11. 時計の部屋
室内に動く物はなかった。いや、大きく動く、というのが正しいか。利史郎が最初に目にしたのは、無数ともいえる時計だった。振り子がゆらゆらと左右に揺れ、秒針がカチカチと音を立てて動き、文字ドラムがじりじりと回っている。そこは薄暗い十畳ほどの部屋だったが、壁や棚には様々な型の時計が並べられていた。加えて反対側の壁にはゼンマイ式のカラクリ人形や熱灯籠といった物が数十は置かれていて、塗装の剥げかけた古い日本人形が不気味な笑みを向けている。
利史郎は銃をしまいつつ、部屋中を眺め嘆息した。
「ちょっとした華族のコレクション並です」
「高いの?」
興味なさそうに尋ねる知里。利史郎は床に直接置かれた大きな天球儀のような装置に近寄り、その細部を眺めた。瑠璃や金の鍍金が施されていて、一目で高価な物だとわかる。
「これは――江戸時代に作られた万年自鳴鐘じゃないでしょうか。僕も文献でしか読んだことがありませんが、本物だとすれば国宝並です」
「問題は、どうしてそんな物を華族でもなく身寄りのない秘書程度が持っているのか」
「そして、どうして侵入者は盗んでいかなかったのか」
「それは価値がわからなかったか――」
「もっと重要な何かを探していたということですね」
知里はコレクションの間に埋もれたようにしてある書き物机を改め始める。見るからに何者かに荒らされていて、引き出しという引き出しが引っ張り出されている。利史郎が寝室に通じる扉を開くと、そちらもやはり荒らされていた。ベッドのマットはひっくり返され、クローゼットからは服という服がかき混ぜられている。ざっと見る限り服の量は一般女性に比べて多いようだった。フォーマルからカジュアルまで、様々なタイプが揃っている。それらを一通り片付けつつ改めたが、目立ったところはない。続けてベッドの下や壁、床の具合を確かめていく。するとベッドの脇の空に近い本棚に奇妙な点を見つけた。頻繁に動かされたような傷が床に付いている。
縁に手をかけて動かす。やはり本棚は相当に軽く、隠された背後の壁には様々な紙片が貼り付けられ、互いに糸で結びつけられていた。
「――何?」
様子を察して現れた知里が、背後から問う。利史郎は二、三十枚ほどある紙片を改めつつ答えた。
「〈狂人の壁〉――西洋では、そう呼ばれています。僕はあまり効果的な方法とは思えませんが、無数の要素の関連を把握するための手法です」そして中央に置かれた五枚の写真を指し示す。「これは僕が美千代さんの部屋で見つけた写真に写っていた五人です」
美千代自身も存在していた。何処で撮られた写真だろうか。眼鏡に白衣姿で髪を上げ、特徴的な額をあらわにしている。
その五人の写真と結びつけられているのが、チェルニー・ローザのチラシだった。キリル文字が並ぶ日焼けした紙には〈黒薔薇会〉という文字が書き加えられていて、二重線で強調されている。
「黒薔薇会、ね。何かの秘密結社?」
「ただの科学の同好会かもしれませんが――美千代さんもそこに所属していた」
その山羽美千代から伸びている線は二つあった。一つは見覚えがある。彼女の父親、山羽一郎の写真だ。もう一方は世界地図上のピンに結びつけられていた。蝦夷、CSA南部、ペルシャ、マレーシア。
「彼女が出張に出ていた地域ですね」
言った利史郎に、知里は唸った。
「この女の狙いは何? ただ誰かに雇われている訳じゃなさそうだけど」
そして五人の写真に、純に指を当てていく。最初に山羽美千代。次が田中久江と一緒に死体で発見された髭の男。ここまでは見覚えがあったが、続く三人の正体は不明だ。
褐色の肌をした中年男。坊主頭で、針金のように硬そうな短い髭を蓄えている。軍人か肉体労働者のように見えるが、であれば面子として不自然だ。何かの職人と見た方がいいかもしれない。
次は坊主男の対極にある痩せた男。頭が薄く眼鏡に白衣姿で、見るからに学者風だ。
そして最後の一人は、唯一の西洋人だ。四、五十くらいの太った男で、頭にロシア帽を乗せている。さらにその男は、見覚えのある顔と結びついていた。新聞から切り抜いた物だろう、太った丸顔の男、五帝国会議ロシア全権大使、ペリーエフ伯爵だ。
「ホントにロシアが関係ある?」
疑わしそうに知里は言う。利史郎は首をかしげつつ鞄から写真機を取り出し、新しい電球を装着した。
「うわっ、さすが男爵探偵、そんな高い物まで持ってるんだ」
冷やかす知里を片手で遠ざけ、装置を構えた。
「一度しか撮れませんから、お静かに」
