9. 影男の正体

「蒸気。それにガス灯だ」


 帝都の通りといえばそこかしこから蒸気が上がっているものだが、それはあくまで日中の話だ。夜になれば圧力管も使われなければ、お湯が下水に流されることもなくなる。それでも〈影男〉が消えた地点では、全て下水から濃厚な蒸気が立ち上っていたのだ。


 そしてもう一点。牧野巡査が感じた目の眩むような〈影〉の暗さは、表通りから差し込んでくるガス灯の明るさによって強調されていたのだ。きっと〈影男〉はそれを利用し、闇に紛れる工夫を付けていたのだろう。こちらもやはり、深夜になればガス灯の殆どは消される。残っているのは仲見世通りとその周辺、あとは区役所通りくらいなものだ。


「確かに〈影男〉は劇場の事務室や表通りにも現れてるが、消えた場所は全部そんな所なんだ。つまりそれが、〈影男〉が姿を眩ますための〈舞台〉の条件なんだよ。俺は早速調べた。浅草の中心に、だいたい十カ所くらい、条件に合う地点があった。さて、お前ならどうする」


 少年探偵団がいたならば大活躍出来る状況だろうにな、と思いつつ、知里は思案する。


「単独捜査。所轄の警官も動かせない――なら、わざと節子を、その付近に行かせる。そして現れた〈影男〉を捕まえて、証拠の出生証明書と養子縁組書を回収して終わり」


「いかにもお前らしい答えだな。民間人を何だと思ってる。そんな手が使えるかよ」


「警部が〈そんな手〉を使えなかったから、松井節子は自殺した。でしょ?」


 苛立って応じた知里に、彼はため息を吐いて何度も頭を振る。


「馬鹿野郎。お前は自分だけで何とかしようとしすぎなんだ。それで何とか出来るくらいの頭はあるが、それが弱点にもなる。誰の話も聞かんから、これだ、と思ったら、それが絶対的に正しいと思い込む。悪い癖だ」


「弱点? 悪い癖?」


「あぁ、悪い。確かに俺はお前さんほどの頭はねぇが、手に核心を持てない分だけ色々な手を考える。それに頼れそうなヤツには誰にだって頭を下げて手を貸して貰う」


「そんな状況で、誰に頼るってのよ」


「市民と役所だ」


「役所?」


 牧野は夜に湯気を出している店を一つ一つ調べ上げ、頭を下げ、場合によっては警察権力を使って、夜間の排出を止めさせた。更には役所にかけあって、夜間に点灯しているガス灯を少し変更させた。


「それで〈影男〉の〈舞台〉を減らした――?」しかし未だに、知里にはその意図がわからなかった。「でも、それが何になるの?」


「地図があれば説明しやすいんだがな。俺がわざと残した〈舞台〉は、奥に逃げたって全部迷路みいたいになってて。広そうに見えて実は、一カ所を抑えれば行き場がなくなる。一人でも封鎖出来るんだよ」


 なにしろ〈影男〉はいつ現れるかわからないし、牧野が指摘したように下手に節子の前で乱暴な手に出れば彼女にも危険が及ぶ。だが彼の考えた〈逃げられることを前提にした〉手であれば、全てが上手くいく可能性が高い。


 確かにこれは、辛抱強い牧野でなければ考え出せなかった手だろう。本気で感心しつつも、知里は最初から抱いていた疑問を口にした。


「でもそれは、〈影男〉が普通の人間だったら、の話よね。もしそいつが怪人で、本当に影の中に溶けるような力を持っていたなら――」


「まぁ可能性としては考えていたが。怪人が相手だったら、どんな手を考えたって無駄さ。だからその場合は仕方ねぇと諦めてたが、幸いにして――いや、不幸にして、か――〈影男〉はそういうヤツじゃなかった」


