2. 探偵の迷走

 帝都にも珍しく雪が降っていた。大粒の雪だ。灰色の空からゴミのように舞い降りてくるそれは、街の至る所で吹き上げられている蒸気に煽られ、渦を巻く。そうして首筋から入り込んできた一粒の雪に川路ハナは身を震わせ、すぐさまマフラーをきつく縛って足を急がせる。


 新橋の駅前は、相変わらず人で混み合っていた。湾岸の工業地帯で働く汚らしい人足、商店で働く忙しない丁稚、偉そうに身をそらせて歩く役人などの間をすり抜け、比較的新しい雑居ビルに足を踏み入れる。そして三階の扉をノックしたが、現れたのは高そうなテンのマフラーを巻いているミッチーだった。


「帰ってる?」


「ええ。でも――」


 渋る彼を押しのけて中に入る。また何かしらの資料が増えたようだ。机や棚では収まらず、床にまで積み上げられている。それに遮られて視界が効かず、ハナは背伸びしながら尋ねた。


「どこ?」


 ミッチーは困り顔をしながら顎で右手を指す。利史郎は書類の山の中に座り込み、集中して何かを読み込んでいた。そして何かを発見すると、慌てて藁半紙に書き付けて目の前の壁にピンで貼る。そして別の資料のピンと糸で結わえ付け――そうして出来上がっている〈狂人の壁〉は壁一面を覆っていて、まさに狂人の思考を表しているかのようにしか見えない。


 参ったな、と思いながら大きな壁を見つめていると、利史郎は気配に気づき振り返って笑顔を向けてきた。顔は青白く、目の下が赤みがかっている。


「あぁ姉さん、いらっしゃい。呂宋は空振りでしたよ。もの凄い計算が出来る電気回路、っていうのは大嘘でした。中身は従来の機械装置で、それを蒸気機関で駆動しているだけ――」


「だから言ったのに。記事からして胡散臭いって」


「そうは言っても、Dloopの使徒が現れる可能性がある以上、確かめないわけにはいきません。それより道すがら資料を整理していたんですが、凄い発見がありましたよ。歴史上西欧の衰退は民族主義の勃興にあるとされていましたが、どうやらこれもDloopの影響としか思えなくなってきました。ニコラス・オットーというドイツ人を知っていますか? 彼はケルンの商人でしたが、初期の内燃機関に目を付け高性能なガス機関を発明していたようなんです。しかしそれをパリ万博で発表する直前に急死。もし彼が生きていたなら――」


 満州から帰ってきてから、ずっとこの調子だ。新しい発明があったと聞けばすぐさま飛んで真偽を確認し、あとは調べ物、調べ物、調べ物。新しい依頼は一切受けようとしない。


 利史郎がこうなってしまったのは何故なのか? それは田中久江と交わした会話に理由があるのだろう。


「Dloopは人類を守るために、発明者狩りをしていた。どうもそういう話しらしいけど――それってつまり――」


 気を失った利史郎を見守るハナに、知里は言っていた。それだけだと「どういうこと?」と首をかしげてしまう突飛さだが、少し前に利史郎と話した事を覚えていたハナは、辛うじて理解が及ぶ。


「ははぁ。愚かな人類が余計な知恵を付けて身を滅ぼさないようにって、エデンの園の神様代わりをしてると」


「やっぱり、そういうことよね」知里は厳重に梱包された棺桶が運ばれていくのを見つめつつ、鼻を鳴らした。「――どうだか。胡散臭い」


 知里らしい台詞だ。彼女は容易に何者をも信じない。ハナにしても、そうやって人類の発展を阻害するのが本当に人類のためになるのか、そんなことをしてDloopには何かメリットがあるのか、あの得体の知れない異星人は善意の塊だとでもいうのか、などなど、すぐさま膨大な疑問反問が浮かんでくる。


 結果知里にしてもハナにしても、「胡散臭い」とする。けれども利史郎はその疑問を、相当に深刻に受け止めてしまっているようだった。


 田中久江が言っていたことは、本当か?


