二章 或る令嬢の行方

1. 山羽二郎の死

「ご覧の通りだ」


 牧野警部は空の棺桶を指し示す。蓋は台の脇に転がり落ちていた。一面に黒い染みが付いていたが、さほど臭いは残っていない。


 警察病院は警備が硬いとは言いがたい。木造の三階建てで、周囲は壁に囲まれているとはいえ守衛も特にいない。死体安置所は一階の隅にあり、脇には裏通りに通じる通用口もある。誰かが侵入し人知れず死体を持ち去るのは容易いだろう。せいぜい運ぶのに二人、見張りが一人いれば十分だ。


「誰があんな物を持ち去る。誰だ」


 呻くように言った牧野警部に、利史郎は周囲を改めながら尋ねた。


「最後に確認したのは?」


「運び込んだのが今朝だろ? それから二、三時間はどうにか調べられないか四苦八苦していたらしいが、臭いをどうにかしないと駄目だってことで、ガスマスクの手配をしてあとは放置していたらしい。それで遅番の奴がどんなもんかと見ようとしたら、消えているのがわかった。一、二時間ほど前だ」


 懐中時計を取り出し眺める。もう午後の三時だ。


「では今日の午前は、まるまる盗まれる可能性があったということですね」


「どうかしらね、それは」言ったのは、入り口の引き戸を改めていた知里だった。彼女は後ろ手に手招きする。「ちょっと、少年探偵なら虫眼鏡持ってるでしょ」


 何だろうと思いつつ、鞄から取り出し知里の注視している部分を覗く。すると薄くニスが塗られた戸板に、煤のような手の跡が残っているのがわかった。鼻を近づけて嗅ぐと覚えのある異臭がする。


「犯人の手形ですね」巻き尺を取り出し、大きさを測る。「160ミリ。男にしては小さい。身長は百五十前後でしょう」


「〈黒女〉の身長は?」


 目を向けられ、牧野警部は手にしていた書類をめくった。


「えぇと――百四十八とある」口の端を歪めて見せる知里に、警部は大口を開いた。「まさか、死んでなかったとでも言いたいのか? 自分で歩いて逃げたとでも? なんでまたそんな――」


 確かに、突飛な推理ではある。しかしその可能性を示唆する証拠が、利史郎の鞄の中に眠っていた。蠢く黒い粘液――


「では、次は山羽二郎氏です」


 報告によると、山羽二郎の遺体は正午頃に発見されたという。場所は埠頭にある倉庫の一つで、彼が運転手と別れた場所からそう離れていない。


 現場についた頃はもう日暮れが近くなっていて、警察は付近の数カ所で篝火を焚いていた。その橙色の光に照らされているのは、うつ伏せで倒れている山羽二郎だ。学校の体育館ほどの大きさがある倉庫で、内部には大小様々な木箱が積まれている。二郎の遺体はそのただ中にあり、四、五人の警官が様子を窺っていた。


 傍らに立ち遺体の全体を見下ろす利史郎に対し、知里は屈み込んで顔を覗き込む。


 見たところ着衣に乱れはない。口の端に泡が浮いていた形跡がある。目は大きく見開かれており、苦悶の表情を浮かべていた。目に見えてあるのは額にある傷だが、出血はほとんどない。恐らく倒れて床に打ち付けた時に出来たものだろう。致命傷とは考えがたい。


「死因は心不全のようですが――事件に巻き込まれ何かしらの行動を起こしていた人物が、急に自然死するでしょうか」


 見立てを口にした利史郎に、牧野警部はため息交じりで応じた。


「精神に負担がかかれば、こういう死に方をしてもおかしくはない。曰く頓死とか憤死というやつだ。しかしまぁ――今回の事件に関して言えば、自然死というのは限りなくあり得ないだろうな。何らかの毒物か?」


「〈黒女〉と一緒に死んでた男――石川って地質学者も、口に泡を浮かべてたわね」


「関係あるのか?」


 知里はただ頭を振る。牧野警部は混乱した様子で黙り込んでいたが、ふと思い出したように手帳を取り出し言った。


「警官が一帯の倉庫を改めている時に不審な連中がここから出てくるのを見かけ、呼び止めたが逃走された。それでここに入ってみると死体があったと。逃げたのはガスマスクの二人組で――」


「ガスマスク? ロシア製の? それで逃げたのはゼンマイ二輪で?」


 言った知里に、牧野警部は手帳を閉じつつ言う。


「何故知ってる。一体どうなってるんだ」


 倉庫の所有者は山羽重工自身で、古い型の売れ残りなどを保管していたという。総務部によればほとんど使われていなかったはずで、そもそも誰が管理しているかもよくわからないらしい。利史郎は牧野警部の説明を聞きながら、遺体の詳細を改める。目には軽度のうっ血。鼻の中は帝都の人間の類に漏れず、黒く汚れている。他にはこれといった異常は見当たらず、次いで洋服に手をかけた。イギリス製の高級品だ。財布には百円ほど入っていたが手つかず。仰向けにすると、懐からこぼれた懐中時計が壊れていた。倒れた弾みだろう、午前十時で停止しているから、運転手と別れて三時間ほど経過している。内ポケットには豆手帳が入っていた。暦は仕事の予定でびっしりと埋まっていたが、所々に気になる印が残されていた。