「え? 捕まえたの〈影男〉を? でもそいつは結局捕まった様子はなかったし――」


 驚いて尋ねた知里に、牧野は何度目かのため息を吐いた。


「捕まえたって言えるのかどうか。とにかくヤツは、俺の想定外の時に現れやがった」


 牧野は役所と付近の店に依頼した通り、〈舞台〉が整っているか改めていた。そうして考え通り残った〈舞台〉が簡単に封鎖出来る事を確かめていたとき、不意に表通りから一人の紳士が現れた。シルクハットに杖をつき、見事に整えられた髭を蓄えている。


 何者だろうと闇の中から様子を窺っていると、彼の行く手にまた別の影が現れた。紳士も長身ではあったが、それを上回る体躯を持ち、頭にはシルクハットを載せ襟の立った天鵞絨の黒マントを纏っている。


 あれが〈影男〉だと、牧野はすぐに悟った。そして対する紳士は――


「まさか、伊達の伯爵、とか」


 牧野は目を見開いて応じた。


「何でわかった」


「ただの勘。それで? 恐喝の黒幕が伊達の伯爵だった。〈影男〉が伊達の伯爵も脅迫してた。どっち?」


 光と闇の間に立つ〈影男〉の姿は、その名の通り朧気だった。瞬きする度に身体と背景の境界が曖昧となり、見失ってしまったような気にさせられる。しかし彼は身動き一つしておらず、歩み出てきた伊達の伯爵に奇妙な声を発した。


『さて、ちゃんと持ってきて戴けましたかな。見たところ手ぶらのようだが――私の忍耐にも限度があります。このままでは貴方と内親王殿下がやり取りした恋文を明かさねばならなくなります』


 低くくぐもった、それこそサーカスの熊か何かが発する声のようだった。一方の伊達の伯爵はこれ見よがしに舌打ちし、シルクハットを脱いで頭を掻いた。


『よくよく考えてみたんだが、それが何になる? 俺は元々手が早いので有名だ。別に恋文の一通や二通――』


『おやおや、貴方は自分が書いた内容も覚えていないようだ。ここまで赤裸々に何をしたかというのが綴られていては、ご婚約者さんも我慢がならないでしょう。あれほどの女優をまんまと手放すのは、なんとも惜しいことですな。それにそもそも、この内容が本当だとしたら――貴方は下手をしたら皇室に対する不敬罪に問われることにも――』


『わかったわかった! しかしいくら何でも、一万円というのは法外だ!』最初から伊達の伯爵は値切るつもりでいたのだろう。唾を飛ばしながら、杖の先を突きつける。『五千円なら何とかなる。それで我慢しろ』


『なんともはや――伊達の副将軍ともあろうお方が、随分情けない事を仰る。一万円なんて、伊達屋敷の離れほどの価値もないではありませんか』


 伯爵はなんとか値切ろうと、あらゆる話術を駆使した。脅し、すかし、泣き落としまでしてみせたが――決して〈影男〉は折れるつもりがないのがわかると、遂に諦めてため息を吐いた。


『わかったもういい! 仕方がない、これでどうだ』


 彼は懐から、年季の入った桐の小箱を取り出した。中から現れたのは、赤子の拳ほどの大きさもある紅い宝石だった。差し込む月の僅かな明かりを受けただけで周囲に煌びやかな光を投げかけ、一目で大層由来のある物だというのがわかる。


 それを見た〈影男〉は、僅かに影の中から身を乗り出させ、低く唸った。


『ほほぅ、それは有名な伊達家の〈竜の目〉――ですな?』


『そう、政宗公が失った片目の代わりに入れていた――なんて話は講談がでっち上げた嘘っぱちだがな。明治の頃からウチに伝来する紅玉だ。最低二万くらいの価値はあるだろう。なんなら釣りが欲しいくらいだ』


