9. 満州

 満州国の首都長春は、帝都とまではいかなくともある程度都市化されていた。気候は蝦夷地に近く殆どが雪に覆われていたが、レンガや石造りのビルが連なり、張り巡らされた圧力管で主要な道路の雪は溶かされ、蒸気バスと自転車で埋め尽くされている。


 そう、確かに見かけ上は文明化されていたが、内実はやはり外地だった。飛行場を少し離れると弁髪に大陸風のゆったりとした服を着た人々が現れ、利史郎たちの乗る蒸気車に群がり物乞いをし始める。そこかしこに不潔な身なりをした子供が溢れ、石炭と木炭の煤で顔を真っ黒にしていた。


 二十世紀初頭の清国の混乱から五帝国による分割を受けて成立した満州国は、帝国の指導を受け近代化したとはいえ、結局のところ未だ旧態依然とした君主専制の王国であった。民衆が奉仕するのは、清朝から五百年続く愛新覚羅氏を中心とした貴族たちだ。議会はないが宮廷は大日本帝国と同じように西洋化され、新聞には社交欄があり、どこぞの男爵の娘と日本人実業家との道ならぬ恋などといった記事で溢れている。


 利史郎たちが追うのは、画期的な新薬を発見したという医師、池上象二郎。彼についての記事は多かったが、当地のゴシップの中心にあるだけあって適当な物が多すぎた。帝都出身だというのもあれば、実はロシア人だというものもある。いずれにせよ何らかの方法で社交界に入り込んだ彼は次々と貴族の子女たちをたぶらかし、ついには満州国王妃の寵愛を得て宮廷医師となり、自らの実験のための多大な資金援助を受けているという。その実験とは怪奇かつ非道なものであり、夜な夜な彼の実験所から異様な叫び声がするとか、浮浪者が狩り集められては二度と戻って来ないとか、いかにも三面記事らしい内容で溢れている。かの道鏡やラスプーチンと比されている記事もあった。


 その何処までが本当なのかわからなかったが、これほど噂の中心となっている人物だ。何かと警戒しているはずで、池上象二郎を狙う田中久江、そしてその彼女を追う山羽美千代にしても、簡単には接触できないはずだ。


「つまり、まだ時間はあるってこと?」


 問うハナ。利史郎は彼女の肩を杖代わりにして歩きつつ応じた。


「どうでしょう。田中久江の死体が消えてから、もう半月になります。それだけあれば、ミヤコンの時のように使用人として入り込むのは難しくない」


「でも池上みたいな怪しい医者なんて、いかにも少年探偵が出てきそうなお話じゃない。依頼はなかったの?」


 冷やかすように知里が言う。利史郎は目の前の白々とした洋館を見上げつつ答えた。


「まずはそれを確かめてみましょう」


 深い堀と高い壁で覆われた中華風の王城の側に、一際大きな洋館、帝国通商連絡局はある。その実態は大日本帝国傘下の国と地域に置かれる行政監督機関であり、彼らは内務省と連携し全ての属国を制御していた。もしその池上という男が本当に満州国の宮廷を牛耳っているのだとすれば、彼らとしても無視できる状況ではないはずだ。


「でも、高名な少年探偵が現れたからって、そう簡単に国の問題を相談してくるとは思わないけど」


 様々な手続きで人のごった返すロビーで呟いた知里に、利史郎は窓口に向かいながら言った。


「実は以前、満州王家の問題を扱ったことがあって――」


「昨年かな。王様が近衛家から嫁いだ奥さんをハメて離婚しようとしてたんだよね。それを暴いちゃったの」


 ハナの解説を受け、知里は呆れた表情を浮かべる。


「やっぱり、上流階級の痴話喧嘩はお得意なようで」


 だから詳細は言いたくなかった。


「――ともかく、それで通商連絡局の次官には貸しがあります。少なくとも羽田で電報は打ってますから、会ってはくれるはずです」


 そう窓口に名刺を差し出そうとしたところで、ロビーの端から背広姿の小男が駆け寄ってきた。小太りで白髪頭の紳士は自分の孫ほどの利史郎に最敬礼し、次いで満面の笑みで両手を取った。


