5. 蒸気二輪の少年

 外に出ると、二人の少年は近くに停めてあった蒸気二輪に飛び乗っていた。ゼンマイ二輪が普及してから滅多に見かけなくなった貴重な古車で、釜に熱が入るまでまともに走ることは出来ない。ただの悪餓鬼だったか、と利史郎は二人に歩み寄っていったが、唐突に蒸気二輪の小さな煙突が黒煙を上げ、派手な汽笛を鳴らし、急発進すると前輪を浮かせながら突っ込んできた。


 向こうも別に利史郎を牽くつもりはなかったろうが、ハンドルを握るシルクハットは見るからに動転していて、制御を失っていた。咄嗟に右に飛ぶと、蒸気二輪は路肩にあった樽を跳ね飛ばし、仲見世通りの方向へ消えていく。


 左右を見る。店の前には数台のゼンマイ二輪が停めてあった。うち一台は、利史郎の愛車と同じ宮田製作所のパーソン8だ。すぐに取り付いて装着されているゼンマイを取り外し、ハナ特製のゼンマイを装着する。そしてサドルに跨がった時には、当然のように知里が後ろに跨がっていた。


「二人じゃ追いつけない!」


 言った利史郎の頭を、知里は強引に前に向けた。


「いいから、さっさと出す!」


 言い争うだけ時間の無駄だ。利史郎は彼女への苛立ちもあって、強引にクラッチを繋ぐ。体重を前に乗せていたが、それでも前輪が浮く。しかし知里も二人乗りに相当慣れている様子だった。両足の踵を地面に擦らせ、バランスを取って進路を定める手伝いをする。速度が乗ってくると身を縮め、曲がる方向に重心を移す器用さも見せた。ただ奇声を上げて慌てふためくだけのハナとは大違いだ。おかげで蒸気二輪との距離は瞬く間に縮まり、背後を伺うゴーグル少年の表情も窺えるようになる。


「何なの、あの蒸気二輪! 無茶苦茶速い!」


 叫ばれ、利史郎は応じる。


「火薬を使った瞬間加圧装置を付けているんでしょう! 釜への負担が大きすぎるので、競技用でしか使われない物ですが」


「危ない!」


 叫んだのは利史郎に対してではなかった。隅田川方面へ向かっていた少年たちは、信号手の手旗を散々無視した挙げ句、ノロノロと走る蒸気バスに突っ込みそうになっていた。なんとかそれは避けたが、コンクリートから無舗装の道路に向かってしまい、盛大に土煙を上げながら右へ左へとハンドルを取られるようになる。そして隅田川の土手から川岸へ下ってしまい、それでもなんとか持ちこたえたが、最後には砂利にタイヤを取られて転んでしまった。蒸気二輪は猛烈な白煙を上げ、少年たちは這いながら離れようとする。


「貴重品なのに」


 呆れて言いつつ、シルクハットの前にパーソン8を停めた。いや、彼のシルクハットは、とうの昔に風に飛ばされていた。ポマードを塗った髪を綺麗に七三に分け、端正で面長な顔をしている。そして彼は怯えた瞳で見上げてきたが、利史郎は彼の顔に見覚えがあるような気がした。


