5. 影男事件

 新宿御苑の北側はまだ古い住宅地が残っていて、レンガどころか漆喰さえみられない。連なる木造平屋建ての中には傾いでいる物もあって、それなりに家賃は安い地帯らしい。


 そのただ中に目的の家はあった。牧野の表札は掲げられていないが、住宅地図によればここに間違いない。それほど古びてもおらず、新しくもなく、何の変哲もない小役人の家だ。


 しかし、静かだった。夕方のこの時間帯、子供が三人もいれば騒がしくて当然だ。現に耳を澄ますと背後や隣の家から子供の奇声や赤子の泣き声が聞こえてくるが、正面からは全く何もない。それに五人家族で住むには、少し小さすぎるようにも見える。これではせいぜい、居間の他に二部屋あるかないかだろう。


「ごめんなさい、ここの家だけど」


 通りかかった割烹着の婦人に尋ねると、彼女は少し驚いた風にしながらも応じた。


「お住みの方ですか? 殆ど、見かけたことありませんけど――」


「どんな人?」


「たまに四、五十くらいの女の人が出入りしてるくらいで――それに話しかけても逃げちゃうんですよ? 何なんでしょうあれ。訳ありの後家さんじゃないかって話してますけど――」


 念のため牧野の卓上にあった写真を見せたが、どうも特徴は一致しないらしい。


 それからもあれこれと婦人は一方的に話し続けたが、あとは噂話の類いだった。次第にこちらの意図を詮索しはじめる婦人を追い払ってから、知里は再び全体を眺める。


 一応、扉を叩いてみる。反応はない。


 そこで知里は家の裏手に回り、板塀の間にある勝手口に手をかける。鍵はかかっていなかった。そこから身を滑り込ませ、狭く湿った裏庭から周囲を改める。扉も窓も、鍵はしっかりとかかっていた。くたびれた建屋だから力ずくでも開きそうだったが、まだ先ほどの婦人が周囲を窺っていたらまずい。それで知里は解錠道具を取り出し、裏口の鍵穴に差し入れた。別に利史郎の流儀を真似たわけではないが、出来る事は学んでおくに超したことはない。幸いフクロウ博士の屋敷は暇すぎて時間は有り余っていた。さすがに実戦は手間取ったが、なんとか一分ほどでピンを外すと、汗を拭って中に入る。


 最初は誰かがいるかもしれないと警戒し足音を殺していたが、三つある部屋は全て空だった。文字通りの空だ。家具の類いは殆どなく、一応寝間の押し入れには布団が入ってはいたが、使われている形跡はない。


「三人の子供ですって?」


 思わず呟く。これは五人家族の家ではない。強いて言えば――住人が引っ越したばかりの家だ。


 さて、どうしたものかと考える。真相を掴むには、件の〈訳ありの後家さん〉を捕まえるのが確実だが、たまにしか見かけないというから、張り込みは分が悪すぎる。


 思い立って知里は馬車鉄道の走る表通りに出て、記憶にある調子で口笛を吹く。すると暇そうに座り込んでいた少年たちの中の一人が立ち上がり、少し胡散臭そうにしながらも寄ってきた。


「ミッチーのとこの?」


 言うと、少年は頷く。牧野の家を見張って誰かが出入りしたら尾行するよう言いつけると物欲しそうに見つめられ、知里は仕方なく五円札を握らせる。途端に彼は満面の笑みを浮かべ、札を振りながら仲間の元に戻っていった。


 途端に知里は、昔のことを思い出していた。以前は彼らと似たり寄ったりな立場だった。何の知識もなく、何の疑いもなく、偉そうな倭人のお零れを貰って生きていた。蝦夷でも、内地でも、最も最底辺に生きるのは孤児たちだ。彼らのうち何人かは家もあるのかもしれないが、殆どは橋の下や裏通りで筵にくるまり、横になる。とても知里は彼らを使うにあたって、ミッチーのように得意げな気分にはなれない。


