8. 松井節子

 違和感に促され、知里は目を開けた。途端に覚えのない部屋、覚えのない状況だというのに気づき、記憶を探る。


 それは品川の埠頭で、蝙蝠男に襲われた所で途切れていた。そして隣には牧野警部が、知里と同じように後ろ手を縛られて転がっているのが見える。


 背後からは光が差し込んでいた。いかにも船らしい丸い窓で、影が短いということは昼過ぎということだろう。一日以上気を失っていたということも考えられないから、あれから恐らく半日かそこらだろう。部屋は塗装もされていない板張りの部屋で、明らかに倉庫か何かだ。樽や木箱が並んでいて、その隙間に二人は転がされている。


 船は上下に、緩やかに揺れていた。既に帝都を離れ、何処かに向かっているのだろう。


「警部、警部!」


 囁きながら自由になる足で蹴ると、彼はうめき声を上げながら目を開いた。


「――何だ、どうなってる」


「曰く、囚われの身、というヤツ」


 牧野警部も周囲を見回し、状況を把握したようだった。何度か咳き込んで大きなため息を吐くと、身を捩って壁に背を付ける。


「わからんな。どうして死んでない」そしてつま先で、知里の縛られた両手を指す。「おい、そいつを俺のつま先に」


「靴に仕込み刃でもあるの?」


「少年探偵でもあるまいし、そんなもんあるかよ」


 ともかく意図は察し、幾つかの手を試してみる。だが縄はしっかりと結わえられていて、半時間ほどの奮闘では緩みもしなかった。汗だくになった二人は疲れ果て、壁に身をもたせ、どちらともなくため息を吐く。


「――ったく、勝手はするなと言っただろう」


 蒸し返す警部に、知里は簡単に腹が立った。


「黙って怪しい行動してる警部が悪いんです」


「怪しい? みんなが怪しい状況だったってのに、誰に説明するってんだ! だいたい何で俺が怪人だなんて話に――怪人探知機? あんなもん出鱈目の――」


 それについては、既に知里は明確な推理を打ち立てていた。


「いえ、違う。警部の側にはずっと、あの透明人間が張り付いてたのよ。それであの腕輪が警部に反応したように、私には見えちゃった」


「何? 俺が見張られてたってのか? なんでまた――」


「そりゃ、自分らを追ってる連中の親玉だもん。見張ってれば、これからどうするか全部わかる。簡単でしょ。それに警部が内務卿を怪しんで、動きを調べてたのも役だった。それでまんまと内務卿が無防備な時を見計らって入れ替われたって訳」


「――ったく、内務卿が怪しいことは結局合ってただろうが。お前さんが妙な事をしなきゃ、色々上手くいってたかもしれんのに」


「それは、だいたい警部が怪しすぎたのよ! どうして警視庁に嘘の住所なんて登録してたの! それにホントは何? 独身なの?」


「そんなとこまで調べてたのか」警部は大きくため息を吐いて、背中を丸めた。「嫁と子供らは、先月別の所に移した。俺しか知らん所に」


「何で」


「レヘイサムの連中も、それに内務卿も――どっちに関わるにしても、ヤバすぎるだろう。犯罪者にしろ華族にしろ、連中は家族を使って脅すなんて事は日常茶飯事だ。だから――」


「じゃあ、松井節子は?」


「何?」


「松井節子。警部が机の上に写真飾ってたでしょ」


「何でそんな事まで――それが何の関係がある。事件には無関係だ」


「〈影男〉事件。実際は何があったの」


 警部は無為に左右を眺め、薄い頭を掻き、ようやく応じた。


「お前は彼女について、何を知ってる」


「それは――」知里は調べられている範囲のことを説明した。「それで――伊達の伯爵と婚約したけど、そこに〈影男〉が現れて、実は外地人だとばらされたくなければ金を払えって脅して――で、それに耐えきれずに節子は自殺しちゃった」


