6.待宵、闇に重なる影②

「ご注文は何にしますか? 本格的なバーの品揃えとまではいきませんが、うちもそれなりに種類は揃えていますよ」

『カクテルは堀川さんが作るんですか?」

「そうです。宮越先生はお酒には詳しくないから……。ここだけの話、先生は下戸げこなんですよ。バーの雇われマスターなのにまったく飲めないの」


 カクテル作りや会計は綾菜の担当、宮越の仕事は訪れる美術愛好家の話相手だそうだ。どうりで宮越は九条の来店時にも席を立たず、客達とコーヒーや酒を囲んで寛いでいるわけだ。

接客で動き回っているのは綾菜と、九条が見知らぬバーテンダーがひとりいる。


『今日は日森さんは?』

「日森くんは展覧会が近いので準備のためにしばらく休みです。こちらがメニューになります」


 渡されたメニューブックの表紙にはカクテルのイラストが描かれていて、なかなか洒落た作りをしている。さすが画家のいるバーだ。

読みやすい手書きの文字で記載された商品名をひとつひとつ追っていた九条の視線が、ある地点で留まった。


『ドラゴンフライ?』

「ドラゴンフライはジントニックのバリエーションですよ。ジンをジンジャエールで割るので度数はそこまで高くなりません。ドラゴンフライにしますか?」

『いや、ジントニックは好みだけど……』

「ジンジャエール苦手な人?」

『まぁ……』


 本音はカクテルの名前とは別の意味の“ドラゴンフライ”のせいで飲む気になれないのだが、そういうことにしておこう。

内心の憂鬱を隠す九条の代わりに綾菜の細長い指がメニューブックのページをめくった。


「九条さんは柑橘系の飲み物はお好きですか?」

『オレンジジュースはたまに飲みますよ』

「じゃあアップルサンライズはどうです? アップルワインにオレンジジュースを加えたカクテルです。こちらも度数は高くなく、飲みやすいですよ」

『なら、それで』


 強すぎない酒なら何でも良かった九条は綾菜の提案を素直に受け入れた。

アップルサンライズの出来上がりを待つ間、彼は前回とは雰囲気の異なる店内を眺める。前回の訪問は開店準備の最中だった。


そのためバーというよりはカフェに近い印象だったが、今の店内はれっきとした酒場だ。しかし従来のバーとは明らかに異なる点もある。


『酒場は照明を暗めにする店が多いのに、ここは他と比べると店内が明るめですよね』

「宮越先生の絵は緻密で繊細な色使いに定評があるんです。店の照明を暗くしてしまうと、先生の素晴らしい色使いがお客様に正しく認識されないでしょう? だから絵の鑑賞の妨げにならないように従来のバーよりも照明は明るくしています」


 れっきとした酒場でありながらも、れっきとした画廊でもあるということか。


『ここにあるのは宮越さんの作品だけですか? 堀川さんの絵は?』


 壁に等間隔に並ぶ絵画はどれも女性をモチーフにした人物画。モデルの女性の顔や服装、ポーズの違いはあれど、モチーフや画風の統一性は芸術に疎い九条でも一目でわかる。これが現代芸術の巨匠、宮越晃成の絵だ。


九条の問いに綾菜は苦笑しながらかぶりを振った。


「私の絵なんか飾っても見向きもされません。このギャラリーバーに飾る絵は宮越先生の絵だから意味があるんですよ。それにここに飾ってある先生の絵は個人の所有物をお借りして展示しています。個人所有になった絵を所有者以外が鑑賞できる機会はそうそう訪れません」

『借りてるって変な言い方ですね。描いた人は宮越さんなのに』

「絵は買われた時点で買った人の所有物になります。制作者であっても自由にはできなくなるんですよ。でもこの壁列の右から二番目の絵だけは完成したばかりの新作で、まだ誰のものにもなっていません」


 右から二番目の絵は港町と思われる景色を描いた風景画だ。人物画が並ぶ中でこの絵だけが風景画であり、他の絵とは毛色が違うようにも見えるが、所詮は素人の感想だろう。


『右から二番目の絵が新作なら、他の絵はいつの頃の?』

「今週は1990年代後半から2000年代前半の作品を展示しています。ちょうど20年くらい前の作品ですね。その時代の宮越先生の作品はほとんどが個人所有になっているので、こうして見られる機会はレアですよ。九条さん、ラッキーでしたね」


右から二番目以外の人物画に九条は既視感があった。芸術とは縁遠い世界で生きてきた彼が、宮越晃成の作品を目にする機会などなかったはずなのに。


いつ、どこで目にした?

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