 嫌な思い出だ。


 知里は頭を振って忘れようとし、次いで近くの郵便局に向かう。そして郵便の転送がされていないか調べて貰ったが、やはり届けは出されていない。


 この筋は行き止まりだ。他にある手がかりは――牧野の卓上にあった写真。


 浅草にとって返して浅草署で松井節子の名を出すと、当時のことを知る年配の刑事がいた。彼は知里の顔を見るなり、丸眼鏡の奥の目を細めて言う。


「あんた、外地の人?」


 訛りは完璧に矯正している。初見で見破ったのは利史郎以外にいない。


「――なんで?」


 シラを切ってみせると、白髪頭の老刑事は意外な事を口にし始めた。


「そりゃあ――あれからもう二十年だ。今更松井節子の事を調べるだなんて、親類縁者くらいしか思いつかないですよ」


「待って。松井節子って蝦夷なの?」


「いや。高砂の娘だけど――じゃああんた、どうしてまたあの件を? 何か新しい話が?」


「――いえ、何か関連しそうな話があったので。念のため――」


「ふぅん。まぁ、気の毒な事件ではありましたけど。自殺ですよ」


 そう面倒くさそうに応じられたが、なんとか急かして当時の資料を掘り出して貰う。


 写真館の店主は心中と言っていたが、記憶が美化されていたのだろう。実際の所松井節子は、一人で死んだ。知里は箱に詰めた資料を新橋にある利史郎の事務所に持ち込み、ざっと改めていく。


 彼女の生まれは、はっきりしない。幼い頃に両親に売られ、浅草の劇場で下働きをしていたらしい。そこで戯れに演技をしていた所を座長で士族の松井新之介に見いだされ、子もなかったことから養子に迎えられ、子役として舞台に出始める。やがて期待の新人と見られるようになり、当時色男として知られていた伊達の次期伯爵に見初められ、婚約が交わされた。


 将来は順風満帆かに思われたが、そこで彼女が実は外地人だという事実を何者かが掴んでしまったらしい。


 一応、帝国は外地人枠を作って差別をなくそうという姿勢は見せている。だが一般の倭人は未だに外地人を奴隷か何かだと思っている輩が多く、それは二十年前では尚更だったろう。外地出身を売りにしている芸人ならまだしも、花形として売り出そうとしている女優が外地出身では、倭人の自尊心が許さない。それは親が士族であれば、養子であっても伯爵との結婚に支障はない。だが元が外地人では話は完全に変わってくる。


 とにかく松井新之介はある夜、何者かに呼び止められた。暗がりのため姿形ははっきりせず、松井は彼を〈影男〉と呼んだが――その彼は節子の秘密を明かされなくなければ、金を払えと脅してきた。


 松井としては、伯爵の身内になれるかもしれないという重要な局面だった。背に腹は代えられぬと仕方なく支払ったが、〈影男〉の脅迫は延々と続いた。下人を使って夜討ちしようとしてみたりもしたが、〈影男〉はそれこそ文字通り影のように闇の中に消え、正体は全く掴めない。そうして遂に支払いが滞るようになった頃――松井節子は、自殺してしまった。


「やれやれ」


 呟くと、思いがけない声が応じた。


「へぇ、あの事件で自殺した人だったのね」


 知里が読み終えて脇に寄せていた資料を、片っ端から眺めていたらしい。机に脚を投げ出しているミッチーに驚き、どこから入ったのだろうと部屋を見渡す。


「いつの間に戻ったの。って、知ってるのこの事件」


「まぁ、ざっくりとですけど。伊達さんとこで昔騒ぎがあったって、爺さんが言ってて」


「それで?」


「いや、それだけっす。ほら、伊達さんって今でも独身でしょ? 伊達者だからって言われてますけど、ホントは昔の婚約者に義理立てしてるんだって。あそこって見栄えを気にする家柄でしょ? それもあるだろうし」


「それはどうでもいいけど――で、松井節子は脅迫に耐えられずに自殺したって? それで〈影男〉はどうなったの」


「さぁ、そこまでは」


 知里は繰り返し資料を改める。しかし捜査は一通り事情が調べられた程度で終了している。〈影男〉が何者なのかは不明なまま。そもそも彼については手がかり一つなく、すっかり姿を消していて被害もそれきり。たから捜査の優先順位は下げられてしまったのだろう。


