4. 牧野警部の謎

 とても表裏があるようには見えない牧野警部にも、確かに謎があった。それが何なのかはまだわからない。良いことなのか、悪いことなのか――とにかく何かあるにせよ、気取られてはまずい。それで知里は謎の女優写真を複写してもらい、原本を戻しに警視庁へととって返す。だが不思議なことに、課内の雰囲気は先ほどとうって変わって緊張していた。


「何かあったの?」


 神妙な顔で額を寄せ合っている数人に尋ねると、中の一人が応じる。


「例の移送中だった怪人が、レヘイサムに奪われたと」


「真面目に? どうして」


「詳しくは知らん。警部が今、上に報告に行ってる」と、苦い表情を浮かべて続ける。「さすがにヤバいかもな」


「何が?」


「内務卿直々の事件だってのに、失敗続きだろ。警部、今頃辞表を出せって言われてるかも」


 ふと、知里は思考に引っかかりを感じた。ともかく写真を元に戻し、再び牧野の机の上を眺め、記憶通りに置かれたままの物を取り上げる。


 あの内務卿の記事が纏められたスクラップ帳だ。


 中を改めていくと、先ほどは気づかなかった記載が後ろのページにあった。関係図だ。内務卿を中心として、家族や親戚、関係者などの顔写真がびっしりと貼り付けられれ、線で繋がれている。


 さすがにこれを持ち出すのは不味い。それで手帳を開いて素早く書き写している間に、手首に不思議な震えを感じた。フクロウ博士の作った、かの怪人探知機だ。


 一体、何に反応している?


 思いつつも、すぐさま腰をかがめて机の陰から様子を窺う。これといって異常はない。相変わらず刑事部は全体がざわめきたっていたが、ふと入り口の扉が開くと、課員たちの視線が一斉に向けられた。


 牧野だ。彼は渋い顔で視線を受け止め、ハエを払うように手を振り、憮然とした表情で自席に向かう。その時知里は、完全なる混乱に陥っていた。


 ブレスレットの震えは、次第に強くなってくる。


 つまりそれは、牧野は怪人だということか?


 まさか、あり得ない。『ヒトとは外見に著しい差異がある』。怪人の定義の第一だ。


 しかし――その定義は、本当にあてになるのか?


 元々知里は疑り深い質だったが、ここ数ヶ月で見舞われた奇怪極まる出来事によって、常識とされていたことすら信じるのが難しくなっている。


 とにかく、今はまずい。


 知里は震え続けているブレスレットをポケットに突っ込み、机に向かい合わせてある椅子に腰掛ける。そしてブースの扉を開いた牧野に、今気づいた、というように顔を向けた。


「――何だ。何してる」


 酷く疲れ、掠れた声だった。知里は緊張と猜疑心を隠し応じる。


「もう二ヶ月よ? いい加減に復帰させるなりクビにするなりしてください」


 この直訴という芝居に、牧野は何の疑問も感じなかったらしい。大きなため息を吐きつつ口髭を掻き、鞄を机上に放り投げながら言う。


「わかった。戻れ。だがいいか? もう二度と――」


「勝手な事はするなってんでしょ。わかったから」


 本当にわかってるんだろうか、という視線で、数秒眺める。結局彼は諦め、椅子に倒れ込んで天井を見上げた。両目を擦り、腕を広げ、口からは声にならない喘ぎ声を上げる。


 異常はない。いつも通りの牧野だ。使命感や正義感ではなく、責任感で働くだけの叩き上げの警部。


 しかし知里は更に確かめようと、尋ねる。


「――エシルイネが奪われたって?」


 途端に牧野は身を上げ、机上に手を組んだ。


「それも聞いてなかったぞ。お前がDloopに引き取らせた怪人だったなんて――」


「ここに居たら話してたんだけど、残念ながら子守で忙しかったから」


「ほんとに口の減らない奴だな。とにかく今、利史郎君が一味の行き先を追ってる。そのうち連絡あるだろうから、そしたら――」


「はいはい、手助けをしろってのね」


「違う。俺に知らせろ」口を尖らせてみせた知里に、彼は指を突きつけた。「いいか、勝手をするな。わかったか?」


 はぁい、と適当な返事をしつつ立ち上がり、ガラスで仕切られたブースから出る。途端に課員たちの視線が飛んできたが、知里もまた牧野と同じように片手で振り払い、廊下に出る。そして壁を背にして鞄を探り、ブレスレットを取り出した。


