12. 増殖する謎

 ロシア大使館はその帝国の風を受け、何物も絢爛豪華だった。壁には歴代皇帝の肖像画が掲げられ、金箔の縁取りが欠かされず、ペンや文鎮一つをとっても宝飾品のような仕立てになっている。利史郎も決しておしゃれではなかったが、最低限の清潔さを保っているつもりだった。しかしこの煌めく装飾の海に投げ込まれると、どうにも自分がみすぼらしく感じられてならない。


 この外交官もロシア貴族に連なる人物なのだろう、白い巻き毛のカツラを被り、青い天鵞絨のチュニックを身に纏い、金で鍍金された眼鏡を鼻に乗せている。彼は利史郎が示した五人の写真を眺め、ロシア帽を被った中年男性に指を置きつつ言う。


「彼は帝国科学アカデミー所属のアレクセイ・ミヤコン。皇帝の命による新型飛行戦艦の開発を主導していましたが、昨年急死。その後始末をしていた際に、彼が密かに設計図を複写し、何者かに渡していたことが発覚したのです。そしてこのナタリア――田中久江と名乗る女はミヤコン邸で住み込みの女中として働いており、アレクセイが危篤になった途端に失踪。行方を探っていました。どうやら本当は日本人らしいという所までは掴んでいましたが――」


 利史郎はなかなか、彼の言葉を飲み込むことが出来なかった。ここのところ話の何もかもが、想定の逆の方向に進んでしまう。


「ロシアは彼女の雇い主ではなく、被害者だと仰るのですか」


 辛うじて言った利史郎に、外交官は頷いた。


「桜田門には何度も相談しています。まぁナタリアが日本の密偵であれば――当然、その可能性が高いと我々は思っていますが――捕まえてくれるはずもないでしょうがね。ともかく我々を疑う前に、内部で確認されるべきでしたな」


 知里の様子を窺う。相変わらず不貞不貞しい顔をしていたが、どこか決まり悪そうな表情を浮かべつつ言った。


「それで独自に調査をして、田中久江に辿り着いた?」


「別に辿り着いてはいません。ただナタリアの風貌に似た女の死体が出たと聞いて、詳細情報の依頼をペリーエフから川路大使に――」


「そして彼女の家に、ガスマスクの男二人を派遣した」


 外交官は口を噤み、首をかしげた。


「そんな話は知りませんな」


「そんな馬鹿な」


 時には知里のこうした挑発的な物言いも効果的だが、彼には全く効果がなかった。冷たい表情を更に冷たくし、簡単に応じる。


「証明しろと言われても不可能ですが、私は知りません。だいたいガスマスクなんて物、我々の文化ではありません」


 それで利史郎は、何かで読んだ記事を思い出した。


「そう、ロシアではガスマスクは分離主義者――そちらでは赤軍と言うんでしたか――の好む物でしたね。ひょっとしてこのミヤコンという人物は、赤軍との繋がりが? だから死後、綿密に調査された?」


 初めて、外交官の表情が変わった。片眉を上げ、眼鏡を外し、ポケットに収める。


「あなたは――川路大使のご子息だとか。探偵として有名と聞いています。我々も桜田門ではなく、あなたに相談するべきだったのかもしれない。そう、確かにアレクセイの親族に赤軍の大物がおり、我々は常に監視を行っていました。結局証拠は出ませんでしたが、色々とわかったこともあります。例えば――」と、彼はミヤコンと一緒に置いた五枚の写真のうち一枚を指した。田中久江と同時に死体が発見された、中年で白髪交じりの髭の男だ。「彼は石川成文、地質学者です。シベリアの炭田開発のために雇われていましたが、ときおりアレクセイの元に訪れていました。地質学者と飛行船の設計者。どういう繋がりがあったのか――この女が一緒だったこともある」と、山羽美千代を指した。「山羽男爵のお孫さんでしたな。山羽は我々と商売をしてくれませんので、アレクセイにどういった用があったのか知りませんが」


「他に、見覚えのある人物はいますか」


 差し出された残りの二枚を眺め、外交官は首をかしげつつ言った。


「この男――確か岩山といって、赤軍との繋がりが疑われた男に似ています」坊主頭で首が太く、浅黒い中年男だ。「店をやっていて、長岡でロシア軍の放出品を仕入れたりしていたようです。それこそガスマスクのような――それで目を付けられたんでしょうな。その後どうなったのか知りません。まだ生きてるのかどうか――」