 すっかり全ての行動が、その疑問に捕らわれている。


 加えて問題なのは、彼が救えなかった山羽美千代から、遺言のような真逆の依頼を受け取ってしまった事だ。


『あなたが代わりに、それをやって』


 山羽美千代はDloopに父親が殺されたと信じ――恐らく、それは事実なのだろう――そしてDloopの正体を世に暴こうとしたが、力及ばず亡くなった。それ自体は利史郎の責任ではないにせよ、彼女の苦難の道のりを辿った利史郎にしてみれば、感情移入してしまうのも当然だろう。山羽美千代はきっと、Dloopが発明者狩りをしていた理由も知っていたはずだ。それでも彼女はDloopを、たった一人で止めようとした。


 つまりこういうことだ。


 Dloop曰く、我々は人類のために発明者狩りをしている。


 山羽美千代曰く、Dloopは単なる殺人者だ。


 板挟みになり、川路利史郎は混乱している。なにをどうしていいのかもわからないのだろう。最初は田中久江の過去の行動を探っていたが、全く何も掴めなかった。次いで始めたのが、新しい発明があったという記事がないか新聞を改めることと、Dloopに暗殺されたと思われる人物の捜索だ。結果として先ほど言ったような数人の科学者、教師、貴族といった人物に目星を付けていたが、調査範囲はDloopが来訪してからの二百年に及ぶ。数だって膨大なはずで、終わりがない。新発明だって全てが詐欺だった。とても何か意味のある捜査だとは思えない。


 はてさて、どうしたものか。


 ハナはこれまで散々に他人に心配されてきた口で、多少の問題は生きていればどうにかなると考えていた。けれどもこの状態の利史郎を眺めていても、どうにもなりそうもない。加えて一番の問題は――常にハナの心配をしてくれる利史郎のような存在が、彼にはいないのだ。彼は優秀な探偵で、優秀な人間だ。だからその彼が抱えてしまった問題は常人には巨大すぎて――誰も手助けできないし、出来るとも思えず、ミッチーのようにただ側にいて眺めている事しかできない。


 だからハナは彼に更なる重荷を負わせたくなかったが、あるいは新しい課題がこの状況を抜け出す鍵になるかもしれないとも思える。


「びっくりだよ。父さんから電報が来たんだよ。そんなこと一度もなかったのに。それで何かと思ったら、弟君に手紙を送ったのに返事がないから、様子を見に行けって」


 再び新しい資料にとりかかりかけた利史郎は動きを止め、気の抜けた苦笑いをしながら頭を掻いた。


「そういえば届いてましたね。後で見ようと思って、すっかり忘れてました」


「何か問題らしいよ」


 視線の先には手紙の山がある。だが彼はそれを取ろうとせず、言った。


「何の問題でしょうね」


「知らない。さっさと読んだら?」


 それでも身動きせず、利史郎は虚ろに言う。


「きっとレヘイサムの事です。彼は大英帝国に手を貸し、CSAを翻弄し続けている。父さんはそれをどうにかして、五帝国の均衡を取り戻したいのでしょう」


「なら――」


「僕に何が出来るんです。わかったことは全て牧野警部に報告済みです」


「Dloopのこと以外は、でしょ?」


 そう聞いている。知里が愚痴っていた。


「確信がないから誰にも言うなって。ま、傍から聞いてた私には理解不能だったし? そうしたくなるのも無理はないけど。面倒な弟さんね。真面目すぎ」


 それはハナに対しても同じだった。やはりこの日も黙り込んでしまい、ハナは言葉を探す。


「やっぱり、あのことは牧野さんとか、じゃなきゃ父さんとかに、相談した方がいいんじゃないかな? 一人で抱えてたって意味ないよ」


「いや、いや」即答し、利史郎は何度も頭を振った。「それは駄目です。絶対に。僕が正しくDloopの意図を理解したのか、本当にわからないんです。その怪しい解釈を元に〈あの〉Dloopとの間に混乱が生じたなら――どうなると思いますが」


