7. 露呈

 新聞で見たことのある顔だ。彼こそが、近衛の内務卿――


 彼は左手にランプを掲げ、右手にはその光を浴びて金色に光るサーベルを握っていた。そうして硬直している牧野警部、そしてそれに銃を突きつけている知里、さらには口を開け放って自身を凝視するミッチーを眺め、ランプをサイドテーブルに置き、サーベルを両手で握り締めた。


「それで、誰を斬ればいいのかな」


「警視庁の知里巡査です」言いながら知里は、ポケットから手帳を取り出し掲げた。「牧野警部はご存じでしょう。彼が近衛卿を調べていることに不審を覚え、追跡し拘束しようとしていたところです。彼は実は怪人で、レヘイサムに仕えている疑いがあります」


「知里!」


 叫ぶ牧野に目を向け、近衛郷は、ふむ、と喉の奥から声を発した。


「恐ろしいほどに無能な男だと思っていたが、レヘイサムのシンパだったということか。知里巡査――と言ったか? よくやった」そして室内に足を踏み入れ、サーベルの切っ先を牧野の胸元に向けた。「汚らわしい。怪人なんぞが近衛の館に入り込むなど」


 牧野警部は上擦る息を飲み込み、両足をしっかり床に踏ん張り、応じた。


「私は怪人なんかじゃない。それに私にはまだ確信はありませんが――疑わしいのは、内務卿、貴方の方だ」そして知里に目を向ける。「おい、よく考えろ。俺はレヘイサムなんぞに肩入れする義理はない! 三人の子供と嫁さんを食わせるので精一杯な、ただの小役人だ!」


「警視庁に登録されてる警部の家には、子供なんていない。そもそも、誰かが住んでた形跡もなかった」


「なに? そこまで調べたのか? それはつまり――」


「まぁいい。何にせよ小役人の代わりなんぞ、いくらでもいる」


 近衛卿はサーベルを上段に構える。


 まさか本当に斬るつもりか。


 知里は即座に身を離し、牧野と近衛郷、そのどちらも狙える位置に下がりながら声を張った。


「止してください! 警部には聞かなければならない事が山ほど――」


「ふん、近衛を何だと思ってる。こんな輩に生きて敷居をまたがせては、家名に傷が付く」


「近衛卿!」


 サーベルが振り下ろされようとする直前、知里は銃口を天井に向け引き金を引いた。銃声に近衛卿は動きを止めたが、その隙に牧野は懐から拳銃を取り出し、彼に向けていた。


「何なんだ、全く」近衛卿は牧野から目を逸らさず言った。「ほら、これで帝国の宰相が暴漢に狙われるという図式だぞ? さっさと彼を撃て」


「あぁ、畜生、何だってこんなことに!」牧野は牧野で、混乱しながら叫ぶ。「知里、止せ! 撃つなら彼の方だ!」


 本当に、何だってこんなことに。


 知里は必死に考えていた。状況からして、牧野は限りなく疑わしい。だが近衛卿の動きも妙だ。幾ら保守的な人物とはいえ、尋問もせず相手を斬ろうとするとは。


 わからない。


「おい、近衛を撃つという意味が、わかってるのか?」近衛卿は声に力を込めて言う。「もしそんなことをしたら、死刑じゃ済まんぞ。一族郎党、この国に住むところはなくなると思え」


 そこで急に、知里の脇で息を飲んでいたミッチーが囁いた。


「あいつ、俺の事がわかってない」


 それで天秤は、一度に近衛郷に傾いた。彼が上段にサーベルを構える肩に銃弾を放つと、唐突にローブを着た老人の姿はちらつき、一瞬透明になり、再び老人に戻り、悲鳴を上げながら背を向けて室外に走り出した。


