6.待宵、闇に重なる影⑤

 選んだカクテルは綾菜がスクリュードライバー、九条はアメリカンレモネード。軽くグラスを合わせて乾杯した彼らは同時にカクテルに口をつけた。


 アメリカンレモネードはグラスの中で赤ワインとレモネードが2層になったカクテルだ。レモネードの方が赤ワインよりも比重が重いため下の層に、赤ワインが上の層にある。

モザイクランプの灯りを受けてルビーのように煌めくカクテルは見た目にも美しかった。


 典型的なバーであっても店内の照明は風営法に違反しない程度の明るさが義務付けられている。それに酒の色を楽しむ目的もあるはずのバーの照明は、視界の色を奪うほどの暗さにはならない。

従ってアメリカンレモネードの赤ワインの色を九条は正しく認識できた。


でも綾菜が着ているブラウスは夜道では黒っぽい色としか認識できなかった。下北沢駅に到着した際に、駅構内の照明の下で初めて彼女のブラウスの色がワインレッドだと知った。


(そうか。この気持ちの悪さの正体がやっとわかった)


 頭の中で何かが、弾ける。急速に進む思考が掴んだ何かはしかし、目の前の女の蠱惑こわくな瞳によって吹き飛ばされた。


『似てるんだか似てないのか、わかんねぇな』

「何が?」

『白状するよ。初めて君を見た時、知ってる女の顔にあまりにも似ていて落ち着かなかった』

「知ってる女って、元カノ?」

『元カノですらない、片想いの女。3年も引きずってるんだ。気持ち悪いよな。酒のサカナにして笑ってくれ』


九条の自虐に対して、綾菜は少しも笑わなかった。スクリュードライバーのグラスを傾けた彼女はそれで喉を潤すと、グラスを掴む九条の手の甲にそっと手のひらを重ねた。


「恋愛は大概が気持ち悪いものよ。正気なままじゃ恋はできないし、気持ち悪い行為をしないと子どもだって出来ない」


 九条は綾菜が描いた絵を直に見たことはない。だが、美羽画廊のSNSで見かけた“堀川綾菜”の絵画は、デジタルな画面越しでも伝わるモデルの肌感、纏う衣服の模様や髪の毛一本に至るまで細かな描き込みがされた見事なものだった。


 美羽画廊スタッフの山野の話では、綾菜は模写の技術にも長けており、師匠の宮越の作品を宮越の許可を得た上で綾菜が模写をした絵画は本物と見分けがつかないほどの出来栄えだったと言う。

今、触れているこの手が多くの芸術作品を生み出していると思うと不思議な心地がする。


「親の前で誓いのキスをする結婚式の文化も狂ってる。外国ではキスが挨拶だけど、日本でやるから滑稽になるのよ。でもみんな結婚式で当たり前にやってる。冷静に考えてみてよ。親の前で恋人とキスができるのも狂ってるし、親や友達にキスシーンを見られるなんて気持ち悪いと思わない?」


 世間一般の女の憧れを気持ち悪いと一刀両断する綾菜と忘れられない女が重なる。いかにも忘れられない女が言いそうな皮肉を、忘れられない女と似た顔立ちの女に言われて、くらりと視界が揺らいだ。


「人は狂わないと恋はできない。だから九条さんが気持ち悪くて当たり前」

『全然フォローになってねぇよ』


 狂うなら自分もとっくに狂っている。片想いだけだった女を3年も想い続けて、夢の中の“彼女”を抱き締めるしかできない自分は、心底どうかしている。


 最初は一杯だけ付き合うつもりだった。けれど勢いに任せて注文した二杯目に何を飲んだか、記憶が定かではない。

バーに寄ると決めた時点で、終電を逃すことになるとわかっていた。帰宅手段は渋谷のどこかでタクシーを拾うしかない。


 玉川通りに繋がる細道をふたつの人影が進む。九条の数歩先を歩く綾菜は都会のビルの隙間から顔を出した白い月を見上げていた。


「月が綺麗ね」

『そうだな』

「こんなに月が綺麗だと、なんだか神様にお膳立てしてもらっているみたい」


両手を横に広げてふらふらと踊るように歩く彼女はどこから見ても正真正銘の酔っ払いなのに、振り向きざまに見せた微笑は少女みたいで。

少女になったり女になったり。忘れられない女に似ていたり似ていなかったり。


『神様なんかいやしねぇよ』

「神様を信じない人?」

『昔は馬鹿の一つ覚えみたいに信じていた時もあったけどな。色んな不条理を経験して、そんなもんを信じられなくなった人』


 涙の予兆を感じたのは月の綺麗さが目に染みたから。会えないひとに会いたいと願ってしまったのは、目の前の彼女があまりにもそのひとに似ていたから。


「ねぇ、今から私、あなたにキスするつもりなんだけど」

『……キスを宣言する女に初めて会った』

「キスしたいなって思ったからバーを出る前に口紅塗り直さなかったの。口紅塗りたてでキスすると相手の唇に色移りしちゃうでしょ。これでも気を遣ってあげたわけ」


 果たしてそれは気遣いと言えるのか、それはどうもと感謝すべきなのか。綾菜の物言いが可笑しくて自然と緩んだ九条の唇に、彼女の人差し指が押し当てられた。


「だからちょっと屈んでくれない? このままだと私はどのくらい背伸びすればいいの?」


おそらく日本女性の平均身長である綾菜が長身の九条の唇を迎えに行くには、ヒールのある靴を履いていても背丈が足らない。

ワガママな女王様の唇が“早く迎えに来て”とせがんでいる。


「私ね、きっと九条さんのこと好きになる」

『告白されてるのか、されてないのかわかんねぇな』

「九条さんは真面目なのよ。恋や愛なんて、これくらい不純で不真面目な方が幸せになれるものよ」


 綾菜の要求に逆らわずに身を屈めてしてしまったのも、彼女を受け入れてしまったのも全部、酒のせいだ。


 柔らかな接触を繰り返す。軽く擦り合わせるだけだった唇同士はやがてもっと深い場所で繋がった。彼女が吸っていた煙草の味と、酒を含んだ互いの唾液が交ざって溶けて、絡めた舌先からは湿潤の音色が幾度も溢れた。


腕に収めた華奢な身体がすがりついてくる。久々に感じた女の乳房の丸みややわさが、心の奥に封じた情欲を煽った。


 満月に似た丸い月がこちらを見ている。

忘れられない女は夜が似合う女だった。九条を太陽と称した彼女は、太陽ではなく月が似合うひとだった。


太陽が己の輝きを鈍らせる頃に月は昇る。どうしたって太陽と月は同じ空では輝けない。

この唇は手に入らなかった愛しいあのひととは違うのに、いつまでもいつまでも、彼は“彼女”を欲しがった。


 残像を重ねて、手を重ねて、唇を重ねて、吐息を重ねる。

酔っている自覚はあった。そう、これは全部、酒のせいだ。

酒のせいだけに……しておきたかった。

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