 何てことはない自殺。浅草署の老刑事はそう言っていたが、確かにそう見える。しかしそんな彼女の写真を、どうして牧野が後生大事に飾っているのか。そう思いつつ繰り返し資料を改めていると、一つ面白い発見があった。松井節子の遺体を発見したのは浅草署の巡査で、その名は牧野だったのだ。


 ふむ、と知里は考え込む。


 全ての疑惑は、牧野警部は怪人かもしれない、という所から出ている。それを続けていくのだとしたら――この事件に関しても別の見方が出来るかもしれない。


 〈影男〉とは、怪人だろうか。


 仮にそうであるとしたならば、牧野は事件に一定の役割を果たした可能性がある。例えば――脅迫を止めるよう直談判しにきた松井節子を、〈影男〉は殺してしまった。そこで牧野は〈影男〉を守るため、自殺として処理されるよう手を回した。


 十分あり得る状況だ。実際そういう視点で見てみると、検死報告書にも疑問がある。松井節子の致命傷は、左のこめかみの銃創だ。自殺という結論の根拠は、側に彼女の指紋が付いた拳銃が落ちていたという点。だが彼女は右利きだったという証言が幾つもある。また彼女がどうやって銃を入手したのかも明らかではなく、牧野が死体を発見した経緯も曖昧だった。〈銃声らしきものを聞いたので路地を覗き込んだところ、発見した〉とある。しかし金曜の夜の盛り場だ、小口径の拳銃の発砲音を聞きつけるのは容易ではないし、そもそも花形スターになろうという女性が、下水から湯気の上がる汚らしい雑居ビルの狭間を死に場所に選ぶだろうか。


 そもそも、当然――牧野がその〈影男〉自身だという可能性も、十分にある。


「それで牧野さんの動きは?」


 尋ねると、ミッチーは傍らのクリップボードを拾って読み上げる。


「あの後、すぐに外出。近くの喫茶店に入って二時間近く、何か難しそうな顔で資料を読んでましたね」


「茶色いスクラップ帳?」


「えぇ、そんなのです。で、そこを十七時に出て辻馬車を拾って芙蓉館に。知ってます? 芙蓉館」


「華族院の社交場でしょ? 丸の内にある」


「えぇ。そこの出入り口が見張れるとこに馬車を止めさせて、ずっと張り込んでます。で俺は、後は動きがあったら知らせろって手下に任せて。ほら、あの辺は顔見知りが多くてヤバいんす」


 壁に掛けられている振り子時計を眺める。もう二十時だ。


 警部のスクラップ帳を写し取った手帳を取り出し、眺める。主に内務卿に近しい人物たちの相互関係が纏められていたが、警部は彼らの交友に一定の規則を読み取っていたように見受けられる。この人物とは何曜に会い、このクラブには第三日曜に顔を出し――そして木曜は夜まで芙蓉館で過ごし、その後は奥方が実家に行くため必ず自宅で一人になる。


 そう、今日は木曜だ。この調査内容が確実であれば、そろそろ――


 ふとその時、事務所の扉がノックされ、汚らしいキャスケット帽の子供が顔を覗かせた。彼は知里をいぶかしげに眺めてから、ミッチーに駆け寄って耳打ちをする。


「――なんでひそひそ話すの」


 怪訝に言った知里に、ミッチーは苦笑いして見せた。


「そりゃ、誰が味方で誰が敵か、わからないですから。そう教え込んでるんす」


「それは随分行き届いてるわね」


 皮肉のつもりだったが、彼は構わずシルクハットを手に立ち上がった。


「とにかく、警部が動いたようです。芙蓉館から出てきた爺さんを追ってるとか」


「近衛の内務卿ね」


「多分」


 と、ミッチーは人差し指を向ける。


 どうにもわからない。牧野は何をしようとしているのか。


 思いつつ知里も立ち上がり、軽快な足取りで階段を降りていくミッチーを追った。

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