4. 糸口
帝都の郊外、新宿近辺に広がる田畑はすっかり雪に埋まっていて、ちらほらとある木立の森は静けさに包まれている。その最奥にあるフクロウ博士の館もまた雪に包まれていて、警護、あるいは監視のために詰めている警官たちは寒そうに両手を摺り合わせていた。彼らは馬車から顔を覗かせる利史郎を見ると少し驚き、それでも必要な手続きを行ってから門を通す。
一体、何事だろう。様子が妙だ。
この一月で何かがあったのだろうが、ハナは引きつった笑みを浮かべるだけで話そうとしない。釈然としないまま玄関の扉を叩くと、現れたのは十二、三くらいの端正な顔をした少年だった。
一瞬、言葉を失う。それは相手も同じようで、当惑した様子で利史郎の顔を眺めている。
「――失礼、フクロウ博士は」
我に返って言うと、少年は困ったようにしながら額を掻く。
「私だよ」
「はい?」
「私がフクロウ博士だ」
何の話をしているのかわからなかった。
きっと頭の回路が妙な繋がり方をしている。ここのところまともな頭の使い方をしていなかったからだ。
利史郎はそう思って空を見上げ、現実を取り戻そうとした。しかし扉の奥から更に認識にない声がして、混乱に拍車がかかった。
「ちょっと! 寒いんだからさっさと閉めてよ!」
知里の声だ。しかし知里が、ここにいるはずがない。
僕は一体、どうしてしまったんだろう。
そう硬直している利史郎にため息を吐き、少年は二人を中に促した。帽子を取ってコートの雪を払いながら中に入ると、玄関ホールを改造した図書室には確かに知里がいて、相変わらずの不機嫌そうな目が利史郎に向けられた。
「知里さん。こんな所で何を」
ソファーに座り足を投げ出している彼女は、身体の上に開いていた洋書を閉じ、大きく欠伸をしてから煙草に火を付け、深く煙を吐き出し、それでようやく言葉を発した。
「呂宋に行ってたんじゃ?」
「え、えぇ。まぁ。今日戻りました。それで知里さんは――」
「〈黒女〉が生き返らないか、当分見張ってろってね。勝手に満州行ったからって、牧野さんの罰。ま、無期懲役みたいなもんよ」
利史郎にも責任がありなんとも言えずにいると、フクロウ博士と名乗る少年が利史郎に耳打ちした。
「何でもいいが、さっさと彼女を追い払ってもらえんかなぁ。これは君らとの契約に反する事項だぞ。私はただ静かに本を読んで暮らしたいだけ――」
「あっあー。それはどうかな。あんたはもう怪人じゃない。出て行くのはあんたの方じゃ?」
「怪人じゃない?」
言った利史郎に知里は眉を寄せ、ハナに向かって言う。
「言ってないの?」
「いやぁ、弟君は大変そうだから、これ以上大変にするのもなぁ、って」
「あの、誰でもいいので、教えてくれませんか。一体何があったんです」
押し黙って、誰も口を開こうとしない。それで最終的には、少年が怖ず怖ずと言った。
「あの鉱石のせいだ。恐らくな」
利史郎もすっかり忘れていたが、蝦夷で押収されたピッチブレンドと呼ばれる鉱石は、フクロウ博士の元に送られ調べられることになっていた。しかし博士は鉱石に触れた翌日から高熱を出し、意識不明になってしまった。
「そんな――どうして言ってくれなかったんです!」
「あんた、その時は上海に行ってた。胡散臭い貴族の発表を調べにね」
そして二日後、彼の身体に異常な変化が現れた。羽毛が抜け落ち、羽が腐り、かぎ爪が取れ、骨が変形し始める。一週間もすると今の少年の姿となり、更に二日で目が覚めた。
「聞いたことがない――そんな摩訶不思議なお話なんて」
まじまじと見つめられ、元フクロウ博士の少年は気まずそうに答えた。
「怪人が人間になる――事例がない訳ではないが、全て昔話の類いだ。恐らく確かな記録が残された事例としては、世界初だろう」
「それで、中身はフクロウ博士のままなのですか」顔を顰められ、慌てて付け加える。「いや、その、何と言っていいのかわからなくて。すいません。記憶というか、頭の中のお話で――」
「私は以前のままのような気がしてはいるが、どうだろうね。自分のことなので、良くわからんよ」
「時々、前みたいに首を回そうとして筋を違えてる」
知里に楽しげに言われ、少年はため息を吐く。
「慣れないよ、ヒトの身体というのは。空も飛べんし、鼻も夜目も利かなくなった。不都合極まりない」
少年の顔、声で、博士の口ぶりをする。非常に奇妙だった。
「いやでも、何でそんなことに?」
「知らんよ。謎を解くのはキミの仕事だろう? ただ――辛うじてあの鉱石からは、何かのエネルギーが放射されているのだけはわかった。恐らくそれがヒトの健康を害し、怪人には更に別の効果をももたらすのだろう。それだけ強力なエネルギー線で、木も鉄も透過する。辛うじて鉛とオリハルコンならば防ぐことが出来るようだが――」
