6.待宵、闇に重なる影④
九条が店内に滞在した時間は1時間ほど。23時の閉店時間直前にギャラリーバーを辞した彼は、綾菜の指定通り店の外で彼女を待った。
ギャラリーバー【待宵】の周辺は民家が立ち並ぶ住宅街。人を待つにしても場所に気をつけなければ近隣住民に不審者扱いされてしまう。
なるべく民家の玄関先や窓辺を避け、店が見える範囲の電信柱の横に陣取って綾菜を待ち続けた。
九条も飲食店のバイト経験がある。閉店後も片付けや掃除などの雑務が残っているであろうことは予想がつき、すぐには店を出られないとわかっている。
見上げた空は静かな月夜だった。
これが真冬の極寒だったら、さすがに勘弁したいものだが、待ち人を待つ間の秋の月見は悪くない。ほろ酔いで火照った頬に触れた夜風も気持ちよかった。
店の扉が開いたかと思えば、歩道に現れた人影は勤務を終えたバーテンだった。彼は道端に
それからどれくらいの時を待ったか彼は知らない。いつの間にか、月を眺める九条の視界に月以外の影が入り込んでいた。
「遅くなってごめんなさい。本当に待っていてくれたんですね」
初めて目にする綾菜の私服は九条の予想と違っていた。黒のライダースジャケットの下は黒っぽいブラウス、膝上のタイトスカートとショートブーツはジャケットの色と揃いの黒色だ。
スカートとブーツの間から覗く細い脚はとても白く、夜の闇に女の美肌が映えている。綾菜がミニスカートを履くイメージを持てなかった理由に思い至った九条は、己の未練がましさに嫌気が差した。
(アイツはミニスカートなんか絶対に履かない女だったから……)
忘れられない女がミニスカートを好まないとしても、忘れられない女に似ているだけの綾菜もミニスカートを履かないと勝手に決めつけて、唐突に見せつけられた女の肌に勝手に動揺している。
この情けない男の狼狽を綾菜には上手く隠せているだろうか? 平常心を保った顔をして九条は綾菜に向き直る。
『話って事件のこと?』
「ああ、話があるって言うのは嘘。九条さんを捕まえておく口実です」
『……はぁ?』
彼女は店で見せた時と同じ意味深な微笑のまま、九条との距離を一歩詰めた。
店で絵画の
忘れられない女と似た出で立ちの女性画家は、忘れられない女が絶対にやらない魔性の笑顔で九条を翻弄する。
「お酒に付き合ってくれません?」
『俺はもう飲んでるんだけど……』
「プライベートなら今は刑事じゃないんでしょ? それとも刑事は女とお酒を飲んじゃいけない規則でもあるんですか?」
どうしてこんな展開になってしまったのか、そもそもどうして今夜、綾菜が居るとわかっていてギャラリーバーに来てしまったのか。
後悔先に立たずとはよく言ったもの。今更、家で大人しく寝ていればよかったと思ってもあとの祭りだ。
『わかった。一杯だけ付き合うよ』
「ええ。渋谷に良いお店があるんです。行きましょう」
視線の攻防戦の末に根負けした九条の隣をやけに機嫌の良い綾菜が歩く。下北沢駅から井の頭線に乗り、渋谷に到着した時にはすでに23時半を過ぎていた。
渋谷駅前の極彩色に輝くネオンが目に眩しい。限られた夜の自由時間を謳歌する人々の群れを潜り抜けた二人は、セルリアンタワーからほど近い桜丘のバーに入店した。
店内の様相もカップルが目立つ客層も先ほどまでのギャラリーバーとは
「美大生時代、この店でバイトしていたの。その頃、一緒に働いていた人達はもう残っていないんだけどね。煙草、吸ってもいい?」
『どうぞ』
九条の了承を得て綾菜が咥えた煙草はウィンストンのホワイト。過去にその銘柄を好む男を九条は知っている。
いけ好かないその男の顔は思い出したくもない。
「どうしたの? 眉間にシワ寄せた怖い顔してる。煙草、本当は嫌だった?」
『煙草は別に構わない。その銘柄を吸っている奴が、思い出したくない奴だっただけ』
紫煙を細く吐き出した彼女はそれ以上の追及をしなかった。九条も煙草についてそれ以上は語らない。
『なんで俺を誘った?』
「九条さんと個人的な話がしてみたくなったのよ。あの店だと、私とあなたは従業員とお客様、もっと言えば事件の関係者と刑事としてしか話せない。だけどこうしていると、お互いただの人同士になれるでしょう?」
刑事でもない、画家でもない、立場を離れた今の二人はただの男と女だ。ギャラリーバーの勤務中よりも綾菜の化粧が濃くなった気がするのはバーの雰囲気と照明のせい?
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