『ですがそんな物を戴いても、売ることもできない――どうしたもんですかな』


『らしくないな。良く知らんが、闇の市場とかで捌けるんじゃないのか、こういうのは』


『しかし〈竜の目〉は有名すぎますからな――分割して売ろうにも手間がかかりすぎる――』


 渋る〈影男〉に、伯爵は苛立ちながら言った。


『何なんだ。お前は素人なのか? そもそも華族ってのは商人じゃないんだ。先祖伝来の土地や骨董品はあっても、金はないんだよ。土地を売るか? 誰が買う。一年かそこら先じゃなきゃ、一万円だなんて工面できないぞ。じゃあ土地を担保に銀行から金を借りるか? 必ず用途を聞かれる。何て答えりゃいい? 脅されてるんです、とでも言えばいいのか?』


 〈影男〉は暫く考え込んでいたが、やがて小さく一つ頷き、片手を伸ばした。


『まぁいいでしょう。それで取引成立といたしましょう』


『おっと待った。手紙は何処にある。引き換えの約束だろう?』


『あぁ、それなら、確かにここに』


『見せろ。本物か確かめる』


 低く笑いながら、〈影男〉はつづら折りになった手紙を闇の中から差し出した。


『約束を破っては今度に関わりますからな。私は騙したりはいたしませんよ。さぁ、存分に』


 伯爵は闇に歩み寄ると、手紙を奪い取って中を改める。そしてそれが確かに本物だと確信すると、不意に片手に突いていた杖を掲げた。まさにそれは一瞬のことだった。伯爵が手にしていたのは仕込み杖で、いつの間にか現れていた白刃は闇を突き通す。


 だが、闇は闇のままだった。伯爵も何の手応えも感じられなかったらしく、すぐに刃を薙ぎ、更に闇に踏み込みながら縦に振り下ろす。


 そこで何事もないかのように、〈影男〉の低い笑い声が響いた。


『では確かに〈竜の目〉は戴きました。それでは、ごきげんよう』


 はっとして、伯爵は胸に手を当てる。そしてそこにあったはずの小箱がなくなっているのを悟ると、歯をむき出しにしながら左右に目を配った。


 消えた。そうわかると、牧野巡査は物陰から飛び出し伯爵に叫んだ。


『こっちです! この先にしか逃げようがありません!』


 誰だ君は、所轄の警官です、というやり取りをしながら、二人は路地の奥へ、奥へと駆ける。〈影男〉はまさに影に近かったが、影そのものではなかった。僅かにその残像を捉えられ、伯爵と牧野は木箱を飛び越え、ガラクタを蹴り倒しながら彼を追う。


 そして、追い詰めた。彼が行こうとしていた先は、以前はもうもうとした蒸気と目映いガス灯の光があった。しかし今はそのどちらもなく、代わりに牧野が設えた板塀で遮られていた。


 明らかに〈影男〉は、その状況に困惑しているようだった。乗り越えられるような高さではない。押してもびくともしない。左右は煉瓦ビルの壁に囲まれ、扉も、窓もない。


 〈怪人〉ならばこういう時、壁を破ったり高く飛んだり、異常な攻撃をしてきたりするものだ。しかし、それもない。


 牧野は安堵しつつ、〈影男〉に歩み寄ろうとした、その時だった。耳元で轟音が響き、咄嗟に振り返る。


 そこでは伯爵が拳銃を構え、その銃口からは硝煙が立ち上っていた。


『――クズが』


 目を戻すと〈影男〉は地面に倒れ、その黒々とした身体からは赤黒い物が流れ出てくる。


 考えるべきだった。伯爵は、〈影男〉に何かを言われては困る。警察などに捕まって事情聴取されるくらいならば、そうなる前に殺してしまうのが最善だろうと。


 だがそれでは、松井節子の出生証明書の在処がわからない。もし彼に仲間がいたならば、彼女の秘密が暴かれてしまうことに――


 失敗した。


 混乱しながら影に歩み寄り、その顔を改めた牧野は――更なる混乱に襲われ、呟いた。


『――節子さん?』


 そう、その路地裏に横たわり、こめかみから血を流していたのは、他ならぬ松井節子、その人だったのだ。

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