3.絵画、画家はバーにいる③

 ギャラリーバー待宵の店内は温もりのある木目調の床に生成り色の壁、飴色のテーブルを囲むように焦茶色のレザーのソファやウッドチェアが配置されていた。雰囲気はバーというよりもカフェに近い。

しかしバーやカフェと異なる点が四方の壁に飾られた数多の絵画だ。


『ここに飾られている絵はすべて宮越先生の作品です。このギャラリーバーは宮越先生の絵を愛する多くの美術愛好家が酒と歓談を楽しむ場所なんですよ』


 二人を席まで案内したのは九条達が最初に遭遇した若い男。この店でバーテンダーのアルバイトをしている彼は美術大学の院生で、日森丈流と名乗った。


 九条と南田の向かいに堀川綾菜が腰を降ろす。綾菜から開店準備を頼まれた日森は、こちらの様子を気にしながらもカウンターの奥に消えていった。


「私がこの店にいることは山野さんからお聞きになったんですか?」

『はい。このギャラリーバーと堀川さんのご関係も山野さんに説明を受けています。恩師の先生とここでアトリエをシェアされていると』


綾菜と初めて顔を合わせた段階から彼女の聴取の進行役は自然と南田が担っていた。まだ調子の戻らない九条は聴取を南田に任せて、綾菜の表情や視線の動きの観察に意識を集中させる。


「この建物は一階がギャラリーバー、二階の二室を宮越先生と私がアトリエとして使っています」

『ご自宅はどちらに?』

「世田谷の松原です。一人暮らしですけど、家には滅多に帰りません。ここにシャワーもありますしアトリエにベッドを持ち込んでいますから明け方まで制作をして、そのままアトリエで眠ってしまう日がほとんどです。ここで生活する方がバーの勤務にも便利なので」


 彼女は落ち着き払った素振りを崩さず、南田の質問に淡々と答えた。


『画家さんがバーの接客のお仕事もされているんですね』

「他に絵画教室の講師もやっていますよ。それでやっと食べていけるようになります。絵だけで生活できている画家はほんの一握りです。私は宮越先生のおかげで快適なアトリエ環境を確保できていますが、狭いアパートやマンションの一室をアトリエにしている画家も少なくありません」


 警察の来訪にもまったく動じなかった画家が初めて見せた憂いの横顔は美しかった。綾菜は壁一面の恩師の絵画に視線を向け、溜息と共に胸の内を吐露する。


「この国は芸術への金銭的価値が低すぎます。何年、何ヶ月も費やして描いた絵も売れても画家には雀の涙程度しか入らない。以前に私の絵のモデルを務めてくれたバレエダンサーの方も、バレエ団とOLの仕事を掛け持ちしていました。日本は芸術に生きる人間には生きづらい国なんです」


日本の芸術分野の価値の低さ、芸術に携わる者の賃金の低さ、いつまでも改善の見込みのない母国の現状を嘆く女性画家の訴えを、九条も南田も黙って聞くことしかできない。


 思わず漏らした本音を苦笑で隠した綾菜は気持ちを切り替えるように、改めて二人の刑事に向き直った。


「山野さんは私と二階堂さんのことをどのように話されました?」

『二階堂さんは堀川さんの作品をいつも購入してくれるお得意様だと。ただ、しつこく食事に誘われたり、つきまとわれていて大変そうだったと、山野さんから伺っております』

「その通りです。二階堂さんは私の絵を気に入ってくださる貴重なお客様でしたが、それ以上に見返りを求める方でしたね。でもお誘いを受けたことは一度もありません」


 山野の話には、高圧的なギャラリーストーカーの説教で女性画家が個展の最中に泣き出したり、食事をするだけだと信じて二人で会った後に無理やりホテルや男の自宅に連れ込まれて襲われる事例もあった。


だが、この女性画家は個展の最中に泣き出すことも作品購入の見返りに男に屈することもないだろう。見るからに気の強さが全面に出ている女性だった。


「二階堂さんは9年前にもストーカー行為で警察の聴取を受けていたんですよね。その時の指紋と杉並の遺体の指紋が一致したと、ニュースで見ました」

『そうです。ギャラリーストーカーと呼ばれているそうですね。二階堂さんの振る舞いには山野さんもかなり参っているご様子でした』

「へぇ。山野さんも二階堂さんのことを偉そうには言えないのに」

『……と、言いますと?』


 画家は意味深に微笑する。堀川綾菜は九条の心に巣食う“彼女”と容姿は酷似しているが、“彼女”との決定的な違いは男を惑わす魔性の色香を綾菜は放っていた。


「山野さんからも何度かプライベートなお誘いを受けていました。二階堂さんほど露骨ではありませんし、仕事の話もあったので山野さんとはプライベートで数回お会いしました。けれどお食事をご馳走になっただけです。山野さんとも二階堂さんとも男女の関係はありません」


 九条の記憶では山野の左手薬指には結婚指輪が嵌っていた。アリバイの話になった時も彼は家族で出掛けていたと答えている。

既婚者の身でありながら山野は綾菜にアプローチしていたということか。

二階堂は確かに悪質なギャラリーストーカーだったが、山野も人のことは言えない。


 九条と共に南田も呆れの表情を見せていた。二階堂の殺害は堀川綾菜を巡る痴情のもつれの線も視野に入れて捜査を進めた方が良さそうだ。

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