て“とても綺麗な赤色”と口にしました』

「そんなの、照明の加減でオレンジ色を赤と見間違えかもしれないじゃない」

『飾ってある絵の鑑賞の妨げにならないように従来のバーよりも照明を明るくしているんだろ? 照明の加減でオレンジが赤に見えるなんて苦しい言い訳だな。色盲の件は病院に問い合わせればわかることだ』


 画家を生業とする宮越が色を見間違えるとは思えない。見間違えたのではなく、青色盲の宮越にはカクテルの色は赤色にしか見えなかったのだ。


『バーの経営者でありながらも宮越さんは酒に詳しくないと君が俺に言ったんだ。酒に疎い宮越さんはアップルサンライズの名前からリンゴの赤を連想した。だから俺が飲んでいたカクテルを赤色だと思い込んだが、アップルサンライズはオレンジジュースを使う。どうしたって宮越さんが言った“綺麗な赤色”には見えない』


 あの夜、【待宵】で交わした宮越とのやりとりで九条は宮越の言動に引っ掛かりを覚えた。

心に生じた気持ち悪さの答えは、綾菜と共に渋谷のバーで飲んだアメリカンレモネードの赤ワインが教えてくれた。九条の目には正しく見えていた酒の色が、宮越には見えなかった事実を。


『殺される数日前、二階堂さんは馴染みの画商に漏らしていたんだ。“日本の美術界にとって重大なスキャンダルとなり得る事実を掴んだ”って。美術界の巨匠の新作が、本当は弟子がゴーストとなって代わりに描いていたものだったとすれば。芸術業界のことは俺にはよくわからないが、きっと大変なスキャンダルになるんだろう』


 巧みな色使いに定評があった宮越は青色盲によって色の判別がつかなくなった。後遺症を負った利き手で長時間絵筆を握ることも難しい。

それでも宮越は新作を求められる。美術界の巨匠とうたわれた彼は“宮越晃成の絵”を生み出さなければならない。


脳梗塞の罹患りかんは彼が勤務していた芸大関係者や美術業界の者には周知だ。しかし目に見える左半身の後遺症はともかく、その後に患った色盲についてはトップシークレット扱い。

画商も宮越のファンも、現在の宮越がまさか絵を描けない状態にあるとは知る由もない。


『絵を描けないのに周りは新作を期待する。その重圧が堀川さんを宮越さんのゴーストに仕立て上げてしまった。美羽画廊の山野さんが言っていました。最近の堀川さんの絵が宮越さんに寄り過ぎていると二階堂さんが指摘していた、と。二階堂さんは宮越さん名義の絵を堀川さんが代わりに描いていることに気付いたんだ』


 二階堂が手に入れたスキャンダルが宮越と綾菜のゴースト関係のことならば、宮越には二階堂を殺害する動機が成立する。

宮越にもプライドがある。宮越と綾菜が秘めた絵の真実は何が何でも隠したかったはずだ。

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