10. 舞踏会の夜

 懐遠楼は王宮内の庭園に設けられた洋館で、その名の通り長春で最も高い十階建ての楼が組み込まれていた。記録写真で見たことのある凌雲閣と似た外観だ。三階までは吹き抜け構造になっていて、舞踏会場に使われることが多いという。


 宮殿の正門では衛兵が全ての馬車を改め、武器の類いは没収している。しかし参加者数を考えれば十分な対策ではなかった。長春はある意味、帝都よりも安定した都市だ。こうした公式行事が何者かに狙われるようなことなど、誰も考えていない。実際利史郎の懐中にあった拳銃は見過ごされ、ハナのガラクタ入り鞄は中を改められもしかなかった。


 招待客が二百人以上というから、執事や女中、料理人、召使いといった類いも同数程度入り込んでいるに違いない。利史郎は馬車を降りて軽やかな弦楽が流れ出てくる玄関を背にし、次々と現れる馬車から降りてくるタキシードやドレス姿の紳士淑女たちを眺める。目を覆うだけの簡単な物、頭全体を覆う豪華な物と様々ではあったが、彼らは一様に仮面を身につけている。誰が誰だか、判別の仕様がない。


 元を辿れば仮面舞踏会は、貴賤の隔てなく一夜限りの交流するという代物であったが、時代が流れ、あまりにも風紀の乱れに繋がるという理由もあり、今は単に普段とは違った装いを楽しむという程度の物になっている。そのため利史郎が中に入り執事に招待状を示すと、大声でその名を詠唱され正体を明かさもした。


「大日本帝国川路男爵家次期当主、川路利史郎様! その姉君、レディ・ハナ様!」


「これ、大嫌いなんだよ」


 利史郎に手を取られながら進むハナは、渋い顔で愚痴る。それでも次官に押しつけられた花柄のチーパオは完璧に着こなしていて、いつも爆発している頭は綺麗に頭上で結われていた。


「姉さんは、やれば出来るのに」


 久しぶりに見る艶姿に言うと、真珠色に光る仮面の下から覗く口を思い切り尖らせる。


「これで急に怪人に襲われたら、どうやって逃げるのさ。レンチや金槌で殴ることも出来ないし、二輪車にだって乗れないじゃん」


 とはいえハナは十分に衆目を集めているようだった。当地では聞き慣れない称号だというのもあるだろうが、グラスを片手に歓談していた若者たちの半数ほどは、利史郎と並んで歩くハナを見つめている。だがそれも続いて唱え上げられた新たな名前に、あっさりと奪われてしまった。


「帝国通商連絡局次官、武者小路公徳様! その姪君、新子様!」


 知里は利史郎と変わらぬほどの長身というのもあって、チーパオが良く似合っていた。黒地に金の刺繍というドレスとマスクのおかげで、肌色の白さが際立っている。隣を歩く次官も鼻高々で足を進めていたが、当の知里は相変わらずの渋い顔つきで、群衆に紛れると早々に次官の手を払い寄ってくる。


「――冗談じゃない、これじゃあ怪人が出てきても追いかけられないじゃない」ハナと似たようなことを言いつつ、膝を曲げて踵の高い履物を改める。「これは帝国以上に差別的だと思わない? 何で女だからって、こんな拷問的な物を履かなきゃならないの」


「改造してあげよっか?」


 何処に隠し持っているのか糸鋸を取り出すハナに、知里はため息を吐く。そこに次官がグラス片手に歩み寄ってきて、周囲を見渡しつつ言った。


「王家のご一行はまだ来られていないようですな。ではそれまで、ダンスをお付き合い願えますかな?」


 出された肘を気持ちの悪い物かのように見つめ、知里は吐き捨てる。


「いや、無理。ダンスとか知らない。ハナさんよろしく」


「えー、私も苦手なんだけどなー」


 とは言いつつ、踊りは結構好きな質だった。笑顔の次官が差し出した手を膝を曲げて取り、くるくると回る一団の中に紛れていく。それを見送ってから、利史郎は中二階に知里を促した。曲線を描く階段を一歩上がる度に、まだ背中と胸に痛みが走る。それでもなんとかテラス席まで来ると、オペラグラスを取り出しながら全体を見渡した。


「それで、作戦は?」


 隣に並んで問う知里。それを利史郎は悩んでいた。


「次官から王宮警護隊に似顔絵を展開してもらいましたが、あまり当てには出来ないでしょう。僕らだけで何とかするつもりでいないと」


「あそこが上座ね」と正面に置かれた玉座を顎で指す。「今までDloopがどれだけの学者を殺してきたのかはわからないけど、わからない程度には衆目を憚っている。さすがにここではやらないでしょう」


「すると、ある程度場がこなれてからでしょう」


 そこで管弦楽団が手を止め、次いで満州国の国家を演奏し始めた。踊っていた数十人も足を止め、左右に分かれていく。そして人々の動きが止まると自然に拍手が湧き、ホールの中央を十人の一団が玉座に向かっていった。