「R、とありますね。半年前から三度。明日にも付いている」


「ロシアのR?」ふん、と知里は鼻を鳴らした。「符丁にしては工夫がなさすぎる」


「これは何でしょうね。Rの下に、三号、二基。二号、二基。明日は三号が二基とある」


 ふと倉庫全体を見渡す。すると篝火で照らされた入り口付近に、人の背丈ほどある真新しい木箱が二つ置かれているのが見えた。かなり厳重に梱包されている。牧野警部は早速部下に命じて、箱の解体にかからせた。間もなく蓋が開かれ、藁が一杯に詰められた内部が露わになる。


 利史郎は箱の中身に見当がついていた。そしてやはり――藁の中から現れたのは、帝国山羽重工製三号オリハルコン蒸気機関だった。政府の許可がなければ売り買い出来ない、戦艦にも搭載される大出力の代物だ。一基でもざっと百万円はくだらないだろう。それが山羽の内部の人間にすら知られていないような倉庫に、二つも放置されている。


 その黄金色に輝く大きな機械を眺めつつ、牧野警部は呟いた。


「密輸か」


「山羽二郎はロシアに何らかの弱みを握られ、禁輸措置のとられている高出力のオリハルコン蒸気機関を密輸出していた? 死んだ田中久江や、失踪している山羽美千代さんもグルだと?」


 首をかしげつつ言う利史郎に、牧野警部は勢いに乗って応じた。


「そうだ。取引にはロシアと親交のあった黒薔薇会とかいう集まりが関与していた。しかしそこで何らかのトラブルがあった。きっと仲間割れだろう。田中久江が山羽美千代に殺され、事態を察知したロシアは証拠隠滅のためガスマスクの男たちを派遣、二郎は毒か何かで殺された。なにしろロシアは暗殺に長けているし――田中久江の遺体を持ち去ったのもロシアだ」


「それは確かに筋の通るお話ではありますが――いや、違いますよ警部。それは違います。だいいちロシア大使館は関与を否定している」


「そりゃ否定するだろ。とにかく国際問題となるとウチの管轄じゃない。高等警察に相談せんと。二号機関が二基だって? 千代田に積んでる代物じゃないか。冗談じゃない」


 牧野警部はトレンチコートを翻して外に出て行く。しかし利史郎は二郎の遺体の脇に屈み込み、動くことが出来なかった。帽子を取って頭を掻いていると、知里が上から見下ろしつつ言う。


「〈黒女〉?」


 相変わらず単刀直入だ。利史郎は立ち上がり、彼女を外に促す。


「えぇ。二郎氏を殺したのは田中久江ではないかという可能性を考えていました。しかし現状、それを裏付ける証拠どころか、そう推理する根拠すらない」


「そのようね。でも私も、そう思えてならない」


「正直に言いましょう。僕は非常に――何て言ったらいいのか。危惧しています」


 立ち止まって言った利史郎に、知里は相変わらずの冷たい顔で応じた。


「何を?」


「二郎氏を殺したのがロシアであろうと〈黒女〉であろうと、彼らは――それらは――山羽美千代さんを追っているに違いありません。ですが僕は彼女が何処にいるのか、そもそも何に巻き込まれているのかすら把握できていない。事件の展開に全く追いつけていない状況が続いている」


「それって――危惧というより、不安なんじゃ?」かもしれない。「ていうかさ、ほら、探偵小説であるじゃない。殺人事件があって探偵が出てくるんだけどさ、結局容疑者の大半が死んじゃって、それで残った二、三人の中から犯人を突き止めて、それで名探偵だ凄い! ってなるやつ。そういう経験ってないの?」


「僕はそんな酷い探偵ではありません。どうにかして美千代さんは守らなければ――」


「なんで?」


 意外すぎる問いに、知里を凝視した。考えてみると彼女らしい言葉である気もするが、いずれにせよ簡単に吐いていい言葉ではない。利史郎は感情を抑えられないまま非難の言葉を口にしかけたが、知里はそれを直前で遮って言った。


「いくら名探偵だって、人の出来る事には限界があんのよ。それを弁えないと、いつかぶっ壊れる。私ら何時間起きてる? もう四十時間くらい? 寝ないとイライラするし視野も狭くなる。違う?」


「それは否定しません。ですが――寝る前に、もう一カ所だけ行きたいところがあります。知里さんは先に休んでいてください」


 そう利史郎は待たせていた馬車に向かったが、結局知里もため息を吐きつつ向かいに乗り込む。


「それで何処に行くの?」


「そうですね――鳥はお好きですか」


「鳥?」


 何事も知った風に装うのが得意の知里であっても、さすがにこれは反応が難しかったらしい。利史郎はようやく楽しい気分を取り戻し、笑みを浮かべながら御者に新宿へ向かうよう指示した。

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