3. 闇の中の男
『――八丈島からの集団脱獄事件が発生し、三日になろうとしています。警視庁は未だに脱走者を乗せた蒸気船の行方を掴めておらず、手引きした者による用意周到な計画があったとの見方を強めています。脱走したのは重犯罪の収監者五名、D領への移送待ちだった怪人二十体に及びます。主導したのはCSA国務長官歓迎晩餐会襲撃事件で知られ、反逆罪に問われている閉伊権兵衛と見られており、警視庁は行方を追うとともに一般からの情報提供を求めています。有力な情報には、最大で五千円の報奨金が支払われます。』
利史郎はニュースを聞きながら、やはりそうだったか、と忸怩たる思いを噛みしめていた。彼には別の目的がある。その推理は間違っていなかった。きっと最初から、八丈島に捕らわれている凶悪な怪人たちを仲間にするつもりだったのだろう。それで利史郎に捕まってみせた。
最悪だ。犯罪者を捕らえるのが仕事だというのに、犯罪者の手助けをしてしまった。二十人の怪人を一手に束ねることが出来れば、小国の軍隊に匹敵する力となる。これからレヘイサムは何をしよういうのか。加えて彼は、まず間違いなく山羽美千代の〈機関〉をも手中に収めている。恐らく彼は美千代と何らかの取引をし、あの長屋で〈機関〉を製造させていたのだろう。そして十分な数を確保し、あとは証拠を隠滅するため長屋を燃やそうとした。
まったく、最悪のタイミングだった。もう数十分早ければ無事に捜査を終えられ、美千代の重大な証言が詰まった蝋管も――
そうだ。蝋管だ。何よりも重要な物。あれは一体、どうなった? いやそもそも、あの火の手を自分はどうやって――
その混乱が、利史郎を目覚めさせた。唐突に目の前に現れたのは、知里と利史郎を長屋に案内した子供だった。雪焼けで頬を茶色くしていて、口周りがだらしなく汚れている。厚い上着を脱いでいたため、ようやく女の子だと判別出来た。彼女は突然目を開けた利史郎に驚いたらしく、わっと叫んで身を離す。彼女に変わって見えた天井は薄汚れていて、窓ガラスは結露し、その向こうの風景は雪の降りしきる夜だった。
身を起こそうとしたが、力が入らない。辛うじて頭をよじると、そこには椅子に腰掛けて眠っている知里がいた。サイドテーブルには彼女が愛用している手回しラジオが置かれていて、今はジャズの音色を響かせている。
声を出そうとしたが、カラカラに乾いていて息が詰まった。咳き込むたびに胸が痛む。そうしている間に知里が目を覚まし、サイドテーブルの水差しからコップに水を注ぎ、利史郎に差し出してきた。それを口にして、ようやく息を吐く。
知里は左手と右腕に包帯を巻いていた。そして利史郎の方は、頭と胸に圧迫感がある。背中もズキズキと痛んだ。
「このまま死ぬんじゃないかと思ってた」
相当に疲れている様子で知里は言う。
「どれくらい寝てました」
なんとか声を発した利史郎をベッドに横たえさせ、隅の方で様子を窺っている女の子に蝦夷語で何かを命じる。彼女が出て行くと知里は椅子に腰を戻しながら言った。
「二日。頭を打って。あと肋骨にひび、背中に火傷。覚えてる?」
「――えぇ」思い出した。「よく生きてましたね」
「あいつら、雪国をわかってないのよ。多少の火なんて、天井を焼いたら雪が落ちてきて消える。とくにあんなボロ長屋ならね」
「それで僕らは潰された」
「そういうこと。運良く近くにいた連中が、すぐに掘り出してここに運んでくれたみたいだけど」
「みたい?」
「私も半日くらい気を失ってたからね。よくわかんない」
「知里さんは怪我は?」
「あちこち火傷した程度。華族のお坊ちゃまとは育ちが違うからね。身体だけは頑丈なのよ」
そうだろうな、と思いながらベッドに身を任せる。そこで唐突に思い出し、利史郎は跳ね起きた。
「そうだ、蝋管は!」
すぐに痛みに襲われて顔を歪める利史郎を呆れた様子で眺め、知里は鞄から一つ一つ数えつつ取りだした。
「はいこれ。一本、二本、三本、四本」
全て熱で溶かされ歪んでいる。絶望の面持ちで見つめていた利史郎に、知里は最後の一本を取りだした。
「そして――これ。これだけは無事だった」
完璧に形を保ち、表面に刻まれた溝も窺える。今回は酷い出来映えだったが、最悪ではなかった。そう安堵の息を吐く利史郎に、知里は小首をかしげる。
「やっぱ覚えてないの?」
「――何をですか?」
「私は火を突っ切って逃げようとしたのに、あんたは必死で蝋管を集めてて。それで逃げ遅れたんだけど。これはあんたが握りしめてて無事だった」
言われてみると、そんなことがあったような気もする。
