10. 田中久江という女

 山羽二郎に白羽の矢が立てられた。


「二郎は帝国山羽重工の後継者の地位を確たる物にするため、秘書を使い嫡流である美千代を害しようとした。そんなところか」


 さすがに牧野警部であれば、その根拠の薄い推理を信じているわけではないだろう。だが警察としては、とりあえず疑わしき存在を確保するのが基本的な捜査になる。早速山羽二郎の元に警官が送られたが、やはり、というべきか、不可解な事に、というべきか、二郎は行方をくらましていた。細君によると、朝の新聞を読んでいたら突然飛び上がり、慌てて出て行ったという。彼は運転手付きの自社製蒸気車で通勤していたが、それは昼までに横浜港で発見された。突然警官隊に包囲されて怯えきってしまった運転手によれば、二郎はここで待つよう言い残して、倉庫街の方に向かったという。


 この手の捜索は警察に任せるのが一番だ。利史郎は別行動を取り、山羽重工の人事部へと向かう。


 不可解だった。牧野警部の推理に疑問符を付けたが、やはり〈黒女〉は怪人なのではと思っていた。しかしあの黒い異臭の血を流していた女は、確かに普通の人間として帝国山羽重工には登録されていた。


 ファイルキャビネットの比較的浅い所から引っ張り出されたその書類には、田中久江の略歴が記載されている。2050年3月19日生まれ、27歳。平民だが英語が堪能で、三菱商店に入社後、ロンドン支店勤務中に二郎と出会い、引き抜かれたとある。現在の職務は専務の第三秘書だ。


「妙ね」


 不意に背後から声がして驚いた。知里が後ろから書類を覗き込んでいる。


「二郎氏の捜索に加わってるのだとばかり」


 知里は書類を横取りし、眺めつつ応じた。


「私の仕事は美千代の捜索。見て。本籍や家族構成の欄が空白。天下の三菱や山羽が、そんな怪しい人間を採用する? いくら重役の愛人でも」


 そこに利史郎も引っかかっていた。


「確かに。しかし愛人と決めつけるのは如何なものかと」


 二郎の執務室は数人の警官で捜査されていた。彼らはそれが何なのかもわからないままに書類を集めメモを漁っていたが、血縁とはいえ帝国を支える企業の専務を務める人物だ、そう易々と見つかる場所に何らかの証拠を残しているとは思えない。利史郎は何もかも目茶苦茶にしようとしている警官たちに戸惑っている第一秘書を捕まえ、話を聞く。いかにもインテリの行き遅れらしい和服に眼鏡の彼女は、遠回しに尋ねた知里の決めつけについて、強く否定した。


「あり得ません。彼女は立場を弁えていない女性です」


「立場を、弁えていない?」


「えぇ! 秘書だというのに専務に平気で意見して。それは海外との交渉ごとは全部彼女が担当していましたけれど、身の程を知らないのですわ。専務は彼女に何か弱みでも握られていたのではと思うほどで。一度しっかり話した方が良いとお伝えしていたのですけれど、まぁいずれと仰るばかりで。きっと今度の件も、彼女が勝手に何か仕出かして、専務はそれをどうにか庇おうとしているだけなのに違いありませんわ」


「何か、握られてしまうような弱みがあったようですか。女性関係とか?」


「とんでもない! 専務は本当に愛妻家で」確かに机上には、複数の家族写真が飾られていた。「ですから何かあったとすれば――仕事関係、ロシアですわ」


 唐突に出てきた帝国の名前に、利史郎は知里と目を見合わせた。


「何故、ロシアが?」


「彼女、よく私たちに知られたくないような話はロシア語でしていました。わかるの、彼女と二郎さんだけだったので。それが悔しくて、私も学び始めましたの。それで最近は少し聞き取れるようになって。よく出ていましたの名前が。確かペリーエフと。そろそろ渡さないといけないとか。いつまでも待てないとか」


「それを聞いて、二郎氏は?」


「困られているようでした。考えておくとか。そんな風に答えていましたわ。ちょっとそれ以上は。まだ私も初級を終えたばかりなので」


「山羽重工は、ロシアとの取引は結構あるんですか」


「それは――」と、言葉を探して宙を見上げた。「ここのところ満州や山東半島の件で、あまり関係がよろしくありませんでしょう? ロシアとは。それで輸出出来るのは百馬力以下の機関だけになっていて、あまり――今は主にBAWから買ってるようですわ。でも彼らのオリハルコン蒸気機関は二十気圧程度の物なので、発圧所向けにもあまり能力があるわけでもなくて、私たちの三十気圧級の機関の方が断然優秀――彼らのは爆発事故も多いですし、通常戦艦や飛行戦艦用にしても重すぎて――」