「追え! 追え!」


 牧野警部の叫びを聞くまでもなかった。知里は廊下に駆けだし、一瞬見えた緋色のローブを追って階段を駆け下りる。そして姿を再びはっきり捉えられたのは、彼が厩に飛び込んで一頭の馬に跨がった時だった。危うく知里は跳ね飛ばされそうになり、牧野警部に引っ張られて寸前の所で避ける。すぐに知里は外に停めていたゼンマイ二輪、ミッチーは蒸気二輪に向かったが、牧野を乗せては追いつけない。


「待て、俺は馬なんぞ乗れんぞ!」


 厩に繋がれた他の馬に目を向けられ、牧野は叫ぶ。それで手早く、ミッチーが馬に、そして知里が蒸気二輪に乗り換え、牧野はゼンマイ二輪に跨がって蹄の音を追った。間もなく闇の中を疾走する馬の姿が捉えられたが、ミッチーの乗った馬は酷い駄馬だったらしく、すぐに遅れて見えなくなってしまう。


 彼を待っている訳にもいかない。相手の馬は南に向かい、間もなく潮の香りがしはじめる。だが相手の姿は、一瞬透明になり、老人に戻り、また透明になるというのを繰り返していた。


「誰だ奴を透明人間だなんて名付けたのは! 姿を変えて別人にもなれるんだ!」


 叫ぶ牧野警部に、知里は応じる。


「一体いつから? 本物の近衛卿は?」


「最近様子がおかしいって、屋敷の下人が言ってたんだよ! だからそれもあって俺は――」


 その時、馬上ではためいていた緋色のローブが宙に舞った。途端に怪人の姿も見えなくなり、馬は途方に暮れたように足を止め、周囲をうろつき始めた。


 品川港だった。闇の中に巨大な赤煉瓦の倉庫が連なり、人の気配は全くない。すぐに知里は蒸気二輪を乗り捨て、銃を構えながら馬に駆け寄る。牧野警部は周囲に懐中灯の明かりを向けていたが、透明人間を探すには広すぎて、暗すぎた。辛うじて見えるのは、立ち並ぶ帆船のマストと蒸気船の煙突の影。だが知里は、馬が徘徊する周囲に血痕を認め、その先を追う。石畳に残る緋色は途切れ途切れではあったが、確実に一方向に向かっていた。そして桟橋が並ぶ埠頭に近づくと、急に牧野警部は知里の手を押さえ、手回し電灯の明かりを下げさせる。


「なに?」


「こちら側の手前から四つ目の蒸気船だ。見えるか?」


「――細いヤツ?」


「あぁ。八丈島で目撃された船の特徴と一致する。レヘイサムが逃げるのに使ったヤツだ」


 知里は目を細めたが、暗すぎてわからなかった。看守の報告は知里も目を通している。二千トン程度のスクーナー型で、煙突は三十度ほど傾いだ楕円形の物が一本、作られて日の浅い高級旅客船のようで、これまでに見たどんな快速船よりも速かったと。


「でも本当にそれなら、港の職員が通報してるんじゃあ」


「馬鹿野郎。連中が宛てになるんなら、帝都の犯罪の半分は起きてない」


 牧野の言うとおり、湾港職員というのは荒くれ者が殆どだ。犯罪者と結託して密輸や横流しに関わっている者も多く、警察の手配など右から左だろう。彼は片手で知里の事を押さえながら再び先を覗き込み、顔を戻して続けた。


「おい、俺はここで見張ってる。応援を呼んでこい」


「応援? 相手は追われてるのがわかってんのよ? すぐ逃げちゃうに決まってる」


「じゃあたった二人で、怪人が何人も潜んでるだろう船に突っ込めってのか? 俺は御免だね。死にに行くようなもんだ」


「もう死んでる」


 唐突に頭上から声がして、一斉に見上げた。二人が身を潜めている倉庫の軒先に、真っ黒な塊がぶら下がっていた。一瞬何かの袋かと思ったが、それは次第に大きく翼を広げ、真っ赤な口を露わにし、闇夜でも光る目で二人を見下ろす。


 蝙蝠男。


 悟って拳銃を向けようとしたが、既に遅かった。黒い影はあっというまに空を覆い尽くし、二人は闇に包まれた。

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