 震えは収まっている。


 牧野は完璧に、牧野だった。しかしこの怪人探知機は――どこまで正確かは怪しい物だが――牧野が怪人だと言っている。


 ありえる可能性は、二つほどあるだろうか。


 その一。怪人が牧野に化けている。


 つい先年、帝都では別人に化ける〈つらら女〉の騒ぎがあったばかりだ。あの怪人は未だ逃走中で、レヘイサムの仲間になっている可能性も捨てきれない。しかし牧野は外見だけでなく、中身も確かに牧野らしい。すると記憶まで取り込める怪人ということになるが、そうなるとなかなか手に負えない事態だ。


 しかしそれよりは、第二の可能性の方があり得るように思える。


 牧野は、人と変わらない姿をした怪人だという可能性だ。


 まさか利史郎は、それを疑って知里に捜査を命じてきたのか? だとして、一体どんな所が疑わしかった?


 そこで知里は思いだし、鞄から手帳を取り出す。


 何か知らないが、彼は内務卿について執拗に調べている。そこから繋がるのは――ここのところ彼が犯している失敗の数々だ。


 直接の関係はないとはいえ、レヘイサムの脱獄事件は大失態だ。彼があれほど易々と八丈島を脱出できた理由は未だ調査中と聞いているが、それも牧野が指揮を執ってる。加えて彼が受け持つレヘイサム捜索についても何一つ進展はなく、その鍵を握るであろう怪人、エシルイネを奪われるという大失態も加わる。


 それの意味するところはつまり、牧野が完全に翻弄されているだけなのか、あるいは――わざと、そうしているのか。


 そうだ。彼がもし怪人だとするなら、レヘイサムの手下である可能性が高い。牧野はそれとなく警察の内部情報を流し、彼の脱走を手助けし、捜査の手が及ばないよう細工をしている。更に内務卿の調査。それはつまり――


 知里は桜田門から駆けだし、周囲の様子を窺っているミッチーの肩を叩く。


「あんた、手下って何人くらいいるの」


「え? 手下っていうか、一応使えるのは――まぁ二、三百人くらいはいるっすけど」


「――真面目な話」


「ホントですって! パンクだけじゃなく、その辺の餓鬼にはだいたい話が通ってるし。自慢じゃないっすけど、連中使ったら帝都の何処にでも入り込めますよ」


 とても信じられない。そう疑う知里に、ミッチーは独特な調子で指笛を吹く。すると道路の向こう側で暇そうにしていた少年が駆け寄ってきて、帽子を脱いで頭を下げてきた。見るからに浮浪児で、全身が薄汚れている。


 ミッチーは指で十銭硬貨を弾き彼に渡してから、ほらね、というように胸を張る。まるで悪びれていない彼にため息を吐きつつ、知里は言った。


「ったく、ホントに華族ってのは――まぁいいわ。とにかく、監視して欲しい対象は二人。牧野警部と、近衛公爵」


 近衛、とミッチーは絶句し、周囲を見渡してから顔を近づけてくる。


「なんで近衛のおっさんを――内務卿っすよ?」


「確かあんたのお母さん、近衛の人じゃなかった? とにかく大久保候なら居所を掴むくらい簡単でしょ。それで異常がないか見張って」


「いやでも――あの人、超おっかないんすよ? マジで餓鬼の頃から何度もひっぱたかれたし――てか、事件に何の関係が?」


「いいから」


 言って、彼から蒸気二輪を奪い取る。それでも困ったような表情を続けるミッチーに、知里は彼のネクタイを掴み、引き寄せて言った。


「探偵の真似事をしたかったんでしょ? じゃあやって」


 そして知里はスロットルをあけ、蒸気二輪を西に向けた。

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