「その店の名は?」


 外交官はメモを一枚破り取り、器用に漢字で〈二十世紀堂〉と記し、利史郎に差し出した。


 利史郎はそれを受け取り立ち上がって礼を述べたが、どうにも奇妙な感覚が拭いきれず、部屋を出る直前になって振り向いた。


「最後に少し、よろしいですか。ミヤコン氏は急死したとのことですが、死因は?」


「心臓の問題だったようです」


「なるほど」


 その質問は、本題を躊躇った結果浮かんできた些細な問題だった。本当に問いたかったのは――


「あの、えっと――どうもお宅、協力的すぎるような気がするんですが。私の気のせい? 外交官ってのは、もっと、こう――面倒な駆け引きをするのが普通なんじゃ?」


 同じ事を知里も感じていたらしい。しかし鋭いナイフを突きつけられても、外交官の表情に変化はなかった。


「あなたがたと駆け引きをして、我々が何を得られるのです。何か機密情報をお持ちで?」知里は口の端を歪めて見せる。それを確認してから外交官は続けた。「ならば情報をお伝えして、ナタリアをさっさと捕らえ、我々に引き渡してもらえる可能性に賭けた方がいい。それだけです」


 ノートを閉じ、凜とした表情を向けた。それで利史郎は頭を下げ、大使館を後にした。


 二人の警官が警護している門を離れ、行き交う馬車を避けて道を渡る。そこでようやく知里は口を開いた。


「嘘を吐いてるようには見えなかったわね」


「えぇ。しかし――外交官というのは面の皮が厚いものです。わかりませんね。それで、田中久江は日本の密偵ですか」


 知里は口を噤み、呆れたようにしながら応じた。


「密偵の事なんて、私が知るはずがないじゃない。牧野さんだって無理。桜田門でも警視監クラスじゃないと」そこで時折見せる嫌らしい笑みを浮かべた。「お父さんに聞いたら? それが一番手っ取り早いと思うけど」


「父も知らないと思いますけどね。そういう寝技は嫌いな人ですから。しかし――どうも気に入りません。話がどんどん複雑になっている。このまま不用意に動いては、とてつもない過ちを犯すことになりかねない」


「――それ、関係ある?」


 唐突に言った知里に、利史郎は戸惑った。


「と、いうと?」


「正直、田中久江の事は二の次でしょ。私たちの仕事は山羽美千代の捜索。彼女はあの臭い地下から、何処に逃げたの?」


「確かに、それが一番の問題ですが――」


「なら、彼女が関わってた〈黒薔薇会〉を当たるだけ。違う?」


 と、知里は未だに利史郎が手にしたままだったメモを指し示す。


 それはわかる。しかし今抱えている謎の総量は、明らかに利史郎が即興で対処できる範囲を超えていた。黒薔薇会とは何なのか。田中久江は何者なのか。彼女の住処を漁ったガスマスクの男たちは誰なのか。それは五帝国の外交、そして五帝国が共通して抱える分離主義者の問題とも繋がっているかもしれない。


 やはりまずは一度落ち着いて、枝葉を調べ裏を取った方がいい。


 そう提案しかけた所で、二人の脇に警視庁の紋章が描かれた馬車が停まった。扉を開いて顔を出したのは牧野警部で、彼は酷く安堵した様子で二人を手招きした。


「良かった捕まって。乗れ」


「何です」


 尋ねた利史郎に、牧野警部は神妙に言った。


「死体が消えて、死体が増えた」


「――何のことです?」


「死体が消えちまったんだよ、〈黒女〉の!」


「消えた? 一体何故」


「わからんよ! それに山羽二郎が死体で発見された。それは横浜だ。どうする?」


 そうだ。それを忘れていた。山羽二郎は何処に消えたのか。謎は解消されるどころか、増える一方だ。


「死体は警察病院に安置されていましたよね。ではまずそちらにに」


 知里と共に馬車に乗り込むと、憔悴した様子の牧野警部は御者に富士見へ向かうよう指示した。

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