12. 使徒の言葉
「池上はあの扉から奥に」
知里は指し示したが、踊る人々の影となってよく見えない。タキシードにドレスの貴族や富豪たちをかき分け、奥へ、奥へと進む。管弦楽は明るさと希望を与えようと作り笑顔で宙を泳いでいたが、利史郎の胸には一切響かなかった。ただただ見え隠れする扉に向かうことだけを考え、ようやく辿り着いた両開きの扉を押し、身体を滑り込ませる。そこは舞踏会場を取り囲む回廊で、奥の方では女中が忙しなく料理を運んでいたが、池上の姿は見えない。女性を連れて人目を避けて向かう先とすれば、曲線を描いている階段を上にだろう。
見上げながら階段を駆け上がっていくと、手すりに手をかける女が見えた。その影は通路に向かって離れていく。懐遠楼の三階から上に向かうためには、外壁沿いの階段から中央側の物に移らなければならない。胸が痛み心臓が鼓動する度に背中の火傷が悲鳴を上げたが、次第に利史郎はそれを無視する方法を学んでいた。一方の知里は遂に癇癪を起こし、踵の高い履物を脱ぎ捨て裸足で駆ける。そして客室の集まる三階に辿り着くと、そこでは二人の衛兵が口から泡を吹き倒れて痙攣していた。テラスに通じるガラス扉が開け放たれ、風に舞い上がった雪が流れ込んでいる。そしてうっすらと絨毯に積もった雪の上には、小さな足跡が刻まれていた。
Dloopの使徒、〈黒女〉だ。他に誰がいるだろう。
足跡は塔の中央部に続き、一瞬、黒い外套が翻るのが垣間見える。知里は太腿ホルスターから銃を抜き、利史郎も銃を手に取る。そして足音を殺しながら進むと、そこは塔の最上階まで広がる壮大な吹き抜けの階段室だった。そのほぼ天辺に、池上らしき男の姿と、ドレスの裾を上げて奇声を上げながらついていく女性の影が見えた。そしてそれを追う黒い影が、塔の中程まで達している。
その時、風に煽られて背後の扉が音を立てて閉じた。二人が咄嗟に身を隠すと同時に、黒い影が手すりから下を見下ろす。
黒いフードの下にあるのは、まさに死人の顔だった。灰色に染まり、瞳に光はなく、ただただ何が起きたのかと目を向けただけ。そして柱の影に隠れる二人の存在には気づかないまま、再び階段を登り始めた。
二人は壁際に身を寄せ、足音の出ないギリギリの速度で駆け上がる。そして最上階に達し池上たちが消えた方向に目を向けると、そこは全てがテラス回廊となっている展望台だった。階段室に入り込んでいる雪の上には、三つの足跡が残されている。利史郎が先に立ち、壁際から外を覗き込む。
池上と側室は追い詰められていた。仮面は既に脱ぎ捨てられていて、恐怖とも困惑ともつかない表情で手すりを背にしている。毛皮を羽織っていた側室も似たような様子で、ただ呆然と目の前の女を見つめていた。
田中久江はフードをおろし、その小さな頭を露わにしていた。武器も何も手にしていない。それだけに池上は、彼女がどれほどの脅威なのか図れずにいるのだろう。
「あなたたちには、二つの選択肢しかない。私と一緒に来るか、ここで死ぬか」
彼女の発した言葉に、利史郎の胸は途端に締め付けられた。蝋管で聞いたものと全く同じ、抑揚の薄い、幼い声。
知里が肩を叩いた。振り向く利史郎に、まず自分を指し示し、次いで三人がいる方向とは逆側を指す。
その言動とは裏腹に、彼女の本質は常に沈着冷静。本当に利史郎とは真逆だ。挟み撃ちをしようというのだろう。利史郎が頷くと、彼女は銃を構え腰を落とし、裸足のまま雪の上に駆けだしていく。その頃には池上は我に返り、緊張から来る薄ら笑いで田中久江に応じていた。
「――なんだって? 君は誰だ。王の差し金か?」
そこで側室は弾かれたように言った。
「べ、別に何もしてないわ! ただここからの眺めは格別だから、見せて貰おうと――」
その瞬間、田中久江は口を窄め、唾を側室に向けて吐き出した。
あれが、それか。
思ったが、利史郎は動けなかった。黒い唾。〈黒い血〉だ。側室は驚いて頬に付いたものを拭こうとしたが、その黒い液体は瞬時に肌の奥に吸い込まれていく。効果は即座に現れた。側室は悲鳴を上げながら膝を突き、胸を掻く。驚き見つめる池上と、相変わらず表情を変えない田中久江。
その向こう側に驚愕した知里の顔が見え、ようやく利史郎は我に返った。
「そこまでです、田中久江さん!」
右手に銃を、左手に薬瓶を握りしめ飛び出した。知里もすぐに姿を現し、銃口を田中久江の頭に向ける。
彼女はただ、それを興味なさげに見つめるだけ。一方の池上は混乱し何事かを叫びながら、痙攣し始めた側室を抱え起こそうとする。
田中久江は、不用意には動かない。
利史郎はそれを信じ、一歩一歩、側室の元へと向かう。そして彼女の側に膝を突き、銃を田中久江に向けたまま、口で瓶のコルクを抜く。
「少し飲ませてください」
言って池上に差し出す。彼はそれを受け取ったものの、混乱し何の薬だとか何者だとかわめき続ける。
「いいから飲ませて!」
押し込むと、池上は身を震わせ言われたとおりにした。液体を僅かに側室の口に流し込むと、途端に痙攣が激しくなる。
「何を飲ませた!」
焦って池上が叫んだとき、側室は口から大量の黒い液体を吐き出した。そして次第に全身の硬直が解け、ぐったりと池上に身体を預けるようになる。
「どうです」
「どう? い、いや、落ち着いたようには見えるが」
効いてなければ、とうに死んでいるはずだ。利史郎は薬品を取り戻し、顎で階段室を指す。
「行って」
「え?」
「彼女を連れて、行くんです」
利史郎は常に、自分を池上と田中久江の間に置き続けた。そしてようやく二人の姿が見えなくなると、大きく息を吐いて言った。
「田中久江さん。大人しく、これを飲んでください」
瓶を差し出す。しかし彼女は目もくれず、身動き一つしないまま真っ青な唇を動かした。
「君は、何もわかってない」
「わかる必要、ある?」この期に及んでも挑発的な口調で知里は言う。「いいから、さっさと飲むのよ」
田中久江は、知里に顔を向けた。そして不思議そうに首をかしげる。
「もう一人はどうした」
一体、何のことだ。
利史郎は当惑した。一方の知里は途端に唇を噛みしめ、銃を握り直す。
「何のこと。死体の時でも、目は見えてた?」
「不要だ」
「不要? 何が」
答えず、田中久江は利史郎に目を戻した。
「これは無意味だ」
何故?
