10. 警察手眼

「松井節子が――〈影男〉だった? それってどういう――」


 混乱して尋ねる知里を楽しそうに眺め、牧野は応じた。


「さすがのお前さんでも、その可能性は考えなかったか。いいね。俺は満足だ」


「ちっとも満足しないわ。どういうことなんです? 節子は、自分自身を脅してた――? なんで?」そこでふと、冒頭の牧野の言葉を思い出した。「そう、『彼女は真の女優だった』――そう言ったわね?」


「真相はわからん。なにしろ彼女は死んじまった。だが考えてみるに――彼女は自分の出自をいつまでも隠し通せるとは思っていなかったんじゃないかな。婚約にしたって伊達の伯爵が相当なゲス野郎だと知っちまって、とはいえ自分を虐待してる松井の元からは一刻も早く逃れたかったし、元の奴隷同然の立場に戻るのも怖れていた。すると?」


「この状況を利用して、周囲から出来るだけ金を巻き上げ消えようとしていた」


「そうだ。そうとしか考えられん。彼女の姿は、全て芝居だった。その実体は、強欲で――いや、強欲と言っては可哀想だが――酷く怯えてはいたが、最高に頭が切れる女性、といったところか。彼女の唯一の失敗は、松井の座長が俺を引き込んじまった事。それだけだった」


 なるほど、それで一通りの筋は通るが――


 知里は全ての情報を頭の中で改めていたが、やがて最後の疑問へと辿り着いた。


「でも警部はどうして、そんなヤツの写真なんかを後生大事に」


「そんなヤツ? 彼女の何処に非がある。そりゃあ恐喝なんて褒められたもんじゃねぇが、他に仕様がなかったんだ」


「ははぁ、私情がある。つまり警部は、彼女に相当惚れちまってたと」


「馬鹿言え」と、警部は手首の戒めを鬱陶しそうに捻った。「そもそも――しくじったからだよ。俺はしくじったんだ。彼女を守ると誓ったが、それが出来なかった。それに――その後のこともある」


「その後?」


「伊達の伯爵だよ。噂通り、彼は頭が良かった。すぐに節子さんのやろうとしていたことをだいたい悟ると、笑いながら言ったもんだ。『やれやれ、よくわからんが、顔に釣られて婚約なんてするもんじゃないな』。そして俺に言ったよ。『いいか? お前は俺なんて見なかった。彼女が自殺してるのを見つけたんだ。それで全てが丸く収まるし、そうすればすぐにお前もお巡りから刑事か何かになれるだろう』」


「それを受けたっての? 昇進させてやるからって? 幻滅」


 呆れて言った知里に、牧野は肩をすくめる。


「俺はただの小役人だぞ? 華族となんか話した事もねぇ中卒の野郎に、何が出来るってんだ」


「伯爵をふん捕まえて、その内親王の恋文とやらも奪い取って、その女の敵のゲス野郎を再起不能にするべきだったのよ」


「だからお前は華族ってもんをわかってないって言ってんだ。奪って何処に明かす? んな危ねぇもん、上司は握りつぶすに決まってる。じゃあ新聞か? あんなもん誰が信じる。今となっては、一つだけ手は思いつくがな。伊達にだって敵はいる。そいつに渡すって手だが――当時はそんなこと、思いつきもしなかった」そこで彼は身を捩り、挑むように知里を見つめた。「この件をお前がどう思おうが、俺は構わん。ただな、俺はしがない小役人だが、平民にしては多少の融通が利く立場にいる。俺はそれを使って、多少はいい世の中にしようって思ってる。それがそんなに駄目な事なのか?」


「別に、駄目だなんて――」


「はっ、どうかね。お前は俺をのろまで意気地のない野郎だと思ってんのはわかってる。本音を言やぁ、俺はレヘイサムなんてキチガイ野郎なんかに関わりたくなんかねぇ。だがヤツは華族だけじゃなく、平民も平気で殺す。どうにかしなきゃならねぇ。だから内務卿なんかにも――まったく、冗談じゃねぇ。どうして俺がこんな目に遭ってるんだ。おい、お前さん賢いんだろ? じゃあ俺なんかが頑張らなくて済むように、さっさとどうにかしてくれよ」答えない知里に大きなため息を吐き、「ったく。だがな、平民ってのは普通、そういうもんなんだよ。お前にしろ、それにあのレヘイサムって野郎にしても。平民に無茶を求めすぎなんだ。民主主義? 自主独立? 誰がそんなめんどくせぇもんを求めてるってんだ。俺は嫁さんと三人の子供、それに目の届く範囲でささやかな平穏を守るので精一杯だ」反論しかけた知里を遮り、「お前が何で警官になったのかは、薄々わかってる。だがな、手柄を上げるにしても、警官ってのは『人々のための勇気ある強い保護者』じゃなきゃならねぇ。保護者だ。狩人じゃねぇんだ。敵を捕まえるよりもまず、人々を守るのが仕事だ。それが嫌だってんなら――そうだな、陸軍にでも転職した方がマシかもしれんぞ」