 愛社精神を見せる彼女の話を聞き流しつつペリーエフという名を手帳に記し、利史郎は別のことを尋ねた。


「二郎氏、それと田中久江さんは、美千代さんと親しかったですか」


「美千代さんって、一郎様の娘さんの? いいえ、特に話に出たことはありませんわ」そして再び目尻に皺を刻みつつ、続ける。「皆、勝手な事ばかり言っていますけれど。専務は本当に私たち従業員のことを大切にされていて。社長や一郎様はお金の使い方が適当すぎると。そんな先のわからない物を研究するのに金を使うくらいなら、従業員に配った方が何倍もいいと。良く仰ってました」


「どこまで本当なんだか」


 部屋を後にした途端に呟いた知里。利史郎も同感だった。


「しかし、ロシアの件は興味深いですね」


 知里はただ、ふん、と鼻を鳴らして応じる。どうにもそれが気になり、辻馬車を捕まえて書類にある田中久江の住所に向けさせてから、利史郎は考える。


 ふと窓の外に、藍色の塊が浮かんでいるのに気がついた。横浜港の上空だろう、付近を漂う飛行船の倍近い大きさで、遠目に見てもわかるほど巨大な砲塔が前後左右に備えられている。ラジオで報じていた新型飛行戦艦だろう、その上部に設けられた物見台には数個の小型飛行船がワイヤーで結びつけられており、さながら遊園地の風船の束のようだ。


「五帝国体制とは、塹壕と要塞という防御側の優位性が生み出した安定だと言われています」


 同じ物を見上げていた知里は応じた。


「何の話?」


「攻撃側は防御側の十倍の火力が必要だとも言われています。だから戦争を仕掛けても、勝てない。それで渋々五帝国会議が作られた。しかし五帝国が手と手を取り合って進歩をするという体制が形作られた訳ではない。各地では代理戦争や小競り合いが続き、飛行戦艦や潜水艇の開発競争が行われ、密偵による情報戦が繰り広げられている」未だに蒼い千代田を眺め続けている知里に、利史郎は身をむけた。「僕も一度、ロシアによる新型潜水艇設計図盗難未遂事件を扱った事があります。結局それを企てた密偵は捕らえられませんでしたが――しかし五帝国は互いに、進んだ科学技術を奪い合っている。ご存じですか?」


 少しの沈黙の後、知里は鼻で笑った。


「小学校もまともに出てない蝦夷の巡査が、そんなこと知るはずがないじゃない。つまり何? 田中久江はロシアの密偵だったって? それで美千代が隠れて研究してた新型の〈機関〉を狙って、返り討ちにされた?」


「可能性はありませんか。ペリーエフとは、五帝国会議のロシア全権大使と同じ名前だ」


「そうなの? でも、私に聞かれてもわかんないわ」素っ気なく答えたかと思うと、急に怪しげな笑みを浮かべ利史郎に目を向けた。「だいたい私は、五帝国体制は急に現れたDloopを怖がって作られた物だと思い込んでたけど?」


「――そういう説もあります」


「ま、石炭不足に苦しんでるロシアが、少しでも効率のいい〈機関〉を欲しがるのはわかるけど。どうかしらね」


 とても小学校しか出ていない蝦夷の女性に出来る考察ではない。


 どうにも、彼女が外交に関わる政府機密を知りつつ隠しているのではという気がしてならない。いくら牧野警部から付けられた警察との連絡役とはいえ、こういう協力者ならいない方がましだ。今度会ったときに問いただそうと考えていた時、馬車は日も差し込まない裏路地で停まった。どうやら古い集合住宅が集まる一帯らしい。舗装もされていない地面は泥で泥濘んでいて、四、五階建てのレンガビルを見上げると、そこかしこに薄汚れた洗濯物や野菜、魚といった物が干されている。


 路上では数人の若者が煙草を手に井戸端会議をし、ボロを来た子供が走り回っている。利史郎は暇そうに道ばたで座り込んでいた少年に書類の住所を尋ねたが、仏頂面を向けられただけだった。仕方がなく五十銭硬貨を差し出すと、一番くたびれた様子の建物を指し示される。中に入ると殆ど住人もいないようで、天井は崩れかけ、通路には埃が積もっていた。ロビーには大きな明かり取り用の窓があったが、汚れて曇り用を果たしていない。


「こんなところに、山羽の重役の秘書が住むでしょうか」


 言った利史郎に、知里は階段に足をかけつつ応じた。


「前にこんなとこ住んでた。保証人を用意出来ないと、この程度が精々ね」


「つまり、二郎氏の愛人説は消えましたね」


 後ろをついて行く利史郎を振り返り、知里は人差し指を向けた。


「さすが少年探偵」


 どうやらそれで利史郎をからかうのが好きらしい。ともかく二階のそれらしい扉の前に辿り着くと、ノックもせずにドアノブに手をかけようとする。しかし彼女は何かを見とがめ、小声で囁いた。


「鍵が壊されてる」


 確かに掛け金部分が破損して、扉が薄く開いていた。利史郎が懐から自動拳銃を取り出すと同時に、知里も鞄から警察正式の南部拳銃を取り出す。そしてハンドサインを受け知里が扉を押し、利史郎が真っ先に乗り込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る