 いや、間違いない。昨年招待された園遊会で、幼い天皇陛下の脇に控え、刀持ちのような役割をしていた少年。


「まさか、大久保侯爵?」


「え? 真面目に? 大久保利通の大久保?」


 目を丸くして問う知里。当の少年はまだ幼さの残る笑みを浮かべ、気まずそうに頬を掻いた。


 二十世紀堂に戻り奥の個室に案内されたものの、小さくなってしまっている少年に利史郎は言葉を探す。


「大久保侯爵、その、なんと言っていいか――」


 すぐに彼は身を跳ねさせ、言った。


「それだけは、勘弁してください。どうか今はミッチーと」


「みっちー?」


 知里と二人で、同時に問い返してしまう。すぐに少年は付け加えた。


「ここの連中はみんな、僕が侯爵だなんてこと知らないんです。ただの金持ちのボンボンだとしか――頼みます。どうかミッチーで」


「いや、しかし――」


 渋る利史郎に対し、知里は切り替えが早かった。


「じゃあミッチー。何で逃げたの」


 通常の状況であれば話しかけるどころか、目にすることすら不可能な相手だ。利史郎は冷や汗をかきながら見守っていたが、若い大久保候は再び身を縮め、答える。


「それは――立場上、こういう所にいるのが知られたら、色々と面倒な事になるので――利史郎先生なら絶対見破るに違いないと――」


「それだけ?」


 容赦のない追求を知里はしたが、彼は気の抜けた顔を上げ、問い返す。


「それだけ、とは?」


 本当に、何も知らないように見える。それでどう切り出したらいいか迷う利史郎に対し、知里は率直に問いを発した。


「あんた、この店の常連?」


「まぁ、週に二、三度は来てますが」


「ここのところ、店に妙な動きはなかった? 妙な連中が来たとか、店主に怪しい動きがあったとか――」


「いえ、これといって、別に」


「この中に、見覚えのある人物は?」


 言いつつ、利史郎は複数の紙を机上に並べる。店主の岩山を除いた黒薔薇会四人の写真、そして田中久江の似顔絵。


 途端に少年の目は、黒薔薇会の一団に吸い付けられた。その中でも特に、山羽美千代に。利史郎はそれをつまみ上げ、彼の目の前に翳す。


「彼女は何らかの事件に巻き込まれ、行方不明です」


 唐突に何かが繋がったような表情をした。


「そう――そういうことですか」


 大久保候ならぬミッチーによると、山羽美千代は時折、この店に姿を見せていた常連だという。特に店主の岩山とは以前からの知り合いらしく、二人で話し込んだり、新しい作品――彼らはパンクの仕掛けを、そう呼んだ――を作る手伝いをしたりしていた。


「それで先週の晩、横浜にいたんですが――あの辺は夜になると車通りが少なくなって、二輪車で色々試すのに都合がいいので――それで伊勢佐木町で血相を変えて走ってる美千代さんを見かけて、声をかけたんです。そしたらここまで乗せて欲しいって言われて――凄く、具合が悪そうだったし――」


 やはり、無事に逃げていたか。


 そう利史郎は安堵した。ほんの少しではあるが、彼女に近づいている。


「それで?」


「岩山さんと何か深刻そうに話してました。それから蝦夷に行きたいけど何とかできないかって相談されて」


「蝦夷? どうして」


「知りません。ただ、僕も美千代さんにはよくしてもらっていたので。外交特権扱いの無記名旅券を手配して。三、四日前に出て行ったようです。それ以上の事は」


 近づいていたかと思ったが、そうではなかったらしい。


 蝦夷か、と知里は呟き爪を噛む。きっともう蝦夷に行く算段を立て始めているのだろう。次第に彼女の癖がわかりはじめていた利史郎は、あえて知里が追求する気もないだろう点を尋ねた。


「美千代さんは、自分が巻き込まれている問題について。何か話していましたか」


 ミッチーも言いたくなかったのだろう。少し口を噤んでから、言葉を選び選び答える。


「所詮僕は子供ですから。詳しい話はしてくれませんでしたけど。誰かに追われているようでした。山羽男爵、ですよね。あまり家の事、良く言っていませんでしたから。お爺さんは夢見がちだし、叔父さんは金稼ぎに夢中なだけだって」


「ロシアの事は、何か口にしていたことはありませんか。知り合いがいるとか、国としてどう思うとか。何でも構いませんが」


 記憶を探るように遠くを見たが、結局ミッチーは頭を振った。


 やはり、重大な何かが欠けている。これまでに得た情報からして、美千代がロシアに向かうのであれば色々と状況証拠が裏付けられることになる。しかし蝦夷とは。


「少し、ここの店主――岩山さんと、お話ししたいんですが。可能ですか」


 難しそうに小首をひねる。


「どうでしょう。話してみますが――あまり警察とか、好きな人ではないんで」ミッチーはそう立ち上がりかけたが、何かを思い出したように腰を椅子に戻す。「それであの、利史郎先生。僕はその――貴方のお仕事は、とても、尊敬しているんですが――これは、どういったお仕事なんでしょう」


「それは――最初は山羽家から依頼されて美千代さんを探していましたが、どうも話は、それで収まらないような状況で」


「っていうと?」


 それはとても、妙な気合いが込められた問いだった。


 侯爵とはいえ未成年だ。後見人に叔父が付いていたはずで、実権はない。それほど深い関係者でもなさそうでもあり、返答に詰まる。その態度を見て、ミッチーはあからさまに不満そうにして背もたれに倒れ込んだ。


「結局それだ。どうせ僕は子供ですから」そして勢いよく席を立つ。慌てて言葉を探す利史郎に、彼は扉を開きつつ応じた。「いいんですよ別に。岩山さんは作業場でしょう」


 昼の営業を終え、店は閉められていた。裏手は元の工場の設備がそのまま残されているようで、小型の溶鉱炉や砂型用の砂場、金床、蒸気旋盤に水圧プレス盤といった風で、一通りの金属加工が最初から最後まで出来る施設が整っている。岩山はミッチーが壊した蒸気二輪の修理を行っている所だった。フレームから蒸気機関を取り外し、水漏れをしている小型の釜を改めている。ミッチーは、親父さん、と声をかけたが、彼はそれを無視して炉に火を入れ、力を込めて鞴を押した。

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