五章 探偵の追跡

1. 見えない疑惑

 知里新子は手渡された電報を二度読んだ。利史郎からだったが、どうにも意図がわからない。それで三度目に読み下していたところで、それを持参してきたシルクハットの少年が興味津々で尋ねる。


「で、何のことっすか、それ?」


 わからない。だが彼は、知里ならば意図を汲むだろうと思い、これほど簡単な文章しか送ってこなかったのだろう。


 こういう場合、知ったかぶりをする以外に手はあるか?


 あるいは利史郎は、そうした相手の性格まで読み込んだ上で、こういう電報を送ってきたのかもしれない。彼にはそういう嫌らしい所がある。いずれにせよ八方塞がりだ。負けを認め、言われたとおりにするしかない。


「ったく、華族ってのは他人が全員召使いだとでも思ってるのかしらね」


 愚痴りながら薄手のコートを手に屋敷を出ると、ミッチーはポケットに手を突っ込みながら追ってくる。


「で、何処行くんすか?」


「あんたに何の関係が?」


 大抵の相手はこれで追い払えるが、この華族の中でも最上位の爵位を持つ少年もまた、華族らしい図々しさを備えていた。


「いやだって、先生は俺に知里さんを手伝えって」


「何処にそんなことが書いてあるのよ」


「じゃなきゃ俺宛に電報送るはずないじゃないっすか。直接ここに送った方が半日早いっすよ」


 確かに、そういう意図もあるかもしれない。


「――まったく、Dloopと関わってからこっち、あんたの師匠は深読みが過ぎるわ」


「で、何処に?」


 修理上がりの蒸気二輪に跨がり、リアシートを叩きつつ言うミッチー。知里は仕方なく桜田門を指示した。


 昼時というのもあって、霞ヶ関は人と車両でごった返していた。ミッチーは蒸気バスや二頭立ての馬車、ゼンマイ二輪といったものを次々と追い抜き、三十分ほどで警視庁に辿り着かせる。知里は周囲に顔見知りがいないのを確かめてからシートを降り、ゴーグルをミッチーに投げ渡しつつ言った。


「三十分くらいで戻るから、それまでに牧野警部が来たら適当に引き留めといて」


「了解――っすけど、あの警部さんになんの関係が?」


 いいから、と押し込み、玄関の階段を駆け上がり艦内に入った。例によって頭の鈍い連中が右往左往しているだけの通路を抜け、捜査一課に入る。そこは相変わらずタイプライターの音と煙草の煙に包まれていて、同僚の一人が目ざとく知里を見つけて怪訝そうに言った。


「なんだ。禊ぎは済んだのか?」


「えぇ。警部に書類を持ってきてくれって」


 小心者の嘘はすぐばれる。だが堂々としていれば、誰も何も気にとめない。他人の行動をいちいち改めるほど、皆は暇ではないのだ。


 ガラスで仕切られた牧野警部の小部屋に入り込んだ知里は、何気なく机を改める。


『サンニンノコドモヲ アラタメヨ』


 それが利史郎からの電報だった。隠語を使ってはいるが、これは牧野警部の事を指しているのは明らかだ。


「俺は嫁さんと三人の子供の面倒を見るので精一杯だ」


 知里も何度も聞かされた、牧野警部の常套句だ。


 しかし何故、利史郎が彼に疑問を持つのか、それがわからない。


 あの少年探偵は、間違いなく子供だ。自分のことを何もわかっていない――というよりも、自分がどう生きるべきかについて何の考えもない。しかしそれは彼の唯一の弱点であって、それ以外に関しては――自分の存在しない世界については――恐ろしいほど物事の関連性を読んで裏の裏まで推理できる。彼の慎重さには苛立たされる事がままあったが、知識と記憶力、そしてそれを関連付ける推理力に関しては、知里よりも彼の方が優れている。それは認めるしかないが、それにしても牧野の何処に怪しいところがあるというのか。


 さて、どうしたものかと机上を眺める。お世辞にも片付いているとは言えない。煙草の灰を払いながら散らばっている書類を改めたが、部下からの進捗報告や上司からの通知文程度しかない。中には書きかけの書類もあった。近衛の内務卿に対し、レヘイサム捜索の状況がかんばしくない現状を言葉を尽くし釈明している物だ。脇には華族年鑑が置かれ、当の近衛家のページが開かれている。どうやら内務卿からの圧力は相当なものがあるようで、スクラップ帳には近衛内務卿に関わる新聞記事が纏められていた。要人との会談、式典への出席といったお堅いものから、社交欄の浮ついたゴシップまで様々だ。


