6.待宵、闇に重なる影①

10月19日(Tue)


 刑事の休日は孤独だ。交代制勤務で平日に一日だけ空いた余暇に予定が合う友人は少なく、学生時代に築いた交友関係も次第に疎遠になっていく。


九条大河の休日の使い方はひたすら惰眠をむさぼるか、ジムで身体を鍛えるか、特技と言えるほどではないが暇つぶし程度に料理をするか、大抵はそのどれかだ。


 今日の彼は睡眠にベクトルが向いていた。警視庁の資料室で20年前のドラゴンフライ事件の捜査資料を徹夜して読み漁っていたせいで寝不足気味の身体は、寝ても寝ても睡眠を欲している。


けれど眠気に堕ちた意識の片隅には常に、血と同じ色をした赤トンボが行き場を無くした幽霊のように彷徨さまよっている。20年前も今回も、警察を悩ませる存在が例の血まみれの赤トンボだ。


 20年前のドラゴンフライ事件の被害者は七人。

最初の被害者は1999年10月に殺害された長谷部はせべ法子のりこ、そして二番目が同年12月殺害の北川きたがわ亜由あゆ


2000年の2月から11月にかけて遠藤えんどう佳乃よしの松林まつばやし千歳ちとせ川村かわむら夏希なつき吉居よしい礼香れいかの四人が連続で殺され、最後の被害者が2001年3月殺害の大倉おおくら美那子みなこ

全員が20代から30代の女性だ。


職業は専業主婦からOLまで幅広く、居住地や出身校、交友関係などの被害者同士の接点はない。


 唯一の共通点は被害者七人の容姿。捜査資料には被害者達の生前の顔写真が載っていたが、長谷部法子から大倉美那子まで七人共に痩せ型で細面、目元は切れ長の奥二重か一重、口は小さめの和風美人だった。


殺人鬼ドラゴンフライは被害者達と同類の容姿に異常な執着があったようだ。当時の週刊誌やテレビのワイドショーでもたびたび容姿の酷似は指摘されている。


 そして春の到来を堺に殺人鬼の犯罪は終焉を迎えた。被害者の数は七人で止まり、犯人も動機も不明な女性連続殺人事件は世間の人々の記憶の底に沈んだ。


(どうして死体をバラバラにした?)


 わからない、読めない。20年前も今も犯人がどんな人間であろうと、そこにどんな動機が内在していようと人を殺すほどの憎悪も、切断に至るまでの心理も、犯人の思考はまったくわからない。


(こんな時、アイツならなんて言うんだろうな……)


 ──“九条くんは太陽の下を歩いている人だもの。だから平和主義で呑気な綺麗事を平気で言える。九条くんは本気で誰かを憎んだことも、誰かを殺したいと思ったこともないでしょう?”──


 3年前にに言われた言葉が彼女の声となって心を駆ける。太陽の下を歩いている気はないのに、彼女は九条をそう言い表した。

それならいっそのこと彼女にとっての太陽になりたかった。九条が彼女の凍りついた心をかせていたならもう少し、あと少し、選べた未来は違ったはず……。


 また眠気が瞼を重たく閉ざす。浅い眠りと鈍い覚醒を何度か繰り返しているうちに、気付けば空は黒暗こくあんに侵食されていた。

闇に誘われたのはきっと、月が綺麗だったから。着の身着のまま自宅を出た九条の頭上に満月間近の明るくて大きな月が夜空に浮かんでいる。


 サラリーマンにOL、大学生に高校生、様々な属性の人間が押し込められた電車に乗って辿り着いた場所は下北沢。平日だと言うのにどこから湧いてきているのか、下北沢の駅前はカジュアルな服装に身を包んだ若者で溢れている。

下北沢は銀座や表参道では見かけない種類の人間達が集う街だ。これが街の特色というものだろう。


 賑わう駅前を抜け、人通りの少ない住宅街を進む。先週の記憶と勘を頼りにしばしの放浪を続けていると目的の建物が現れた。

以前と景観が異なって見えたのは店先に立て掛けられた看板を照らすフットライトのせいだと気付く。先週の訪問時は日没前で、フットライトは点っていなかった。


敷地内の駐車場には今夜もシルバーのセダンが停まっている。ナンバー照会から割り出した車の持ち主は九条が予想していた宮越晃成ではなく、弟子の堀川綾菜だった。

宮越はまだ50代でありながら3年前に運転免許を返納していた。


 ここから先に繋がる扉を開けるまで数秒を要した。この数秒間はおそらく覚悟の時間だ。

休みの日にこんな場所まで出向いた理由も、店に入ることを逡巡しゅんじゅんする理由も、わかっているのにあえてわからないフリを決め込んで、九条はギャラリーバー【待宵】のベルを鳴らした。


 明るい笑い声が響く店内で探し人はすぐに見つかった。白いシャツに黒いパンツスタイルの女性は九条を見た瞬間わかりやすく顔を強張らせた。


「いらっしゃいませ。……この前の刑事さんですよね。まだ私に何かご用ですか?」


如何にもバーテンダーの装いの堀川綾菜は九条の来訪に訝しげに眉をひそめる。直近で刑事が二度も会いに来たのだ。事件関係者としては警戒の反応を見せても不思議ではない。

ここはなるべく穏和に努めて、綾菜の不信感を拭いたい。


『今日は休みなんです。プライベートで飲みに来たんですが……いいですか?』


 あくまでもプライベートの訪問を強調した九条の顔を見据える綾菜の瞳は真意を探る眼差しだ。まるで内に潜む下心を見透かされているような居心地の悪さを九条がしばらく感じたのち、綾菜は表情を和らげた。


「プライベートなら大歓迎ですよ。こちらへどうぞ」


 案内された席はカウンター席。先週、九条が南田と共に使用した四人掛けのテーブル席は今は三人組の年配男性が占拠している。彼らと同じ席にはあの宮越晃成が着席し、客達と楽しげに談笑していた。


「刑事さん……じゃなくて、ごめんなさい、前に名刺を頂いていたのにお名前が思い出せなくて」

『九条です。この前一緒にいた刑事は南田』

「あっ、そうそう。九条さんと南田さんだ。九条さんは私服だと印象が変わりますね」


 九条の顔をまじまじと見つめた綾菜の瞳には先ほどの警戒の色はない。九条の私服姿に本当にプライベートの来店だと信用されたみたいだ。

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