「他の怪人に試したりは――」
「科学院の中には、そんなことを考えてるのもいるがね。まずは私がこれからどうなるか、もっと観察しようということになっている」
「それで――博士は本当に、全部ヒトになったのですか」
「こんな屈辱を味わったのは十年ぶり――君のお父さんに捕らえられた時以来だよ。見たこともない医者が次々とやってきては身体をいじくり回していく。いい加減にして貰いたいね。彼らに何かわかるとも思えんが、そもそも――」
彼はポケットに手を入れ、何かの装飾具を引っ張り出した。腕輪らしい。一般的なオリハルコン合金の黄金色で、一部は水晶のような物が繋がれている。ただその水晶は内部が刳り抜かれ、黒い液体のような物が詰まっていた。
「これは?」
差し出されたそれを受け取りながら尋ねると、博士は同じ物を知里に渡しながら言った。
「覚えているかね。〈黒い血〉は、私が近づくと激しく反応した。警察が捉えている怪人にも試してみたが、同じ動きをした。つまり〈黒い血〉が怪人に著しい反応を示すというのは、一般的な性質だと言える」
「ではこれは――怪人探知機ですか」
「あぁ。君たちの役に立つだろうと思い、作ってみた。そうだな、だいたい五十メートルほどの距離で微動しはじめる。それで今は?」博士は自らの手を腕輪に近づけてみせたが、何の反応もない。「このとおり。何かわからんが、私の中にあった怪人的な何かは、綺麗さっぱり消え去ってしまったらしい」
「いや、それは――なんと言ったらいいか」相変わらず言葉が見つからないながらも、利史郎は腕輪を手首に通し頭を下げる。「とにかく、いい物を作ってくださしました。ありがとうございます」
「一つだけ。どうやら〈黒い血〉は、オリハルコンで遮蔽されると怪人を探知出来なくなるらしい。そこだけ注意してくれ」そして少年は、もうこの話はしたくないというように両手を打ち合わせた。「それで? 私を検査しに来たのでなければ、今日は一体何用だね」
やはりどうにも、現実感がない。
それでも利史郎は無理に自分を取り戻し、言った。
「色々と考えが。まずは田中久江の現状を知りたくて」
途端に知里は表情を硬くし、ソファーから立ち上がって奥に促した。
利史郎が知るブレザーにロングスカート、編み上げのブーツという出で立ちとはうって変わって、暖かそうなセーターを着込み足にはスリッパを引っかけている。すっかりここの暮らしに馴染んでいるようだ。その彼女は洋館の暗い廊下を最奥に向かいつつ言う。
「で、まだ信じてるの? Dloopが科学者を暗殺してるのは、人類を守るためだなんて馬鹿げた話」
「僕は一度も信じてはいません。ただ、わからないだけです」
フン、と例によって鼻で笑い、結っていない髪を掻き上げる。
「ま、それがホントなら。Dloopと〈帝国〉って、よく似てるわね。頼んでもいないのに親代わり気取ってる。余計なお世話だっての」
利史郎は本気で感心した。
「相変わらず知里さんは本質を突くのが上手いですね。確かにその両者はよく似ています。ところで未だにあの時のことでわからない点が、もう一つあります。田中久江は知里さんに言っていましたね。『もう一人はどうした』。あれは一体――」
「あんたがわからないのに、私にわかる訳がないじゃない」
「いや、そんなことは――あなたは僕がわからなかったことを、たくさん指摘している」
「いい? エシルイネが言ってた。Dloopが人と会おうとしないのは、そもそも言葉が通じないからなんだって。それは連中の力で翻訳することも出来るけど、その価値も感じないほど見下してもいる。でも、あんたは連中の言ってることが理解出来る。そういう特殊な力がある。だから会ったって」
「――それは初耳だ」
「そう? 偉大な知性を持つ異星人に認められて嬉しい?」
答えに迷っている間に、知里は一際重そうな扉の前に立つ。そして小さな覗き窓から中を改め、異常のないのを確かめてから鍵を取り出し、二つの錠を開く。最後に脇のレバーを倒すと圧力管からの蒸気が送り込まれ、歯車によって金属の板がせり上がっていった。
「ここは苦手だよ」
元フクロウ博士は呟く。無害どころか有益だと認められるまでの数年間、彼が閉じ込められていた一室だ。
見た目は大きめの洋室だったが、特別に強固に作られてる。壁にはオリハルコン合金が埋め込まれていて、暖炉はなく圧力管からの暖房に限られている。明かりも火が恐れられて、高価な電球が使われていた。
