3. 牢獄の中の男

 フクロウ博士の家を辞してから、利史郎はひたすら考え続けていた。都内に戻り、知里がまた明日と言い残して馬車を降りて、初めて我に返ったくらいだった。


 自分以上に、奇妙な体験をしている人物――そしてそれが、記録に残っていない人物。


 既にそれが誰なのかは、わかっていた。しかし彼の力を借りることは相当な危険を伴う。それでも山羽美千代失踪から始まったこの一連の出来事を紐解くには、どうしても〈黒女〉の正体を暴くことが欠かせない。そう結論づけると、利史郎は馬車を竹芝に向けさせ、幾つか電報を打ち、夜行船に乗り込んだ。


 そしてあまり良く眠れないまま、翌朝の日の出頃に八丈島の地を踏む。


 ここに来たのは、もう何度目だろうか。利史郎が捕らえた凶悪犯、不逞怪人は、大抵八丈島刑務所に収監されていた。彼らの殆どは今も死刑を待つ身で、鉄格子の奥からは利史郎に対する怨嗟の声が無数に響いてくる。


 気にしても仕方がない。彼らは過ちを犯し、その報いを受けているだけだ。


 そもそも利史郎は、元から恐怖という感情が薄かった。恐怖は未知から来るものと、抗いがたい状況から来るものと二種類がある。未知に関しては科学が助けになるし、追い詰められた状況は予測能力で回避できる。そのどちらも利史郎は十分に備えていて、今のところ恐怖にとらわれ逃げ出したくなる状況には遭遇したことがない。だから何十人、何百人の犯罪者や怪人が利史郎を恨もうが、何の恐怖も感じないし、捕らえてここに送り込んだ後に、彼らに対して何か感情を抱くという事もなかった。


 しかしどうも、レヘイサムだけは別だった。彼との面会を取り付けたのは、ひょっとしたら〈黒女〉の正体以上に、彼のことを知りたかったのかもしれない。


 彼の目的は明らかだ。帝国に捕らわれているドミニオンを解放すること。そして彼の手段も明らかだ。帝国の行政官を狙った、ありとあらゆる犯罪。


 しかし、どうにも引っかかってならなかった。


 そんな程度のことで、帝国が崩壊すると――彼は本気で思っていたのだろうか。


 とても理性的ではない。帝国の統治体制は万全だ。何人かの役人を殺した程度で、それを覆せると思うのは狂人くらいだ。


 狂人。そう、レヘイサムは狂人なのかもしれない。帝国の崩壊を夢見る、ただの狂人。


 しかし彼の計画的で洗練された犯罪を幾つも見てきた利史郎にとっては、彼がただの狂人だとは思えなかった。十分理性的であり、十分知能のある男。それがレヘイサムだ。


 矛盾している。筋が通らない。


 理解できない事は恐怖に繋がる。だから利史郎は、今更ながらも彼の姿を見て、言葉を聞いて、少しでも彼を理解したかったのかもしれない。そうすれば、彼が何を企んでいるにせよ――ただそのまま死刑になるにしても――先を読み、対処することが出来る。


 そう、きっとそれが目的だ。


 漠然と内相しながら独居房を進んでいると、先導をする刑務官が厳重に施錠された扉の前で立ち止まり、鍵を差し込み壁から生えたレバーを引く。圧力管からの蒸気を受けてレシプロが動き、クランクが脂ぎった分厚い歯車を回し、金属製の扉が左右に開いていった。その脱走不能という印象を強くさせる機構の終わりを待ちつつ、刑務官は言う。


「今日は、奴にどういったご用で?」


「少し――聞きたいことが」


「へぇ。収監された頃は色々な連中が尋問に来てましたが、強情な奴で。諦めたのか、今じゃ誰も来ません。先日イギリスの五帝国会議大使が来たくらいで――」


「モリアティ大使が?」


 意外に思い問い返すと、刑務官は薄ら笑いで応じる。


「ご存じですか」


「いえ、お名前くらいしか。どういった要件で?」


「なんでもレヘイサムがイギリスの分離主義者の情報を持ってる可能性があるとかで。話を聞きに」


「それで?」


「それで?」刑務官は苦笑いで答えた。「知りません。私らは上の許可があれば、お通しするだけです」


 それもそうだ。上意下達。それもまた帝国の根本的な仕組みの一つだ。


 しかし気になる。それはイギリスも帝国の統治体制を覆そうとする分離主義者には目を光らせているだろうが、五帝国会議全権大使がわざわざ出向いてくるほどの事だろうか。イギリスで力のある分離主義者組織といえばIRAが有名だが、レヘイサムに関わりがあるという話しも聞いたことがないし、だとすると――