「お久しぶりです利史郎先生。本当に都合のいい時に」


「あらら。想像以上ね」


 小声で言う知里に苦笑いして見せつつ、手を引かれるまま階上に向かった。


 通商連絡局の最奥にある次官室は帝国の派遣した最高官僚の事務室だけあって、つま先の沈み込むほど柔らかな赤絨毯、高名そうな画家の絵、精細な彫りの入った応接セットと、暑いほどに焚かれた暖炉が待ち受けていた。怖いほどの笑みを浮かべている次官は三人をソファーに促すと、次々と飲み物を尋ねてくる。


「あの、次官、それほど気を遣われなくとも――」


 利史郎は見かねて言ったが、彼の抱えている問題は相当に深刻らしい。結局ハナが気まぐれに要求したリンゴまで手配してから、ようやく対面に座って無駄話を始める。気候とか、大英帝国とCSAの件とか、そんな話だ。


「それで、先ほど『都合のいい時に』と仰いましたが。何かお困りですか」


 十分ほどして、ようやくその言葉を挟み込むことに成功した。途端に次官は表情を硬直させ、みるみる困り顔に変じさせ、ハンカチを取り出して汗を拭う仕草までして見せた。きっと彼はこの演技力で次官まで上り詰めたのだろう。


「いえいえ、それは――利史郎先生から戴いた電報にも、池上象二郎の件で、とありましたが。先生はどういったことで――?」


 そこで利史郎は、事態の詳細は隠しつつも、彼が怪人じみた女に狙われている可能性が高いということを説明する。


「それで次官、新聞で報じられている彼の事ですが。どこまで本当なのですか?」


 彼は机上のシガレットケースを開き、三人に勧めてから問いに答えた。


「まぁ、半分――半分くらいは本当です。典子様にも困ったもので――以前利史郎先生にお助けいただいて孝文帝との離縁は免れたのですが、当然お二人の間はすっかり冷え切ってしまって。代わりに、いつの間にか現れた池上という輩を寵愛なさって。我々もどうしたものかと――」と、顔を上げて膝を少し進める。「我々としては、かの物が狙われて消えてくれれば万々歳ではあるのですが。そうはいかないものでしょうか?」


 やはり知里は笑い声を上げそうになっていた。利史郎はそれを覆い隠そうと大きく咳き込む。


「いや。まずは池上氏にお会いしたいのですが。可能ですか」


「いやそれは――難しい。殆ど後宮に入り浸っていて、何処に住んでいるのかもわからんのです。孝文帝も例の騒動の件もあって、表だってお咎めも出来ないらしく――」


「では典子様に」


「それは利史郎先生であればお会いくださるでしょうが、それはそれ、あのお気性ですから――今の状況で伺うと、池上のことを諫言しに来たのだと思われて。実際そうですが――そうなるとご機嫌を損ねるに決まっています。すると後々面倒な事に――」


「あのお気性って?」


 あっけらかんと問うハナに、利史郎は耳打ちした。


「相当にお気の強い方で」


「ふぅん」


「そこで、いい手があります」


 まるで計画していたように、次官は宣言した。実際にここまでの会話は計画済みなのだろう。彼は懐から折りたたまれた紙を取り出し、机上に広げてみせる。


「仮面舞踏会――」


 表題を読み上げた利史郎に、次官は元の笑みに戻りながら言った。


「えぇ。こちらでは新暦ではなく旧暦で正月を祝いますから。新年行事はこれからが山場でして、丁度明日、記念舞踏会が開かれます。それには両陛下だけでなく、池上も来るに違いありません。そこであれば利史郎先生がそれとなく近づいて諫言なさるのにはもってこい――」


「そして、池上を殺すのもね」


 知里が鋭く言った。利史郎も同じ考えだった。あの田中久江が、この有象無象が集まる絶好の機会を逃すはずがない。そして山羽美千代にしても――必ず訪れるはずだ。

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