そう問いを発しかけ、利史郎は気づいた。
この物言いは記憶にある。Dloopの話法だ。
「――アダル大使? それとも別のDloopですか」
慎重に尋ねると、彼女はあの、音を立てた。
Dloop、Dloop。胃の奥底から、黒い粘液が泡を立てこみ上げてくるような音。
「彼は処置しなければならない」
彼。池上象二郎の事で間違いない。利史郎はあの暗い部屋での会話を思い出し、Dloopの話法を再現させようとする。
しかし、止めた。もはや彼らに自分を併せることに、何の意味も感じなかった。
「いい加減にしてください。僕らはあなたたちの奴隷でも、僕(しもべ)でもない。あなたたちが何のためにこんなことを続けていたのかだって、知ったことじゃない。やってはいけないことなんです。だから、いいから、すぐにこの薬を――」
「知るべきだ」
断言され、思わず薬瓶を強く握りしめる。
「何故です。今まで隠れて散々に殺してきたというのに、どうして今更――」
「可能だからだ」
「知れば、僕があなた方の味方になるとでも?」
答えはない。つまり〈彼女はそれを、知っているのだ〉。
唐突に悪寒がした。
『知るべきだ』
あらゆる記憶、あらゆる情報。それらが蓄えられた脳に、ただ一滴したたり落ちた言葉。だがそれは巨大な波紋を生み出し、言葉と言葉を繋ぎ、ある一つの明確な光景を作り出していく。
信じられない、まさに信じられない光景だった。それは利史郎が想像もしていなかった姿、五帝国に支配された世界の本当の仕組み、構造だ。これまで考えてもみなかったその光景に利史郎は圧倒され、全身が痺れた。
「あぁ、まさか」気が抜け、瓶を取り落としそうになる。慌てて意識を立て直し、指に力を込めた。「しかしそれは――いや、どうしてそんな。それは僕らの問題だ」
「君たちは未熟だ」
「それは――しかし――」
「全てが、必要から為される」
「何の話をしているの!」
知里が叫んだ。利史郎もわからない。奇妙な感覚だった。そこには言葉ではなく、意味だけがあった。とても言葉への翻訳が追いつかない。だから利史郎は知里に説明することも、自分自身で咀嚼することも出来なかった。
情報量が多すぎる。これを理解し素早く判断することなど、不可能だ。
では考えるだけ無駄か? 彼――彼女の言うことに耳を貸す必要はない?
いや、そうは思えない。彼らは重要な事を示唆し続けている。とてもこのままでは――
その時、一発の銃声が鳴り響いた。瞬きした瞬間、田中久江の灰色の額に黒々とした穴が穿たれる。吹き出た黒い粘液は猛烈な悪臭を放ち、途端に利史郎を呼吸困難にさせた。
一体何が。
一瞬、知里が辛抱しきれず撃ったのかと思った。しかし彼女も混乱し口を半開きにしている。そして彼女の視線が利史郎の背後に向けられたのに気づき振り向くと、そこでは硝煙の立ち上る拳銃を握りしめた池上象二郎が、仁王立ちしていた。
「――何てことを」
無意識に呟きつつ目を戻すと、田中久江はゆらゆらと身を揺らし、手すりに倒れ、塔の上から姿を消した。
利史郎と知里は、すぐさま駆け寄り塔の下を見下ろす。既に石畳の上には、一面に黒い液体が飛び散っていた。そしてその中心にあったのは、とても生き返ることなど不可能だろうと思われるほど歪んだ、田中久江の身体。
「彼女と、何の話をしてたの」
呆然としつつ尋ねた知里に、利史郎もまた現実に置いて行かれた奇妙な感覚を抱きつつ、答える。
「彼らは、僕らを――人類を守っているのだと。そう、言っていました」
これもまた、未だに現実味がない。目が回り、手すりを強く掴む。だがその煉瓦さえも虚像のような気がして、全てが曖昧になり、ついに利史郎は背後に倒れ込んだ。
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