 先頭は満州国の国王、孝文帝だ。確か四十近いはずで、壮健な顔つき体つきをしている。被り物は熊の剥製らしき豪華な物で、さすがにこれには観衆も心から拍手を送っていた。半歩遅れて続くのは典子王妃で、銀の刺繍が施されたレースで口元を主に覆っている。公家らしくない鋭い目つきが印象的な女性だったが、今もそれは変わっていない。更に続く若い女性には見覚えがなかったが、宝石をふんだんにあしらった冠と首飾りからして王家の一人だろう。


「イン様です。ご側室の」耳元で囁かれ驚いた。いつの間にか次官が隣にいる。そして彼は忌々しそうに、側室に続く白い仮面の男を親指で指した。「あれが池上です。よくもまぁ、平気で王の前に顔を出せるもんですな。厚顔無恥とは、まさにこのこと」


 厚顔無恥というか、表情が全く読めなさそうな男だった。三十かそこらだろうか。身体全体だけではなく目も細く、一同が玉座につき拍手喝采を浴びても無表情を貫いていた。しかし典子妃が振り向き池上に視線を送ると、途端に柔らかな笑みを浮かべ、腰を低くして駆け寄り何か言葉を交わす。


「見てください。まさに餌をねだる飼い犬だ」


 利史郎も同じ印象を受けた。


 果たして、彼のような男がDloopの注意を引くような発明をなしえるものだろうか。


 そう疑問に思っていたところで、知里が指を鳴らして注意を引く。


「いた」指し示す方向にオペラグラスを向けた利史郎に、言葉を加える。「奥から五番目の柱の影、緑のドレス」


 まさしく、いた。特徴的な広い額を露わにし、つり上がった瞳を真っ直ぐに池上に注いでいる。何度も見た写真のとおり唇を真っ赤に塗り、目元は濃いアイシャドウが塗られていた。


 山羽美千代――彼女の存在を知ったのはつい先日だというのに、もう何年も追い続けていたかのような感覚があった。その姿を見た途端に鳥肌が立ち、指先が震える。尋ねたいことが山ほどあった。黒薔薇会とは何なのか。父親の死に疑いを持ったのは何故なのか。〈機関〉とは何なのか。


 だが最大の疑問は、ここまで彼女を導いた動機は何なのか、だった。


 利史郎には未だに、父親の死に疑問があった、という動機が理解出来ずにいた。いや、それが快適で裕福な暮らしを捨てる理由になり得るのは、十分に理解している。しかし着の身着のまま家を飛び出し、身の危険を顧みず蝦夷に行き、そして満州にまで渡るというのは――これまで得られた情報からだけでは、感覚として受け入れるのが難しかった。どれだけ父親を愛していれば、これほどのことが出来るのか。彼女と父親の間に何があったのか。いや、そもそも、それが本当の動機なのか?


 何故かその疑問が、利史郎の脳幹にこびり付いて離れなかった。膨大な謎のある事件だった。しかしそれらに頭を悩ましている間にも、常に山羽美千代という人物像に対する疑問が根底にあり続けた。


 果たして山羽美千代とは、何者なのか。何を望み、何を成し遂げようとしているのか。


 ようやく、その答えを得ることが出来る。


 興奮に利史郎は包まれかけたが、それも危ういとわかり、高揚は恐怖に変わった。そもそも彼女が何者かを知り得たのは、彼女が息苦しさから仮面を外したからだった。遠目でわかるほど顔色は悪く、背は丸まり、露わになっている胸元はあばらが浮いている。特徴的な広い額には血管が浮き出ており、立っているのも精一杯な様子で細い身体を柱に預け、肩で息をしていた。


 そうだ。蝋管でも何度か、彼女は具合の悪さを記していた。まるで重視していなかったが、あれほど衰弱していたとは。相当に精神的に追い詰められているのか、〈黒女〉の襲撃の影響なのか、あるいは――レヘイサムに、何かされたのか。


「知里さん、誘導を」


 頷く彼女にオペラグラスを渡してから、階段を駆け下りた。肋骨が痛み息が止まりそうになったが、今は自分の身体を心配している余裕はなかった。遠くから国王のスピーチが聞こえる。そしてそれが終わった直後に楽団の演奏は再開され、静止していた人々が一斉に波のようにうねり始めた。利史郎はそれを、文字通り掻くようにして進んでいく。何人かとぶつかりその度に頭を下げたが、ついには苛立ちが頂点に達し誰彼構わず押しのけていく。


 そして息を切らしながら辿り着き、柱の影で喘いでいる女性の姿を目の当たりにして、利史郎の頭の中は真っ白になった。なんと声をかけて良いかもわからない。何度か声を発しかけたが、喉が麻痺して動かなかった。


 やがて彼女は気配に気づき、顔を上げる。大きな目は血走り、額には皺が寄り、肌は不自然なほどに白い。今になってようやく気づいた。知里が発見した化粧品、そして女中が証言したこと。全ては体調の悪さを隠すための厚化粧だったのだ。


 つまり彼女は相当以前から、死に取り憑かれていたのか。


「山羽美千代さん――ですね」


 必要が緊張に勝り、自然と声が出る。それを受けた彼女は朦朧とした様子ながらも、身構えながら答えた。


「誰?」


 蝋管で何度も聞いた、強い意志と知性が宿った声だった。利史郎はうずくまる彼女の側に屈み込み、言った。


「川路利史郎。私立探偵です」

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