3.絵画、画家はバーにいる④

 階段を降りる足音の後、店の奥から男が現れた。見た目の年齢は還暦前後の口髭を品よく蓄えた紳士は、左足を引きずって歩いている。


『綾菜のお客様か?』

「警察の方です。二階堂さんの件で話を聞きたいと……。こちらが私の恩師でこの店のマスターの宮越晃成先生です」


この男が山野が芸術界の一般教養と称した巨匠、宮越晃成だ。九条と南田は名を名乗り、警察手帳を呈示した。


『宮越です。マスターと言っても経営者ではなく雇われの身ですがね。経営は長年のパトロンがしてくれています。私は金勘定にとんと疎いので』


 すかさず綾菜が立ち上がり、彼女が右手で引いた椅子に宮越が腰掛ける。二人の刑事と対面した宮越は何もないテーブルに視線を向けた。


『お二人にお茶もお出ししていないのか?』

『我々は仕事中ですし、どうかお構いなく』


 九条達は遠慮したが、宮越は開店準備に追われる日森にコーヒーの準備を命じた。この場の絶対的権威である宮越には九条と南田とて逆らえない。

宮越は一瞬にして場の主導権を掌握してしまった。綾菜も日森も宮越の顔色を窺っている。


 しかし相手が巨匠だろうが偉人だろうが刑事は何者にも萎縮してはならない。気を取り直して次は九条が聴取を再開した。


『宮越さんは二階堂さんと面識はおありですか?』

『ありますよ。二階堂さんは元は私の絵のファンでしたからね。かなりの数の私の作品が彼のコレクションに嫁入りしていきました』


 宮越は作品の売買を嫁入りと表現した。その解釈は理解できるような、できないような、聞き慣れない世界の話ばかりが耳に届く。おまけに綾菜の存在が九条の動揺を誘うため、非常にやり辛い。

とにかく今は事件に関係がない些末さまつな物事はすべて抹消して、彼は綾菜に視線を移した。


『堀川さんが二階堂さんと最後に会われたのはいつですか?』

「最後に会ったのは……10月の……9日ですね。大阪の百貨店でグループ展……、複数の画家が集まって開く個展がありまして、二階堂さんも東京からわざわざいらしてくれました」


 “わざわざ”と付け加えた彼女の口調に若干の棘を感じる。東京での個展のみならず、大阪まで追って来る二階堂にうんざりしていたと言いたげだ。


 綾菜の話によれば大阪梅田の百貨店で行われたグループ展の会期は10月6日から11日まで。彼女は8日から大阪市内の友人画家の自宅に宿泊、個展最終日である10月11日の昼の新幹線で帰京している。


二階堂の死亡推定時刻は10月9日から10日の間。個展の観覧のために9日に大阪にいたとされる二階堂は、13日の早朝に東京でバラバラ死体となって見つかった。


 綾菜の証言によると、二階堂が大阪の個展会場に現れた時間は9日の昼頃。その時までは二階堂は生きていたことになる。


辿らなければならないのはその後に大阪から東京に戻り、殺害されるまでの二階堂の空白の時間だ。


『宮越さんが二階堂さんと最後に会われたのは?』

『さぁ、いつだったかな……。綾菜の個展にいらしていた時にお見かけしたのは今年の春でしたか。あとはこの店で何度か』

『二階堂さんはこの店にはよくいらっしゃるんですか?』

『綾菜さん目当てに月に何回も来ていましたよ』


 四つのコーヒーカップをトレーに載せた日森が話に割り込んできた。彼は左手に持ったカップを各人の前に置いた後も立ち去らず、テーブルの横で毒を吐く。


『あの人、綾菜さんの勤務が終わるまでずっと席を動かないんですよ。綾菜さんにベッタリ張り付いて話しかけて、しつこくデートにも誘っていました。爺さんが若い女の尻を追いかける様子は見ていてみっともなかったですよ』

「日森くん、二階堂さんは亡くなってるのよ。言い方ってものを考えて」

『綾菜さんだって二階堂さんのことを話す時は刺々しいくせに』


綾菜の注意にも日森は悪びれない。言い返された綾菜もそれ以上の反論ができずに口をつぐんだ。

二階堂が綾菜に迷惑行為を働いていた場は画廊だけではなかった。この店でも二階堂は厄介者だったようだ。


『10月9日と10日に宮越さんと日森さんがどこで何をしていたか、教えていただけますか?』

『それはアリバイってやつですよね。僕と宮越先生のアリバイも聞く必要があるんですか?』


 日森の二階堂への毒の吐きっぷりは、二階堂を疎ましく思っていた確固たる証拠だ。言質を取られたとは思いもしない日森が口元を歪めて抵抗した。


『二階堂さんと少しでも接点があった方には全員伺っています。もちろん美羽画廊の山野さんにも同じようにお聞きしましたよ。日森さんも宮越さんにも、ご協力願います』


警察への協力を拒絶すれば疑いの対象になることを暗に含ませた九条の微笑は、権力に弱い美大生の口を易易やすやすと開かせる。


『僕は9日は大学院のアトリエで制作をしていました。綾菜さんが不在の時はギャラリーバーも休業だから、ここのバイトもなくて9日はほとんど大学で過ごして……、でも10日は昼から大学の友人と展覧会に行きました。僕と友人のSNSにその時の写真もあります。そのまま夜まで友人と居酒屋で飲んでいました』


 証拠はインスタグラムの写真だと主張する日森は、自身のスマートフォンを九条達に差し出した。


日森が友人と観覧した展覧会は10月10日が初日だった。

都内の美術館のエントランスで初日限定配布のパンフレットを持った日森の写真が彼と、彼の友人のインスタグラムに投稿されている。双方の写真の投稿日は翌日の10月11日。


日森が10日は友人と一緒にいたとしても友人と会う前に犯行に及んだ可能性もある。10日は大阪にいた綾菜のような確かなアリバイの証明にはならない。


『宮越さんはいかがです?』

『私は9日と10日はどちらもアトリエにいましたが、それを証明してくれる人はいません。展覧会や取材などの外部との接触がない日はほとんどアトリエに籠もって制作しています』

「画家が誰にも会わない日は珍しくありませんよ。私だってアトリエをシェアしている先生と丸一日以上も顔を合わせない時もありますし……。画家は孤独な職業なんです」


 宮越の話を綾菜が補足する。綾菜と日森のアリバイは裏付けを取るまでは保留、宮越のアリバイは無きに等しい。

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