「まぁ、概ねそんなとこだな。だがそこから見える節子さんの姿は――悲劇のヒロイン、といったところか? だが実際は――彼女は、真の女優だった」


 意味を取りかね、知里は首をひねった。


「――天才女優だった、っていう意味?」


「まぁな。俺も若い頃は出し物に嵌まっててな。シェークスピアだ何だってのは今でもわからんが、彼女の演技は本当に真に迫っていて――しかも役柄が変われば、全く別人と言っていいほどだった。髪とか化粧とか、そういう工夫だろうと思っていたが――見終わってから、あの凄い女優は誰だろうと思ってチラシを見て、初めて節子さんだったと気づくような事が何度もあった。さすがに参っちまってな。当時の悪友と出待ちなんてのをしてたりしたんだが、まぁそんな事をする連中の中には、見てるだけじゃ済まずに帰り道を襲おうとするようなヤツもいる。たまたま俺がそれに気づいて野郎を捕まえた事があったんだが、その次第を節子さんの養父だった松井の座長に説明してるうちに向こうが打ち明けてきた。最近困ってる事があるってな」


「待って。じゃあ警部、彼女が死ぬ前から関係があったの?」


「関係って程でもねぇが――とにかくそこで松井と節子さんから、〈影男〉の話を聞いた。身の丈二メートル近くあって、いつも暗がりから現れては不意に消え去る、まさに影のような男だと。俺は当然、桜田門に相談するべきだと言ったんだが、それだと伊達の伯爵に知れて婚約が破談になるかもしれないから、絶対に駄目だって。まぁ俺も憧れの女優に頼られたってのもあって調子に乗っちまって、じゃあ俺が一人で〈影男〉を捕まえるって、大見得を切っちまったって訳だ」


 早速牧野巡査は、事件の細かい次第を確認した。〈影男〉は決まって夜に現れ、節子を脅し、金を持ってこさせた。どうやって手に入れたのか、彼は節子の高砂人としての出生証明書、そして松井家への養子縁組の記録を手にしていた。それだけの証拠が揃っていれば致命的だ。最初の頃は要求額も少なかったので節子の蓄えで何とかしていたが、それが潰えたと知ると〈影男〉は節子の養父の元にも現れ、それで事態が明らかになった。


 彼はまさに神出鬼没だった。殆どは夜道だが、適当に呼び止めた辻馬車の御者だったり、松井座長が残業していた劇団事務所に現れたこともあった。共通する点は夜だということ、そして追っても必ず見失ってしまうということだった。そして〈影男〉の名の通り、顔は常に何かしらの影になっていて、判然としない。


 とにかく牧野は昼の勤務を終えた後、夜に節子の護衛まがいのことを始めた。しかし〈影男〉もそう易々と姿は現さない。次第に緊張も緩み節子と多少親しくもなってきて、彼女の苦労の積み重ねを知ることになった。


「俺も当然行ったことなんてねぇが、高砂ってのはまだまだ酷い所らしいな。下水や圧力管なんてものはねぇし、子の売り買いなんてのも普通だとさ。しまいにゃ今でも、山ん中には首刈り族なんてのもいる。自分は恵まれてるんだと言ってたが、松井の座長、あれもクソ野郎だったらしくてな。節子さんの才能を見抜いた目は確かだったようだが、そっからがいけねぇ。虐待まがいの役者修業が続いてたようで、彼女と松井との関係は――親子じゃねぇ、奴隷とその主人のようだった。


 そこから唯一抜け出せる道が――結婚が――見えたかとおもったら、これだ。自分が外地の出だと知れたら婚約だけじゃねぇ、何もかも終わりだ。元通り、蛮族さながらの暮らしに戻らなきゃならねぇ。その恐怖がお前には――」そこで牧野は知里の出自を思い出し、頭を振った。「まぁ、わかるか。だがお前は他人の視線を気にしない強さがあるが、普通はそうはいかねぇ。特に女優なんてのは人気商売だ、他人からどう見られてるかってのには凄く敏感だ。だから彼女は心底、怯えていたよ」


 また牧野は〈影男〉現れた地点を全て改め、桜田門の記録を調べ似たような事件がなかったか探したが、何一つ手がかりは得られなかった。二メートルもある大男ならば簡単に見つかると思い馬車鉄道の駅を一日中見張ってみたこともあったが、それらしい男を捕まえて尋問をしても全て空振りだった。


 日に日に憔悴していく節子に牧野巡査は途方に暮れ、現場百回とばかりに再び〈影男〉の出没地点を改めに行った。そのどれもが闇と街明かりの狭間にあり、物陰に誰かが潜んでいたとしても、全くわからないほどの影があった。それ自体は松井の証言通りだったが、三つ目の地点を改めていた時、牧野巡査はふと、ある事に気づいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る