「こちらです」


 足を止めた刑務官に言われ、我に返った。錆び付いた扉の脇には小さな黒板が掲げられていて、閉伊権兵衛の名が殴り書きされている。


「どうぞ」


 扉が開かれ、ランタンの明かりが灯される。レヘイサムは壁を背にし、筵の上に座り込んでいた。手枷足枷の先には大きな鉄の玉が括り付けられていて、これではさすがの彼も反抗は難しいだろう。


「こんにちは」


 声をかけると、彼は顔を上げた。捕まえた時と比べると、大分痩せているのがわかる。顔中髭だらけで、髪も伸び放題だ。


 そして彼は、鼻の先を眺めるようにして利史郎に目を向ける。相変わらず暢気で、何事も読み切っているような表情だった。


「やぁ少年」言って、手首から伸びる鎖を鳴らしてみせた。「どうした、そんな所に突っ立って。俺はこの様だ。近づいたって、何も出来やしねぇよ」


 言われたとおり、数歩足を進める。だが彼を見下ろす位置に来ても、何故だか言葉が出てこなかった。それで真っ直ぐに見つめ合う形になったが、やがてレヘイサムは苦笑いし、くすぐったそうに鼻を鳴らす。


「何だ? 俺に惚れたのか? 悪いがそういう趣味はないんでね。他を当たってくれよ」


「怪人」ようやく声が出た。「あなたは知られているだけでも、五人の怪人を支配下に置いていた。蝙蝠男、ミイラ男、狼男、透明人間、そしてヘビ女。それは一体どうやったのか、教えてもらいたいんです」


「どう、とは?」


「怪人は一般に、ヒトを信用しません。そもそも信用という概念がある個体も希だ。大抵は本能に従ってヒトを惑わし、恐れさせ、希にですが――食らう。そうした彼らを、あなたはどうやって手下に――」


「蝙蝠は元気か」


 唐突に言われ、理解するのに時間がかかった。きっと彼と同時に捕らえられた、蝙蝠男の事だろう。


「通常の手順通り、ここの怪人専用房に入れられているはずです。Dloopとの手続きが終わればD領に移送され――」


「D領」苛立たしげに吐き捨て、身を起こす。「お前はそれであいつらががどうなるのか、知ってるのか」


「どう? 怪人を長く拘束しておくことは難しい。だからDloopとの取り決めによって、犯罪を犯した怪人は彼らに引き渡すことに――」


「それだよ。それが〈帝国〉の限界だ」


 話は終わりだ。そういった勢いで言葉を切られ、言葉を失う。


 どうにも間が取れない。会話の主導権を握ることが出来ず、利史郎は改めて矛先を探した。


「では、〈黒女〉はご存じですか。痩せた女で、黒い異臭のする血を流す」


 それでようやく、彼は食いついてきた。興味深そうに利史郎を見上げる。


「会ったのか」


「――はい」


「話を聞こう。なにしろここじゃ、新聞一つ読ませてもらえないんでな。何があった」


 取引の条件といったところだろう。彼にあまり情報を与えるのには気乗りしなかったが、ある程度は与えなければ見返りもないだろう。利史郎は細心の注意を払いながら、明かせる要素を口にしていく。レヘイサムは顎に手を当て、しきりに頷きながら聞いていた。そして〈黒女〉の死体が消えた下りに至ると、彼は強く膝を叩いて言った。


