4.愛執、囚われた心

 コーヒーの薫りが濃く立ち籠めるギャラリーバーで繰り広げられた人間模様。

堀川綾菜と日森丈流は二階堂を嫌悪していた。つきまとわれていた綾菜は無理もないが、日森までもが二階堂に悪感情を抱いている様子は綾菜への恋慕の印?


 宮越晃成の知性溢れる物腰はさすがの大御所だ。しかし本当のところは彼も二階堂をどう思っていたのだろう?

かつて自分のファンだった男が愛弟子の尻を追いかけ回す様は師匠として複雑な感情があったと窺える。


 九条は終始、三人の様子を観察していた。綾菜と宮越は右手にコーヒーカップを持っていた。

宮越が座るために綾菜が椅子を引いた時も彼女が使っていた手は右手、宮越も主に右手を使用していた。


カウンターの奥に引っ込んでいた日森は左手で作業をしていた。彼はコーヒーカップを配る際も左手を使っているし、スマホを差し出した手も左手だ。

右利きは綾菜と宮越、左利きは日森と予想できるが、利き手の要素だけで日森を犯人と断定するのは早計そうけいだ。


 ギャラリーバーを辞した九条と南田を夕暮れの空が出迎える。二階堂の殺害を綾菜を巡る痴情のもつれと見るなら、あの赤トンボの意味は?

20年前と同じ折り方をした、20年前と同じく血まみれの赤トンボ。夕やけ小やけ、の童謡が無意識に九条の頭に流れた。


『あの気の強そうな女性画家、少し雰囲気似ていたよな。性格ってよりは、見た目や口調とか』


 誰に似ている……とは南田は言わなかった。呼称を言われなくとも彼らには通じる話題だ。3年前の過去を知る南田には何もかもお見通しだった。


『まだ忘れられないのか』

『……どうだろうな』


 3年前のほろ苦い恋。心に突き刺さった硝子の破片は少しずつ角がとれて小さくはなっても、破片で負った傷は完全には塞がらない。


時々、会いたくなる。

時々、声が聞きたくなる。

時々、夢の中に現れる。


 ──“大切に使うね。ちょうどバレッタ失くしたとこだったの“──


 今日の夕焼け色は3年前のの誕生日にプレゼントした真紅のバレッタの色に似ている。けれど似ていても空の赤とバレッタの赤は異なる赤色。

“似ている”だなんて、結局はそんなもの。


 忘れられない女は、誰よりも赤が似合う女だった。


        *


 待宵まつよいには満月の前日、翌日の満月を楽しみに待つという意味がある。どうして店名を待宵と名付けたか、堀川綾菜は由来を知らない。


そもそもこのギャラリーバーは宮越の長年のパトロンである村居むらいという資産家が経営とマスターを兼任していた。宮越は長らくバーの上階にアトリエを構えていたが、決して店に顔を出すことをしなかったらしい。


 3年前に宮越が美大の講師を離職した後に村居からマスターの職を引き継いだ。それ以降、ここはただのギャラリーバーではなく、“宮越晃成と話ができるギャラリーバー”となった。


 限られた時間にのみ開かれる画家と愛好家の歓談の酒場は今夜もその役目を終える。

洗浄したグラスを棚に仕舞う綾菜の背後に忍び寄る影がひとつ、揺らめいた。振り向いた綾菜が驚きで肩を震わせても、影の主、日森丈流はその場を動かない。


「びっくりした。気配を消して真後ろに来ないでよ。何?」

『ストーカージジイがいなくなってホッとしただろ?』

「そんなこと言っちゃダメよ。日の目を見ない私の絵を評価してくれた数少ない人なんだから」


 二階堂の目当てが何であれ、彼は綾菜の作品に金を出してくれた。画家も所詮は商売、収入がなければ画材道具も買えない。


『まさかとは思うけど、あのおっさんストーカーと寝てないよな?』

「私にも画家のプライドがある。絵を買ってくれることは有り難いけれど、どんなに大金積まれても身体は売らない」


 どれだけ有り難い存在であろうとも金と引き換えに肉体関係に応じる気はない。古くから芸術家とパトロンには異性同士も同性同士も、恋愛関係やビジネスを含んだ肉体関係は発生していた。


画家も音楽家も舞踏家も、夢の実現のために父親よりも年上の男に身体を捧げる女性芸術家は多かっただろう。けれど綾菜はそんな生き方はまっぴらごめんだった。


 作品は売れて欲しい。でも売春をして売った作品に何の価値がある?

売れない、売れたい、評価されたい、評価されない。

もがいて苦しんで、だけど彼女はまだ描き続けていられる。彼女の信じる絶対的で崇高ながいる限り……。


 片付けに追われる綾菜を二本の腕が拘束する。綾菜を後ろから抱き締めた日森は彼女の耳に熱い吐息を吹きかけた。


「日森くん。止めて」

『いいじゃん。今日、綾菜さんの家に行っていい?』

「私達は別れたでしょう。前に言ってた大学の後輩の子とはどうなったのよ?」

『あー……アレはもういいや。俺は年下より年上が合うんだ。久しぶりに相手してよ。綾菜さんが恋しい』

「私の身体が、恋しいの間違いじゃないの? ねぇ、本当にもう止めてってば」


耳たぶから首筋に日森の舌が這った途端、綾菜の身体に悪寒が走る。


『家がダメならこのままここでヤッちゃうけどいい? ここで声出したら宮越先生に聞かれるかな』

「止めて。わかった。わかったから……っ」


 顔を上げた先に待ち構えていた日森の唇。優しさの欠片もない、男の性欲をぶつけるだけの気持ちの悪いキスに吐き気がしそうだ。

二階堂も日森も山野も、綾菜にしてみれば同類だ。そしてどの男も自分はあの男とは違うと本気で思っているのだから、なんとも滑稽な話だった。


『綾菜、こっちにいるか?』

「……っ、先生っ!」


 宮越の声に怯んだ日森の一瞬の隙に彼女は日森の不埒な拘束から逃れた。

二階のアトリエからバーに降りてきた宮越の目に飛び込んできた光景は、乱れた髪を手ぐしで撫で付け、胸元ではだけたシャツのボタンを必死で直す綾菜の姿だ。何があったか、誰が見ても一目瞭然だろう。


 宮越の非難の眼差しから逃げるように日森はバーを立ち去った。大きな溜息を繰り返す綾菜を包む大きな影は、先ほどの日森とは違って優しくて温かい。


『大丈夫だったか?』

「先生……。ごめんなさい」

『また日森くんにしつこくされてるのか。このままだと、彼にはここを辞めてもらうことも考えないといけないな』

「日森くんがいなくなったら、新しい人を雇わないといけないし……。またお気に入りの女の子ができれば私から離れますよ。それまでの辛抱です」


 髪を優しく行き来する宮越の痩せこけたを綾菜は愛していた。この3年でずいぶんと老けた画家の左手を取って、彼女は自分の頬にそっと擦り寄せた。


まるで犬猫が喉を鳴らして飼い主に甘えているようだ。宮越の手のひらに頬を寄せ、時折甘い吐息を吐いては、彼の手のひらや手の甲に口付けた。


『綾菜……』

「先生」


 互いの名を呼び合う声は、誰にも聞かせられない。聞かせてはならない。

ふたりの声はとてもとても、甘ったるい。


 なんて愛しい、幸せなひととき。

ここに生じる熱は、愛か、恋か、他のものか。どれでもあってどれでもないと、心でひとりごちした綾菜はたのしげに微笑しながら、目の前の画家に一言、囁いた。


「先生、私は大丈夫ですよ」


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