12. 追跡

 利史郎は息を詰めて床を転がり、積み上げられている貨物の陰に身を隠す。一緒に乗り込んでいた三人の警官たちの姿は見えないが、激しく咳き込んでいる声だけは聞こえる。すぐに鞄を漁り、金属製の筒――小型のガスマスクだ――を取り出し咥え、二輪用のゴーグルを装着する。そして詰めていた息を吐き出した頃、煙の奥の方では激しく殴打する音と警官たちの悲鳴が交差していた。やがてそれも収まり、煙の中から二つの陰が浮かび上がってくる。


 ガスマスクの二人組だ。彼らは独特の呼吸音を響かせながら檻の前までくると、着物の袖で口元を覆っているエシルイネを見下ろした。


「捕まっちゃった」


 先ほどの動揺は、完全に治まっているらしい。元通り剽軽に言ったエシルイネに、片方の男は大きなため息を吐きつつ応じた。


「いつも不用心すぎるんだ、お前は。こっちは戦争中なんだぞ? もう蝦夷に人は割けないと言っただろう。ボスもあの少年探偵には関わるなって――」


「でも来てくれた。やっぱり狼君は仲間想いね」


 狼君――狼男か。


 室内の毒ガスは、既に薄らいでいた。それを確かめてから息苦しそうにマスクを取った男は、顔中が毛で覆われ、ピンと尖った耳が頭に付いている。


「ボスに言われて来ただけだ。いいから、さっさと逃げるぞ」


 もう一人の男が警官から奪った鍵を使い、鉄格子を開く。そして狼男はエシルイネの手のひらの戒めを解こうとしたが、そう簡単に外れないよう利史郎は作っていたつもりだ。すぐに諦め、苛立って言う。


「駄目だ。外れない。何なんだこれ。見えてないのか?」頷くエシルイネに、狼男は舌打ちしつつ外を指し示す。「まぁいい。逃げるのが先だ」


 そしてエシルイネの腕を取る。もう一人の男は、見る限りは普通の男のようだった。その彼は貨物車の扉から外の様子を伺い手招きをしている。


 利史郎は懐の拳銃を握り締めていた。狼男とまみえるのは初めてだが、レヘイサムの組織のナンバー2だとも言われている。走ればゼンマイ二輪すら振り切り、その毛並みは蝙蝠男と同じように硬く、並みの弾丸は弾き飛ばすという。相当に手強い相手だ。加えて三対一だ、見つかっては太刀打ちできない。


 そう考えていた所でエシルイネは立ち止まり、利史郎が隠れる荷物の方向に顔を向ける。


 感づかれている?


 目が見えていなくても、感覚だけである程度は悟れるのかもしれない。


 ならば、一か八か。


 利史郎は飛び出そうとしたが、そこでエシルイネは意外な事を言った。


「――少年探偵君は?」


 問われた狼男は忙しなく応じる。


「知るかよ。とっくに逃げたんじゃないか?」


 確実にエシルイネの感覚は利史郎を捕らえていた。それを裏付けるよう、彼女はあの恐ろしげな笑みを浮かべてみせる。


「へぇ、そう」


「いいから早く来い」


 しびれを切らしたらしい狼男は、エシルイネを引いて車両を出る。だがそこで彼女は一瞬振り返り、利史郎に向かって手招きをして見せた。


 三人の気配がなくなってようやく、利史郎は立ち上がる。


 ついてこい?