「それは――すいませんでした。ですがそれを失うわけにはいかなかった。とても重要な手がかりです」
知里はため息を吐き、蝋管をサイドテーブルに置く。
「だといいわね」
「――どういう意味です?」
問い返したとき、扉が開いてドカドカと人が入り込んできた。真っ先に顔を見せたのは、こともあろうか牧野警部だった。
「利史郎君、無事か!」応じる間もなく詰め寄ってきて、顔を覗き込む。「大丈夫か? 私がわかるか? 頭がやばいかもしれんと医者は言っていたが――」
「大丈夫です、牧野警部。わざわざ僕を見舞いに蝦夷まで?」
そこで警部は知里を窺う。彼女が口をへの字に曲げるのを見て、利史郎に顔を戻した。
「そりゃぁ――君に仕事を依頼した私に責任が――それに実は――悪い知らせがある。せっかく君が捕らえてくれたレヘイサムだが――」
「脱走したんでしょう? さっきラジオでやっていたのを聞きました」再び知里を窺う警部に、利史郎は続けた。「謝るのはこちらの方です。完全に僕のミスでした」
「っていうと?」
まるで理解出来ないという牧野警部に、利史郎は無意識の中で考えていたことを口にした。レヘイサムは何かを企んでいた。それを事前に暴けなかった自分に落ち度があると。
「しかし知里が言うのは、君がレヘイサムを調べようとしたのを、彼女が邪魔したそうじゃないか」
「それも道理でした。あの時は、どちらの判断が正しいかはわかりませんでした。僕は事実を警部に伝えて――後の捜査をお任せするべきだったと――」
「その辺にしてもらえますかな」唐突に医師らしき男が割り込んできた。「まだ休養が必要です」
確かに、二日も眠っていただけあって、話しながらも集中力が途切れそうだった。熱も相当にありそうだ。すぐに察した警部は身を離し、また明日くると言って去って行く。そして一緒に出て行こうとする知里に蓄音機を持ってくるよう頼もうとしたが、猛烈なだるさに声が出なかった。諦めてベッドに身を委ねると、一瞬で気を失った。
『番組の途中ですが、ここで臨時ニュースをお届けします。CSA、アメリカ連合国の主要な軍艦建造基地であるノーフォーク造船所が今朝未明襲撃を受け、施設の大半が破壊された模様です。付近では先日より所属不明の部隊が活動しており、CSAの基地が襲われたのはオンタリオ、ドミニカに続いて三例目になります。五帝国会議CSA代表バートレット氏は緊急会議の招集を要求し、本日午後から実施される見込みです。』
暗闇の奥から、クツクツと笑う声がした。無意識に目を開くと、赤い光を放っているストーブに向き合う長髪の男がいた。彼は椅子の背もたれを抱えて座り、無精髭の生えた口元を楽しげに歪め、続くラジオの声に耳を澄ましている。
声を出そうとしたが、無理だった。それで片手を彼に伸ばすと、様子に気づいた男は利史郎に目を向け、椅子の向きを変えて向き合った。
「よう少年。元気か?」答えられない利史郎に、あからさまに気の毒そうな表情を浮かべる。「悪かったな。俺は手を出すなと言っておいたんだが、蝙蝠のヤツは相当にお前を恨んでるらしい。手は出してない、火を付けただけだと言い張りやがる。まぁそれは俺も悪い。あいつの知能は五歳児程度なのを忘れててな。それで一応、詫びておこうかと思ってな」
未だに夢なのか現実なのかわからなかった。ただ朦朧とした意識に一つの名前が浮かんできて、口にしようとする。
「どうした。無理するな。なんだって?」
椅子を傾け耳を寄せるレヘイサムに、利史郎は言った。
「美千代さんは。殺したんですか」
彼は苦笑いし身を離した。
「おいふざけるな。俺は約束は守る。あいつには、俺が知ってることを教えてやった。そしたら慌てて飛んでったよ」
「一体、何処に」
「なんだ。まだその程度なのか。がっかりだな。しかし――」と、レヘイサムは立ち上がり、利史郎を見下ろした。「正直、彼女には感心したよ。華族のお姫様なくせに、一人でこんな所まで来るなんてな。お前なんぞより、よほど名探偵かもしれん。だがあいつは――女々しい。親の死因が何だってんだ。それがわかったら、人生幸せになるのか? あいつは自分の父親の死まで穢している。それがわからんうちは――まぁ無理だな。このままだと近いうちに死ぬ。お前はそれを防ぎたいか?」
答えない利史郎に、彼は笑みを浮かべ片目を瞑って見せた。
「まだ考え中か? まぁいい。しかし時間がないぞ少年? 俺たちは時間を無駄にしすぎた。いずれ何もかも――避けられない時が来る」
そうして男は、闇の中に帰って行った。
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