その中央にある台の上に、〈黒女〉――田中久江が横たえられていた。彼女は裸のまま分厚いガラス製の棺桶に納められ、手首足首は鎖で拘束されている。池上象二郎に撃たれた額の穴以外はどうにか見た目が整えられているが、内部は粉々になっていると言っていい。至る所の骨が折れ、頭蓋は割れ、脳の大半が損なわれていた。利史郎の知る田中久江は青白い肌をしていたが、それも今は所々はどす黒く染まっている。問題の〈黒い血〉に関しては、彼女が地面に叩きつけられた時に大半が流れきってしまったらしい。ガラスの棺にしたたっているのはごく僅かで、臭いは殆どない。
それでも警察は彼女の復活を恐れ、こうした場所に隔離している。
「あれから一月。何か変化はありましたか」
尋ねた利史郎に、フクロウ博士は首を振った。
「変わりないね。逆に腐る気配もない」
「何で今更?」
腕組みしながら問う知里に、利史郎は田中久江の青ざめた顔を覗き込みながら言った。
「山羽美千代さんが〈黒い血〉を分解するために作った液体。あれの分析を博士にお願いしていましたが、何かわかりましたか」
「あぁ、あれか。よくわからんが、強いて言えば下剤の一種のようだね」
「何を何処まで調べましたか」
「臭い、あと幾つかの分析を行って、実験用のマウスにも与えてみた。明らかに特定できた数種類の生薬もあって――」
「見せてください」
フクロウ博士だけでなく、全員が困惑している様子だった。しかし言われるがままにフクロウ博士は先導し、彼の実験室へと向かう。
そこはフラスコやビーカー、得体の知れない液体や鉱石、植物といったものが並んだ部屋だった。全体は元のフクロウ博士の体格に併せて広々としていて、壁一面にしつらえられた棚の高いところまで瓶に入った試料や本が詰まっている。博士は一同を一つの机の前に促し、そこに並んだ品々を説明した。
「知っての通り、私は君たち人類よりも嗅覚が優れているらしい――いや、元の私だ。今は君らと似たようなもんだが、あの液体には明らかに、トウキ、シャクヤク、ダイオウなどの漢方生薬が含まれていた。それと――液体を煮沸してみた結果、アルカリ分の高い物が現れた。石灰か灰汁か、恐らくそういった代物だろう。そしてマウスに与えてみた結果、激しく嘔吐し下痢をした。ただそれも一時的なもので、特に健康に影響はないようだ」
なるほど、と考え込んだ利史郎に、一同は注目する。まだ考えは纏まっていなかったが、彼らに答えるために思い浮かんだ言葉を発してみた。
「つまり僕は、こう思ったんです。この液体が何か、はさておき、どうしてこの液体が〈黒い血〉に効果があると山羽美千代さんは知っていたのか。そこにDloopの正体に繋がる鍵があるはずだと」応じる者はいない。利史郎は更に、言葉を探った。「僕らが知る限り、美千代さんが〈黒い血〉に遭遇したのは、あの横浜の地下室が唯一の機会だったはずです。得体の知れない女に襲われ、仲間を殺され、必死の抵抗で一矢報いて――そうして逃げた。その間、彼女は〈黒い血〉の試料を確保する余裕などあったのでしょうか。そしてそれから二週間ほど、逃避行を続ける間に――彼女は対抗薬を発見した。可能でしょうか」
「美千代は田中久江に遭遇する前から、〈黒い血〉の存在を知っていた。そう言いたいの?」
さすがに知里は、鋭く意図を探る。しかし利史郎は未だ、わからなかった。
「どうでしょう。しかし、そこに何かがあるように思えてならないんですが」
利史郎は腕を組み、今までに知り得た山羽美千代の足跡を辿る。
何処かに何か、彼女が簡単に対抗薬を用意出来た理由があるはずだ。
あるいは、レヘイサムだろうか。彼はDloopについて、相当な何かを知っている様子だった。彼から〈黒い血〉の性質を聞かされていたのだとしたら――
いや、違う。それは彼のやり方ではない。レヘイサムは人に直接答えは教えず、自ら探らせるように仕向ける。それこそが物事を深く理解するのに役立つと信じているのだ。だから山羽美千代に何かを示唆していたとしても、恐らく彼女は短時間で答えに辿り着くことはできなかったはず。
やはり山羽美千代は、自力でDloopの謎に辿り着いた。そう考えるのが妥当のように思える。しかし彼女は探偵でも官司でもない。五帝国によって隠滅されたDloopの記録を得られたとは思えず、つまり彼女は世に明らかにされている、自分で集められる情報から〈黒い血〉に辿り着いたはず。
しかし利史郎には、それが出来ていない。つまり彼女は、利史郎が知らない、あるいは知っていてもDloopとの繋がりを見いだせていない何かを手がかりにした。そういう事だろうか。
「博士、Dloopについて知っていること、全てを教えてください」
そう、博士が手に入れられた記録であれば、美千代も接触できた可能性が高い。
フクロウ博士は目をぱちりとさせた。そして利史郎が本気だというのを悟ると、一同に周囲の椅子を促して自分は正面に立った。
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