「――どうなるだろね?」


「僕もわかりません。それが怖いんです」


 確かに、怖くはある。〈あの〉得体の知れない異星人は圧倒的な科学技術を持っているとはいえ、人類に干渉しないから放置されていたのだ。もし彼らが自分たちの行く末を制御していると知れたら、世界はどうなるだろう。


 困った物だな、と考え込むハナに、利史郎は焦ったように続ける。


「とくにかく僕は彼女が何を言ったのか、わかるような気がしただけで――確信が持てないんです。それを得る前に彼女は撃たれ、塔の上から落ちて粉々になって――未だに生き返る気配はない。だから僕の理解は、全くの勘違いかもしれないんです」


「だからって、今のようなことを続けていても意味があるとは思えないけど」


「意味はあります。僕らは池上象二郎氏を救った。また似たような事があっても――」


「それはDloopに反抗する事になるんだけど、それはいいの?」


 利史郎はまた黙り込む。しかし数秒で、彼は別の論理を発見した。


「とにかく僕は、納得したい。田中久江が言っていたことが――そう言っていたように思えたことが、本当にそうなのか。そのためには、彼らの行動を追う以外には――」


「じゃあさ、いっそのことDloopに聞けばいいんじゃない? 直接さ」意味がわからない、というように目を丸くする利史郎に、ハナは続ける。「いやだからさ、田中久江は――Dloopは、弟君に何かを伝えようとしていたんでしょ? なら会いに行って話してみたら?」


 彼は途端に哄笑した。


「馬鹿を言わないでください姉さん。そんな事が出来るはずがない」


「なんで? 前は会ってくれたんでしょ?」


「そういう意味じゃない。それはつまり――」少し言葉を探して宙を見上げ、結局頭を振った。「無理です。姉さんに理解出来るとは思えない」


「なんでよ。試してみてよ」


「いえ、姉さんの問題じゃないんです。僕の――それは仮定の上に仮定を重ねすぎていて、結果全体としては満足されているとしても、それが〈妥当な解釈だ〉ということを説明できる気がしないんです。姉さんに対してでさえそれなのに、彼らに会ったら――僕は確実に飲み込まれてしまう」


 どういう意味だろう、と首をかしげるハナに、苦笑いする。


「ほら、この程度の事でも、僕は満足に説明できない。Dloopと話すというのは、そういうことなんです」


 うぅむ、とハナは唸る。Dloopのことに触れると、必ずこうした理解が難しい言葉を吐く。


 だがハナは、こう思うのだ。


「面倒な説明がいる証明って、だいたい回り道してるだけなんだよね。複雑な数式とかもさ、ほどいてくと簡単なものになるの。たいてい。つまり弟君が困ってることも、なんかものすごい簡単な方法で説明できる方法があると思うんだよね。何かしらさ」


「それが出来るほど僕は賢くない」


 虚ろに笑う。


 確かに利史郎は天才少年探偵などと呼ばれてはいるが、実際の所は秀才型で、閃きより論理の人間だ。膨大な情報を目にし、記憶し、その全てに気を配り、整理統合することが出来る。


 だがその情報が莫大で、彼の優れた脳でも持て余す物だったら――?


 それが今の状況だ。


 ようやくハナは気づきを得る。だとすれば、解決方法は簡単だ。


「アレだね、発想の転換が必要だね、それ」


「――姉さん?」


「何かやってて上手くいかないときはね、考え続けてたって駄目なの。一回離れて、何か見落としがないか、もっと簡単な方法がないかって、見渡さないと駄目なの」


「それを僕はやっているつもりですが――」


「ちがうちがう。全然近すぎ。もっと離れて、何なら一回忘れないと。よし、私が弟君に、閃きの方法を教えてしんぜよう」


 コートハンガーから蒼い帽子とマントを取って投げつける。そして何やかやと渋る利史郎を急かして、ハナは彼を外に連れ出した。

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