6.待宵、闇に重なる影③

 他にも気になった事がある。ここに集まる宮越の作品のすべてに共通して、絵の右下に大人の親指程度の大きさの印鑑が押されていた。


『絵の右下の印鑑には何の意味が?』

「あれは落款印らっかんいんと言います。一般的には日本画に押される印鑑で、画家のサインのようなものです」


芸術方面に無知な九条を小馬鹿にするでもなく、綾菜は丁寧に九条の疑問に答えてくれる。理知的な美人ゆえに第一印象はとっつきにくさを与えるが、絵の話をしている時の彼女は無邪気な少女のようにも見えた。


 九条はカウンターに最も近い壁に飾られた絵画の右下に目を凝らす。視力の良い両目は落款印の柄を正確に捉えていた。


『押されている絵柄はトンボですか?』

「よくわかりましたね。でも普通のトンボじゃなくて赤トンボの絵なんです。宮越先生のご家庭の境遇が童謡の赤とんぼを作詞した三木みき露風ろふうと似ているらしくて、露風にシンパシーを感じられた先生は昔から赤トンボの落款印をサイン代わりに作品に入れています。赤トンボは先生のアイデンティティなんですよ」


 綾菜との雑談が赤トンボの話に帰結したタイミングで九条の手元にアップルサンライズが到着した。

こうしてバーで酒を楽しむ夜はいつぶりだろう。警視庁に異動となって以降の忙殺ぼうさつされた日々では、余暇の夜にわざわざ出掛けようとも思わなくなった。


 アップルサンライズのグラスの横に綾菜の手で一枚のコースターが並べられた。コースターならすでにグラスの下に敷いてあるし、追加で注文した品もない。

怪訝な顔で九条が手にしたコルクのコースターには黒のサインペンで文字が書かれていた。


〈閉店後に外で待っていてください。話があります。〉


 人差し指を口元に当てた綾菜は、真意を問う九条の視線を微笑で受け流すと、他の客の接客に行ってしまった。


声に出さずこうして内密に伝えてくる彼女の態度から察するに、とは宮越には聞かれたくない話?

二階堂の殺人事件に関する話だとは思うが、あの意味深な微笑が気にかかる。


 客との歓談を終えた宮越がカウンターに現れた。秘密の約束が記されたコースターは宮越の目に触れる前に、九条の上着のポケットに沈んでいく。


『先日はどうも。私共の疑いは晴れましたかな?』

『今はプライベートですので、その件については何も……』


 どうにもこの巨匠相手には緊張が伴う。政治家や地元の名士など、その類の連中を相手にする時と同じ感覚だった。

奴らはこちらが一歩対応を間違えれば、へそを曲げて二度と口を開かない。警察は自分の盾となり下僕となる、取り替え可能の兵隊だと思って見下している。


 宮越はそんな偏屈な連中と比べれば幾分マシではあるが、絵画界の重鎮のオーラはどうしても消せない。


『いえいえ、これは失礼しました。お飲みになられているカクテルは綾菜が作りましたか?』

『はい。アップルサンライズを堀川さんに勧めていただいて。初めて飲みましたが、美味しいですよ。それに綺麗な色ですよね』

『ええ、とても綺麗な赤色だ』


 九条に向けて柔らかく微笑んだ宮越がレモンと果物ナイフを手にした瞬間、出入り口付近のテーブルを片付けていた綾菜が血相を変えて戻って来た。


「先生、ナイフを使うのは止めてください」

『レモンが足りてないだろう。輪切りくらい私にもできるぞ』

「ダメです。先生の大事な手に傷がついたら絵画界の大損害です。レモンの輪切りなら私がやりますから貸してください」


問答無用の勢いで宮越の右手から果物ナイフを奪い取った綾菜の言動を九条は少々大袈裟に感じた。


 カウンターの隅に置き去りにされたトレーには使用済みの紙ナプキンのゴミやグラスが乗ったまま。几帳面な性格に思える彼女が片付けを後回しにするほど、宮越にナイフを使わせたくなかったのか?


(さっきから、何かが気持ち悪いんだよな……)


 ここに来れば答えが見つかる……そんな不確かな予感は、ここへ来てさらに曖昧なものとなった。


 20年前の殺人鬼ドラゴンフライ、切断された遺体、ドラゴンフライが犯行を止めた理由、赤トンボの折り紙、赤トンボの落款印、アップルサンライズとレモンの輪切り。


重要なキーワードがぐるぐる、ぐるぐる、廻りながら、答えはここにあると彼に警告している。

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