 思いがけず、知里は納得していた。自分と、彼らとの違いだ。それは単に頭の出来と気性の問題だとしか思っていなかったが、違ったのだ。


 自分は敵を狩ろうとし、彼らは味方を守ろうとしている――


「それ、〈警察手眼〉でしょう。あの少年探偵のご先祖が残した」


 言うと、牧野は目を丸くして知里を眺めた。


「何の話だ?」


「『人々のための勇気ある強い保護者』」要領を得ない牧野に、呆れて言う。「川路利良よ。あの人が残した訓示みたいなので、警察手帳にも載ってて――」


「あぁ、あれか。読んだのか? 俺は単に、昔の上司が良く言ってたから覚えてただけだ」


「なかなかいいこと書いてあったわよ。一度ちゃんと読んだら?」


「読んだお前さんがその通りだからな。きっと無駄だろう」


 苛立ちながらも、知里は認めざるを得なかった。


「えぇ。私が敵を求めてるって警部の考えは正しい。でも実際、周りは敵ばかりなんだもん。仕方がないでしょう」


「少なくとも俺は味方のつもりなんだがな。お前が勝手に敵だと思い込んでる」


「信じろって? 誰かが味方だと信じ込むより、敵かもしれないって思ってた方が安全よ」


「その結果がどうだ。この有様だ」言い返せない知里に、彼は四方を眺めながら続けた。「お前には守るべき物が一つしかない。自分だ。だからそういう考えになる。まぁ自分よりも素晴らしいと思える存在ってもんに出会ったことがないから、そうなるんだろうが。そう思って利史郎君に付かせてみたが、彼でもお前を感心させる事は出来なかったらしい」


「はぁ? そんな考えだったの? 私が、あの少年探偵に感心する? 馬鹿馬鹿しい。そりゃ多少頭は回るけど、自分のことを何にも知らない、ただの子供じゃない」


「だが彼はお前の事を買ってたぞ。『お前が警察をクビにするなら、俺が雇う』ってな」


 それは初耳だ。


 当惑しながら、知里は応じる。


「やっぱり、あの子は何処か頭がおかしいのよ。私なんかが、探偵なんか出来るはずがないじゃない」


「どうしてだ。警察なんて組織より向いてるかもしれんぞ」


「無理無理。私には彼みたいに、上手く上流階級に入り込むような忍耐力はないから」


「違いねぇ」警部は哄笑しつつ、「だが相棒ってんなら話は別だ。良い刑事と悪い刑事ってのがあるだろう。彼は少し奥手な所がある。それでお前さんが悪い刑事を――」


「彼に〈悪い刑事〉が必要とは思えない」


 率直な感想を言っただけだ。あの少年はよい子ぶってはいるが――何処か胡散臭い所がある。知里以上に達観しているというか、自分を事件から――いや、世の中の理から外に置いて、無関係な出来事として俯瞰しているのだ。


 それはある意味、最高に恐ろしい存在だ。まるであのDloopと同じように、自分の感情に左右される事もなく、全てを見通し、客観的に制御しようとし――それは大抵の場合、成功する。


 それが弱点となる部分も確かにあった。自分という物を持たないから、自分とは何かという哲学を突きつけられると、唐突に混乱する。知里も、あるいはレヘイサムも、それを利用する事である程度の優位性を持ててはいたが――果たしてこの先、彼がそれに対抗する論理を手に入れてしまえば、本当に手に負えなくなる。


 さて、その時、彼を封じる方法が何かあるのだろうか――


 そう考えている知里の横顔を、牧野はまじまじと見つめていた。そしてふと気づいた知里に対し、驚いたように言う。


「参ったな。感心はしてねぇが、買ってはいるのか」


「――まぁ」渋々認める。「彼は大抵の場合、一人で何とか出来る。私の助けなんて不要よ」


「表裏一体、ってヤツだな」首をかしげた知里に、彼は続けた。「お前さんたちは、やり方は正反対だ。しかし結果としてはよく似てる。二人とも一人で何とかしちまうから誰も助けられんし、いざって時に助けてももらえん。辛い人生だよな。おかげで周りが敵ばかりだと思っちまう」


 そうなのだろうか。誰も助けてくれないのは、困っている私を助けるほどの力が彼らにないから?