息を詰めシャッターを切る。所詮は実験的な写真機だ、閃光を発した電球のフィラメントは一度で切れてしまう。利史郎は熱が冷めるのを待ってそれを取り外し、次いで露光紙を引き抜き振って乾かした。さすがに写真家のようにはいかないが、全体の配置がわかる程度のものは撮影できた。早速壁に貼り付けられた全ての資料を外し、ファイルに収める。
寝室の奥に、もう一つ扉がある。開くと中はタイル張りのバスルームだった。この手の集合住宅には珍しい。元はそれなりに高級なレジデンスだったようだ。今は動いていないが、圧力管での給湯設備も備えられている。
利史郎は扉を開いた瞬間から、覚えのある臭いを嗅ぎ取っていた。しかし洗面台には異常はない。次いで浴槽を改めると、その底には僅かに黒い液体が溜まっていた。胸ポケットにさした万年筆で掬うと、やはり粘り気があり絡みついてくる。量が少ないからか、それとも未だに鼻が麻痺しているからなのか、臭いはそれほどでもない。探偵道具が入った鞄から瓶を取り出し、慎重に納める。
そしてそれを再び鞄に収めようとしたとき、妙な感触がした気がした。改めて目の前に翳し、凝視する。
「何?」
様子を見守っていた知里に尋ねられ、利史郎は眉間に皺を寄せつつ応じた。
「さぁ。何かが――」
その時、はっきりと何かが起きた。コルクで蓋をした50ミリリットルの瓶に、半分ほど溜まっている黒い液体。その表面が急に盛り上がり、ペンの先ほどの触手となって瓶の内面をパチンと叩いたのだ。
さすがに驚き、指先から瓶が滑り落ちた。知里が慌てて脇から手を伸ばし、辛うじて落とさずに済む。そして二人で息を飲みつつ瓶の中を凝視したが、一分ほどしても同じような事は起きない。
「僕の気のせいじゃ、ありませんよね?」
念のために尋ねると、知里は何度も頷いた。
「動いた。確かに」
「〈黒女〉が流していた黒い液体は――」
「動けば牧野さんが真っ青になって言ってくる」
それは確かだ。だとすればこの液体は、〈黒女〉が垂れ流していた物とは別ということだろうか。とにかく瓶はハンカチで何重にも包み、慎重に鞄の底に収める。
結局他に目に付く物はなく、侵入者の目的は何だったのか、何かを持ち去ったのかは不明だった。しかし床の上に、辛うじて彼らの物らしい足跡を発見する。踵のしっかりしたオランダ製の開拓ブーツで二種類あり、サイズはどちらも26から7だった。
もしやと思い外に出てみると、先ほどの少年がまだ同じ位置で座っていた。尋ねてもやはり仏頂面を向けられるだけで、五十銭硬貨でも、一円札でも反応がなかった。仕方がなく五円札を差し出すと、それでようやく彼は口を開いた。
「一時間くらい前だ。ありゃロシア人だ。顔は見えなかったけどよ」
「と、いうと?」
「ガスマスクしてた。鼻が長くてホースが付いてる。ロシアのやつだ。そんな臭かったら来んなってのに」
その二人組は三十分ほど中にいて、出てくるとゼンマイ二輪で去って行ったという。車種は不明。
「ロシア人がオランダのブーツ?」
「気に入りませんか」
何か忌々しく呟く知里に尋ねると、彼女は改まったように利史郎に向き直り、人差し指を立てつつ言った。
「この事件は、何かが普通じゃない。田中久江って名乗る〈黒女〉――アレは怪人なのか何なのか――妙な女だってのに、証拠が悉くロシアが関係してると言ってる。秘書の女、〈狂人の壁〉、ガスマスクの二人組。でもロシアなんて、五帝国でも真っ先に潰れそうな帝国でしょ。貴族は共和国以上に堕落しきってて資源も枯渇しかけてる」
「確かにロシア風ではありませんね。しかし確かめる必要があります」
例によって知里は鼻で笑い、皮肉に満ちた口調で言った。
「どうしようっての? ロシア大使館にでも問い合わせる? お前らが〈黒女〉を雇って何か企んでるんだろう、って?」
「まさに」
知里は疑いの目を向けてきたが、利史郎は本気だった。すぐに汽車に乗り新橋まで戻ると、田中久江の住処の詳細な調査を牧野警部に依頼し、次いで赤坂にあるロシア大使館に向かう。
当然、知らぬ存ぜぬを通されるだろう。しかしその微妙な反応からでも関与の度合いが推し量れるものだ。
利史郎の目的はそれだったが、現れたロシアの外交官は思いがけない反応を見せた。
「確かに、田中久江と名乗る女について、我々も関心を寄せています」
まさか認められるとは思っていなかった。利史郎は言葉を失い、ただ、へぇ、と気の抜けた声を返してしまった。
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