「少年探偵。お前も遂に、相まみえる事になったな」ニヤニヤと笑い、髭をさする。「お前ならいずれ出会うだろうとは思っていたが。思ったよりも早かった」


「それで――彼女は何者なんです」


「お前はどう思う」応じようとした利史郎に、言葉を継いだ。「試されるのは好きだろう。何しろ少年探偵だ」


「探偵ですから、あえて可能性を狭める推理はしません」


「なるほどな。それも賢い。であればきっと、お前さんは俺が嘘を吐くという可能性も考慮に入れているはずだ。違うか? ならば、俺が何を言っても無意味だ。違うか?」


「あえて話そうとしない。それもまた一つの事実と――」


「少年」


 不意にレヘイサムはため息交じりに言った。甲高さと深さが混じった、不思議な声だ。


 突然のことに、利史郎は身を震わせる。それを哀れむような瞳で眺め、彼は言った。


「お前は俺が言ったことを、何一つ聞いていないようだな。まるで進歩がない」


「進歩? 一体何の――」


「きっと馬鹿ばかりを相手にしていたからだろうな。まぁお前さんに捕まるんだ、どいつもこいつも馬鹿ばかりだったのは間違いないが」


 利史郎ははっとして、四方を見渡した。とはいっても四畳半の部屋で、見るべき物は僅かだ。漆喰の塗られた灰色の壁。中身はレンガ積みだ。天井には通気口もなく、床には筵、木製の机と椅子、そして排便のための穴があるだけ。


 何もない。彼が何を企んでいようと、ここでは何もしようがない、はず。


 だが、彼は言った。利史郎に捕まるのだから、相手の方が馬鹿だと。そして彼も利史郎に捕らえられた。しかし――自分は馬鹿ではないと言っている。矛盾だ。明らかな矛盾。


 これもはたして、怪人二十面相と呼ばれるほど人心掌握が得意とされる彼のハッタリだろうか。それとも単に口を滑らせただけだろうか。


 数秒の沈黙だったはずだ。しかしレヘイサムはそれを予期していた様子で、再び愚かな学生を嘲笑う教授のような表情を浮かべ、言った。


「そうだ。何を聞くかではなく、何を言うかに気をつけろ。丸見えだぞ」


「それは貴方も同じですよ」


「どうかな。今のお前は、必死に考えているはずだ。俺が一体、何をしようとしているか」


「貴方は死刑になる」


「そうだな」鼻で笑い、「まぁいい、話を元に戻そう。結局の所、お前は俺が何を言おうが必ず裏を取る。そしてそれが俺の言葉と相違ないと確認できて、はじめて事実だと確信する。しかしだ、別の見方で言えば――お前は自分で確かめなければ、何事も信じないということだ」


「そんなことはありません。貴方の言葉が信じられないだけです」


「誰の言葉を信じ、誰の言葉を疑う? 百万の真実の中の一つの嘘。百万の嘘の中の一つの真実。どちらもあり得るし、見分けるのは不可能だ。つまりだ、俺が何を言いたいかといえば――」


「僕に何も話すつもりはない」


「違うぞ少年。それが愚かだと言うんだ。いいか、俺が言いたいのはつまり――お前は何事も、自分の目で見つける必要があると言うことだ。〈黒女〉の正体、黒薔薇会に山羽美千代の行方、それとロシア連中――」一瞬の動揺を見逃さなかった。レヘイサムは人差し指を利史郎に向ける。「それは明かしていないはず? あぁ、だが俺は知っている。これは裏を取る必要もない事実だな。『レヘイサムは胡散臭い連中を全て知っている』。しかしこれは鍵にならないぞ。だが――そうだな。いいことを教えてやろう。信じるか信じないかは好きにしろ。だがな、これは俺の本心だ。いいか? 『俺はお前に、全ての真実を見つけてもらいたいと、心から願っている』」


 俺はお前に、全ての真実を見つけてもらいたいと、心から願っている、だって?


「ならば教えてください。彼らは何者で、何が起きているんですか」


 チッチッチ、と舌を鳴らし、突きつけていた人差し指を左右に振った。


「俺が言っても迷うだけだろう。違うか? 物事を整理しろ。そうすれば疑いようのない事実が見えてくる。お前が馬鹿でなければな」


 何か、酷く疲れた。


 利史郎は目眩を感じ、踵を返す。もはや、どのような言葉も浮かんでこない。しかしレヘイサムに弱みを見せるのも癪で、無理に背筋を伸ばして毅然として去ろうとする。その背中に彼は、最後の言葉をかけてきた。


「時間がないぞ少年! 困ったことに、何をするにも時間が足りない! ほら、山羽美千代の命運を握っているのはお前だ! 急げ、急げ、走るんだ!」


 乾いた笑い声に、後ろ髪を引かれる。だが利史郎は無理にそれを振り払い、牢屋を後にした。

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