 しかし――


「でも実際、もっと何か出来るでしょう。なのにみんなったら、いざって時でも、さぼったり、遊んだり、どうしようも――」


「それだよ! 言っただろう! お前さんは平民に多くを望みすぎだってな!」


「私は平民より下の外地人よ?」


「そういう身分の話じゃねぇよ。わかってんだろ。まったく、いつもそうやって話を丸め込もうとする。これだから――」ブツブツと口の中で何か言いつつ、彼は四方を見渡した。「まぁ、それならそれでもいいが、少なくとも俺にはこの状況をどうにかするような手なんて、何も考えつかん。どうするよ。っていうかそもそも、何でレヘイサムは俺たちを捕らえておく。何で殺さない? 意味不明だ」


 その理由も知里はとっくに思いついていたが、説明する気にもなれず、何か文句を言い続けている彼と共に船倉の中を見渡す。目を覚ましてから一時間ほどだろうか。変化があったとすれば、小さな窓から差し込む陽の光が長さと方向を変えたことくらいだ。


「ずっと南に向かってる。小笠原にでも向かってるのかしら」


 その予想を確かめるには、更に一時間ほど必要だった。船が右に左に揺れはじめ、やがて速度を落として停船する。蒸気機関の野太い音も低くなっていき、碇が降ろされたらしい振動も響いてくる。知里は牧野と身体を支え合って立ち上がると、そっと窓から外を眺めた。視界が狭く判然とはしなかったが、やはりどこかの小島らしかった。木製の桟橋は貧相ではあったが、それなりの大きさの船は泊まれるよう設えられている。


 それよりも知里たちの目を引いたのは、貧相な村落の奥に浮いている大きな濃紺の代物だった。


 大きな、というのは、あくまで近くのあばら家と比べての話だ。飛行船としては小ぶりな方で、千代田級の半分もない。だが小さいというのは利点にもなる。数本の綱で地面に係留されたそれは周囲の木々の間に紛れ、更には枯れ木や草が括り付けられた網で半身を覆われている。これではよほど気をつけなければ、上空から発見されることはないだろう。


 やがて現れたのは、獣じみた姿をした怪人、それにガスマスクの男たちだった。彼らが綱を引いて船が係留されると艀が渡され、何人かが船に乗り移り、入れ替わるように男が五人ほど降りてくる。殆どが件のガスマスクの男たちだったが、その先頭に立つ人物には見覚えがあった。口と顎に細く鋭い髭を整えた、片眼鏡の老紳士だ。


「伊集院昭典」


 呟いた知里に、牧野警部は目をむく。


「あれか、出雲の隠居で、黒薔薇会の化学者だっていう」


「えぇ。彼が例の、ピッチブレンドって得体の知れない燃料の利用方法を発明した。そして――それを爆弾にする方法も」


「爆弾だと? 一体どんな」


「それは、少年探偵は手紙にこう書いてた。『小型の太陽のようなもの』だと」


 なんだそりゃ、と、警部には全く響いていないようだった。知里だってそうだ。爆弾と言っても岩を吹き飛ばすのば精々だ。大量の爆弾で古い煉瓦ビルを破壊する所も見たことはあるが、小型の太陽が何をどれだけ壊すのか――まるで想像がつかない。


「本当です」


 その言葉は二人の背後から響いてきた。慌てて船窓から離れつつ振り向くと、いつの間にか船倉の中に一人の男が現れていた。


 ガスマスクの男だ。


 恐らく雑魚連中は、こうして正体を眩ます事になっているのだろう。男は独特の呼吸音を響かせながら男は歩み寄ってくると、短刀ほどの長さもあるナイフをベルトから抜く。


 ここに来て、今更殺すか?


 恐らく牧野にしても同じ思いだろう。疑問に思いながらも身構える二人の目の前に近づくと、男は顎に手を当ててマスクを一息に脱いで見せる。


 そこに現れたのは、全く予想外の顔だった。


「利史郎君――!」


 思わず叫びかけた牧野に、彼は慌てて唇に人差し指を当てて見せた。

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