 そう言っているように見えた。しかし何故。


 ひょっとして彼女は、利史郎の提案――〈普通の人間になれる〉という物に、考えていた以上の魅力を感じているのかもしれない。だとすると利史郎も認識を改める必要がある。彼女は――あるいは怪人一般は――人を憎んでいると同時に、人の一生に相当の憧れを抱いているのだろうか。


 とにかく利史郎は警官たちの脈を改め、無事を確認してから車両から出る。残りの警官たちが控えていた隣の車両は、扉が鉄パイプで封じられていた。それを取り去った途端に牧野警部が飛び出てきて、唾を飛ばしながらわめき散らす。


「どうした、何があった!」


 一部始終を説明しながら、利史郎は鞄を探り、ハナに作って貰った装置を操作した。ハンドルを回しゼンマイを巻き、留め金を外す。その間にも牧野警部は悪態をつき、簡単にあしらわれた警官たちにハッパをかけていた。


「まったく役立たずな連中め! これだから高卒や士族を雇うのは反対なんだ!」


「それより不思議なのは、蝦夷からあれほど偽装して来たというのに、どうして簡単に見つかってしまったのか」


「そりゃあ――〈千里眼〉は見るだけじゃなく、何か情報を送れるのかもしれん」


 戸惑いつつ言う牧野警部に、かもしれませんね、と簡単に応じる。その手元を牧野警部は怪訝そうに覗き込んだ。


「どうした。唯一の手がかりを奪われたってのに、随分冷静だな。何だそりゃ」


「少し怪人に関する研究に進歩がありまして。これで彼らを追跡出来ます」


「追跡? おい待て、まさか最初から――逃がして泳がせようって腹だったのか?」


「何かあるにしても、帝都についてからだろうと思っていたんですが――」


 内部には〈黒い血〉を封じている。原理的にはフクロウ博士の作った腕輪と同じだが、こちらは僅かな動きも捉えられるよう液体の中に浮かせていた。方位磁石と似たような仕組みだ。どの程度の距離まで探知出来るかはわからなかったが、少なくとも今のところ、くるくる回ってから指し示された指針は、はっきりと西を向いていた。


 すぐに汽車を止めさせ、予め積み込んでおいたゼンマイ二輪をおろす。そこで牧野警部は当惑しながら言った。


「待てよ、俺らはどうしたらいい」


「何かわかったら連絡します」


 では、と頭を下げ、利史郎は二輪車のスロットルを開けた。


 三月の上旬とはいえ、奥羽はまだ冬だった。雪こそ残っていないが夜の冷気が肌を刺し、利史郎はマフラーで顔の半分を覆い、前方と探知機の針を見比べつつ走る。ガスマスクの二人組は、常に二輪車と一緒に目撃されている。今回もまたしばらく行くと道の上に細いタイヤのあとが見受けられるようになり、利史郎は僅かに速度を落とした。木々の向こう側に二つの明かりが見え隠れし始めると、ライトも消す。エシルイネの目が本当に利かないのか、本当に利史郎が追ってくるのを望んでいるのか、そのどちらにも確信がない。二町ほどの距離をあけて追跡を続けると、次第に空気が湿り潮の香りがし始めた。海だ。月明かりに照らし出されているのは百軒ほどの人家がある開けた港町で、数隻の漁船が石炭の煙を上げて停泊している。


 懐中時計を取り出し改める。午前四時。漁から戻ったところなのだろう、木製の岸壁では篝火が焚かれ、数十人の漁師たちが右往左往し、魚の入った樽や籠を手押し車で運び選別している。やがて港には問屋の類いも押し寄せてきて、瞬く間に大変な人混みが出来上がってしまった。


 エシルイネたち三人はゼンマイ二輪を乗り捨て、その人混みの中に紛れていく。所々で吹き上がる蒸気と黒煙で見失いかけそうになったが、追跡装置が役立った。矢印の指し示す方向に進んでいくと、フードを目深に被った三人は一隻の小さな漁船に乗り込もうとしていた。


 まだ石炭の煙は出ていない。それを確かめると利史郎は市場の方向にとって返し、事務所を見つけ綱元に頼み込み、電信を借りる。交換所宛てで川路探偵事務所を指定し、素早く頭の中で文章を組み上げて電信を叩く。そしてエシルイネたちが乗り込んだ船にとって返すと、煙突が黒煙を上げて出港しようとしていたところだった。利史郎は物陰から一目散に駆け、船縁を飛び越えて甲板に転がる。


 誰にも気づかれた様子はない。それを確かめてから利史郎は漁具の間に身を潜め、筵を被った。

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