11. 或る令嬢と血

 私立探偵、と山羽美千代は問い返した。柱に手を付き、立ち上がろうとする。だが途端に激しく咳き込み、利史郎は慌てて脇を支える。彼女の身体は驚くほど熱く、冷たかった。表面は確かに冷え切っているというのに、奥の方は燃えるように熱い。


「一体何が――」


 尋ねかけたが、美千代は無理に息を飲んで利史郎を見据えた。


「あの有名な少年探偵――? お爺さまの、差し金ね」


 嫌そうな素振りに負け、彼女の身体から手を離し両手を掲げた。


「えぇ――ですがそれだけでは――僕は何が起きているか、概ね理解しているつもりです。貴方がお父上の死の原因を探っていたこと。そして未知の〈機関〉を作り出し、レヘイサムと取引をしたこと。そしてここには――田中久江を捕らえるために来たのだということ。彼女がDloopの命を受け、科学者を暗殺し続けていることを証明するためです」


 美千代はその大きな瞳で、まじまじと利史郎を見つめた。濃いアイシャドウが汗で流れ、黒い筋を作る。やがて彼女は、酷く疲れたように言った。


「そう。それで?」


 それで?


 問われて初めて、利史郎は自分が何をしているのか、何をしようとしているのか、全くわからないことに気づいた。彼女を――山羽美千代と出会うことしか、考えていなかったのだ。


 それで? 目的は叶った。それで僕は、何をしようとしているのか?


「何でしょう。何も考えていませんでした」あまりの馬鹿馬鹿しさに、利史郎は正直に言いながら苦笑いした。「想像以上に異常な事件で――あまりにも色々な事がありすぎて――とにかく貴方を見つけなければ――それしか考えられなくなっていました」


 その答えには、さすがの山羽美千代も当惑したらしかった。


「そう。それは良かったわね。それじゃあ」


 言ってよろよろと立ち上がり、手を壁に当てて去ろうとする。だが再び激しく咳き込んだかと思うと、口に当てていた手を凝視した。鮮血が飛び散っている。気が遠くなったのか倒れそうになり、すぐさま利史郎は彼女を支えて左右を見渡す。予めこの会場の構造は次官から聞いていた。脇の通路には歓談室があるはずだ。


 プールテーブルが置かれている歓談室は暖炉に火が入っていて、会場よりは暖かかった。息も絶え絶えに喘ぐ美千代をソファーに横たえ、すぐにとって返そうとする。


「すぐに医者を――」


「待って」


 美千代は言って、血の付いた右手で利史郎の手首を掴んだ。


 掴んだというより、懸命の力で添えたというのがいい所だった。もはは力も残っていないらしい。


 一体どうしてこんなことに? どうすればいい?


 わからないまま、膝を突いて美千代の顔を覗き込む。すると彼女は懸命に息をして、ようやく言葉を紡ぎ出した。


「あなた、私の事を知ってる――そう言ったわね」


「全てじゃありません。貴方には聞きたいことが山ほど――」


 痩せ細った人差し指を利史郎の唇に当て、黙らせる。


「なら、私がどうしてそれをしようと〈していた〉のか、わかるのね?」


 相変わらず、些細なことに気づく。彼女は過去形を使った。


「〈していた〉? どういうことです。貴方の身体には一体――」


 血の滲んだ唇を歪め、苦笑いした。


「伊集院さんはピッチブレンドの精製法を必死に隠してた。毒性が強すぎるからだと言っていたけど、私は成果を独り占めしたいだけだと思ってた。それで結局は自分で製法を探り当てたんだけど――まさか本当に身体に悪い物だったなんて」


「伊集院――黒薔薇会の化学者ですね。昨年、出雲で失踪した。つまり貴方の作った〈機関〉は、燃料に毒を使っているのですか」


「えぇ――多分、そういうこと――」咳き込み、またハンカチに喀血した。「でも今更。私はもう無理。ねぇ、まだ聞いたことに答えて貰ってないわよ? 探偵さん――私がどうしてこれをしようとしていたのか、わかるの?」