 それで内務卿の好みでも知って関心を買おうとでもいうのだろうか。牧野らしくないといえばらしくないが、事件以外では華族とは縁のない小役人にとってみれば仕方がないのかもしれない。睨まれれば即、三人の子供諸共路上に放り出されることになる。


 しかし牧野に代わって他の警部が捜査を担当したところで、彼以上の成果が出せるとは思えない。どだい官僚機構で、あのレヘイサムという狂人と渡り合おうというのが無茶なのだ。彼と戦う武器としては、牧野警部の持つ――そして大抵の役人が資質として求められる――地道な努力と辛抱強さは不向きなのだ。


 小役人の悲哀だな、と苦々しく思いながら、続いて引き出しを確かめる。こちらも書類が詰まっているだけで、注意を引く物はない。


「一体何を調べろっての」


 愚痴りながら、ため息を吐く。そこでふと机の上に置かれた写真立てが目に入り、取り上げて眺める。和服姿の女性だ。聞いたことはないが奥方だろう。細い目に広い額という古風な風貌だ。


 利史郎の疑問が何であるにせよ、知里の知る牧野警部には疑問はない。つまりその牧野警部に疑問を求めるとするならば、『知里の知る牧野警部』という存在自体が偽でなければならない。


 だが、果たして本当にそんなことがあるだろうか?


 思いながら知里は写真立ての留め金を外し、写真を取り出す。これといった異常はない。裏面には判子が押されていて、『浅草浪漫撮影局』とある。


 これは妙だ。夫人の記念撮影にしても、あの警部が喜んで若者たちの都、浅草に行くような人とは思えない。


 貧弱な疑問ではあったが、他には何もなさそうだった。仕方なく知里は警視庁を出て、蒸気二輪に跨がったまま周囲に目を光らせていたミッチーに写真を見せる。


「この店知ってる?」


 さすが浅草のパンク連中を仕切っているだけある、彼はすぐに応じた。


「えぇ。俺も撮って貰ったことあるっすよ」と、眉間に皺を寄せつつ表の女性を眺める。「随分古い写真すね。いつのっすか」


「古いの? 何で」


「いやだってこの格好、親の世代の流行っすよ。知里さん女でしょ。女って大抵そういうの詳しい――」


 知里は軽く彼の腹を殴ってからリアシートに座る。


「残念ながら外地の出だからね。じゃあそこに」


 浪漫撮影局という看板は、馬車鉄道の車窓からよく目にしていた。だが実際の場所はよく知らず、ミッチーは知里が足を踏み入れたことのない浅草寺の裏側に蒸気二輪を滑り込ませていく。そして適当な場所でサドルから降りると、観光客で賑わう狭い路地の奥へ奥へと向かう。やがて辿り着いたのは軒先一面にプロマイド写真が並ぶ一角で、小金持ちの子弟らしき着飾った少年少女が奇声を上げながら歌舞伎や宝塚役者のプロマイドに群がっていた。


「――知里さんは錦之助派?」


 人だかりを眺めていた知里はミッチーに問われ、ため息を吐く。


「なによ。〈先生〉から聞いたの?」


「いやいや。知里さんみたいな感じの人は、優男の雷蔵より硬派な錦之助の方が好きだから。あのへんが錦之助が纏まってるあたりですけど――」


「遊びに来たんじゃないの」


 場所は完璧に覚えた。後で一人で来ればいい。そう思いつつ、知里は誘惑を振り切って中に入る。薄暗い店内には大判の写真や浮世絵の類いが所狭しと並べられていたが、一つ数百円もするのはわかりきっていた。やはり外と比べて閑散としていて、店主らしき羽織袴の老人は目を瞑り、手回しラジオで浪曲を聴いている。


 早速咳き込んで注意を向けさせると、懐から取り出した写真を見せる。


「ここで撮られたらしいけど、覚えは?」


 老人は丸眼鏡の奥の目を細め、首をつきだして覗き込む。


「懐かしいねぇ、松井節子じゃない」


「――誰?」


「文芸協会出の新人で、オフィリアもやったんだけどね。すぐにしがない劇作家と心中しちゃって」


「それ、いつ頃のお話?」


「さぁねぇ。もう二十年も前になるかなぁ」


 奥方ではなかった。単に好きな女優なのかもしれないが、牧野のような小役人には一般に求められる節制というものがある。家族写真ならわかるが、女優の写真を職場の机上に飾るというのは解せない。


 やはり牧野には、何かあるのか?


 知里は思いつつ、椅子に腰掛け笑みを浮かべている女性の顔を見つめた。

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