「それは――山羽一郎さんの死の原因を探るうちに、それがDloopの仕業と気づき、彼らのしていることを暴こうとした――」だがこんな推理は、上辺だけだ。「えぇ。正直なところ、理解出来ていません。それを貴方に聞きたかった。どうして貴方はこれほどの危険を冒し――そして今になって知りましたが、命を賭してまで――これをしようとしたのか。何故です」


 美千代は笑顔だった。疲れてはいたが、そこには確かに――目的があった。


「そうね――ねぇ少年探偵さん。貴方はどうして、探偵をしてるの?」


 またそれか。


 唐突に苛立ちに襲われる。利史郎にとってこの問いは、悪夢のようになっていた。


「わかりません。どうしてこの事件に関わる誰も彼も、それを聞いてくるんですか。さすがにウンザリだ。僕の仕事が、あなたたちとどういう関係が――」


「だってそれが、私がこれをしようとした理由だもの。つまり貴方という存在は、本当に貴方なのか――誰かに、何かに操られて、それが自分だと――思い込んでいるだけなんじゃないか――そういうこと。例えば両親。例えば家名。例えば帝国。そして例えば――Dloopに」


 愕然として、利史郎は美千代の肩を捉えた。


「僕に自由意志が、ないと言いたいんですか」


「私が知るわけないじゃない。少なくとも私は父さんがしようとしていた事から――そういう事だったんだろうな、って――自分が完全に自分だけであることなんて、出来るはずがない。必ず何かに束縛を受ける。でもそれを理解しているか――知った上で何を選択するか――それはとても重要なことじゃないかしら。でも〈帝国〉というのは――五帝国体制は――誰も彼も、何も知らずに、ただただ潮流に乗って生きていける――世界は、そういう物だということになっている。子は親の仕事を継ぎ、孫は子の仕事を継ぎ――〈自分が何者で、何をすべきか?〉なんてことは、考えずに済むような世界。そう、それは全て、安定のため」


「――しかし安定は、停滞とも繋がる」


「そうよ!」


 力を振り絞るようにして言った美千代に、まさかと思いつつ尋ねる。


「五帝国体制を作ったのはDloopだ。彼らの目的は人類の停滞ではないかと思ってはいましたが――やはり、そういうことなんですか。一体何のために。彼らの生存のためなんですか」


「知らない。でも私は、異星人の彼らに、そんなことをする権利はない。そう思った。ましてや父さんを殺していい理由なんて――」


 次第に美千代の声は弱々しくなっていた。彼女が震える右手を差し出し、利史郎は自然とそれを取る。


「いいわ。お願い。私はもう無理。あなたが代わりに、それをやって」


 しかし僕は――


 そう、言葉がでかかる。しかし言えず、ただ頷く。すると美千代はドレスの裾に左手を伸ばし、腿に結いつけていた瓶を取る。透明な液体が入った薬瓶だ。


 彼女はそれを利史郎に握らせつつ、言う。


「田中久江は、〈黒い血〉を吐く。それで彼女は石川さんを殺した」


「やはり――あれは何なのですか」


「私にもよくわからない。多分あれは生き物で――ヒトの身体に入り込んで、発作を起こさせたり、病気を移したり出来るんだと思う」


「そんな彼女を、どうやって止めるつもりだったのですか。だいたい彼女は、貴方に撃たれても生き返った」


「でもこの薬は、あの黒い血を分解出来るはず――少しでいい、飲ませれば――」


 まさか、そんなことが。そんなことが可能なのか。


 利史郎は瓶を改めつつ言った。


「確かに〈黒い血〉は、Dloopから彼女に授けられた力である可能性が高い。だからそれを分解してしまえば、彼女はただの人に戻るかも――素晴らしい。やはり貴方は天才――」


 興奮に包まれながら、山羽美千代に目を戻す。


 しかしその時には既に、彼女は息絶えていた。


 全てのことが唐突すぎて、感情も、理性も追いつかなかった。ただ呆然と瞼の閉じられた彼女の安らかな顔を眺めていると、不意に扉が開いて知里が駆け込んできた。


「何やってるの、池上が側室を連れて裏に――」そしてソファに横たわる山羽美千代を目にとめ、呟いた。「まさか――死んだの」


「えぇ」利史郎は瓶を片手に立ち上がった。「田中久江を捉えます。それが僕の仕事です」

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